第二話 悪い女より悪い男
駒形黒船町の屋敷で、女が猛り狂っていた。
厚化粧。
裾の長い派手な模様の打掛で、座敷の真ん中に突っ立って、長煙管を振り回し、並びの良すぎるような歯をむいて、鼻にしわを寄せ、目を吊り上げている。
「ふざけてるんじゃないよっ! なんだと言うのさ。ちっちゃな煙玉がぽこんと割れて、もやもやが出ただけで、屏風のひとつも焼けなかったって言うのかい!」
叫ぶ女をとろんとした目で見上げながら、これも派手な長襦袢から細長い脛を出し、絹物の布団に肩肘をついて寝そべっている男は、元は役者の梅中屋春海老という。
枕元の銚子から手酌で一杯注いで啜り、甘ったるい声を出す。
「紫霧どの、まあまあ、そうお怒りなさるな。これは、まだ手始めだよ」
「それだけじゃないさ。聞くところによりゃ、新手のケレンと勘違いした客どもが、連日、押しかけているというじゃないか。これじゃまるで、あべこべだよ!」
「それも手のうちさ。せいぜい満員御礼で、あの蝙蝠の野郎がテングになった時を狙ってよ。ぎゃふんと言わせてやるんだ」
「あてがあるのかい?」
「あるともよ」
「なら、次は信じていいんだね?」
「いいともさ。ほらほら、いい女が、足をふんじばって突っ立ってちゃいけねえ。こっちに来なよ」
「ふん!」と言いながら、紫霧と呼ばれたこの女、この男には弱いのである。
「おっと、酒がもうねえや」と、とぼけた顔をしている春海老を見ていると、くやしいけれど、なんでもしてやりたくなる。
「誰かっ!」と大声を張り上げるまでもなく、すっと襖が開き、若い衆が顔を出す。「お酒だよっ」
「はい、そんな時分かと思いまして。いまちょうど、熱いのが来ますので」と言い終わらないうちにも、別の若い衆が、敷に載せた銚子を運んできた。
ここ黒船町の屋敷は、ちまたでは
女中は一人もおらず、料理人はもちろんのこと、給仕もすべて、若い男、それも十人並み以上のが詰めている。
「それと何か、手早く台の物をあつらえておくれ。そしたらみんな、引けていいからね」
「はい」とだけ返事をして、若い衆たちは下がる。
(へっ、何が《台の物》だよ)と、春海老は腹のうちで思っている。(まあとにかく、ここんちの酒と肴は悪くねえからな。もうちっと、機嫌をとっておくか)
春海老は起き直り、褞袍を羽織る。これも、紫霧が誂えてくれたものだ。散らした梅の小紋に、でっかい海老が横たわっているという、面妖なものだが、金糸銀糸がぜいたくに縫い込まれている。こいつを肩がけにして軽く小首をかしげた姿がいいと、紫霧は目をうるませるのだ。
この紫霧という女の来歴を、春海老はおおむね知っている。
もとは越州の出だというから、根は辛抱強く、人柄はいい。
どこでどうなったものか、板橋宿の岡場所で、そこそこの見世に出ていたのだと、寝物語に聞いた。そこからふっと、聞かされない話があって、あとは江戸での苦労話に続く。
しこしこと縫った袋物を売り歩き、やがてそれが、日本橋の大店にも納められるようになってからは、とんとん拍子で、今があると言う。
(だけれどよ……)と春海老は、にやり笑い。(しょせんは、宿場の女郎じゃねえか。こんな女は、手もなく捻ってなんぼの??俺は、役者稼業さ)
その春海老は、女と博打で何度も舞台をしくじり、今は役もつかない。だが、たまに鏡に映してみる姿は、まあまあかなり、いけているとは思っている。約束事ばかりの本役者に較べれば、楽な暮らしだ。
まして、こんな女旦那をぐるぐる巻きにしておけば、まず食いっぱぐれることは、ない。
焼き魚と蒲鉾なんかが載った膳が、運ばれてきたが、
(こんなのは、うっちゃっておくのがいいのさ)と、春海老は目を逸らす。
いつの間に機嫌を直したのか、紫霧が酒を注いでくれる。
「魚を、お食べよ」
「箸を持つのも面倒なタチなのは、知ってるだろ」
紫霧は魚の身をほぐし、箸に載せて差し出してくる。
「あーんって、しなさい」
「あーん」と、口を開けてやる。
噛んでみれば、生臭い磯魚の、焼き冷ましだ。
(田舎女の田舎屋敷で、田舎くさい魚を食わされてる俺かよ。まあ、毒が入ってないだけ、ましってところだな)と、若衆たちのなまっちろい顔を思い出す。
紫霧が、絶えずに酒を注いでくれるので、
「姐さんもやりなよ」と、すぐに杯を返してやる。
くっとあおる喉元は、二十も四つ五つは過ぎている年増にしちゃあ、色っぽい。
(いや、この年頃が、いちばん熟れていて食い頃なのさ)と、春海老は、思う。
「姐さんと呼ぶのはやめて」
「おっと、そうだったね。紫霧どの」
「《どの》も、要らないよ」
「紫霧……」
「なあにさ」
「いや……なんでもねえさ。呼んでみただけ」
「ヘンな人だね」と、顔を赤らめている女??。
(ここらが、ツボなんだ)と、春海老。
「今回の蝙蝠座の一件、あれが、ヘマじゃないことは、わかってくれるかい」
「もういいよ。あんたにも、何か次の考えがあるんだろうさ」
「《あんた》は、やめてくれねえか」
「じゃあ、なんて呼ぶの」
「俺がおまえを《紫霧》と呼ぶ。で、おまえは俺を……」
「わかったよ……海老ちゃん……」
春海老は細長い腕を伸ばし、紫霧の手を取った。そしてやんわり、引き寄せる。
「紫霧。おれはおまえと添いたいんだよ」
「それは、今っきりのことかい」
「違うね。俺はおまえと、墓の底まで、骨がらみになりたいのさ」
「口の上手い男だ」
「まあ、こっちに来なよ」
行灯の油が、申し合わせていたように、チチチと音を立てて、消えた。
あれから何人もが、玄龍の療養所を訪れた。
小さな子を連れてきて、深々とお辞儀をしていくだけの者もあれば、わずかばかりの漬物や魚を背負ってくる者もいる。菓子や酒を置いていく者もいた。
おずおずと、小さな豆板銀を差し出す者もあれば、袱紗から大金を取り出す、豊かそうな者もいた。
玄龍はそのつど、誰も彼をも板の間に上げ、予後を尋ねるばかりか、顔色まで診てやっている。
(なんて親切な先生なんだよ、ったく……)と思う岩吉だったが、あれ以来、少しずつだが、療養所の貯えも出来てきたのが、うれしい。
近頃では、玄龍が、
「あ、おみやげに……」と言うのを待たず、《麗ノ粉》の試し包みを用意しておくことも怠らない。
この日も岩吉は、包み紙に《玄龍治療処》の印判を捺すのに余念がない。
相変わらず、そこらをちょろちょろしている政次を呼びつけた。
「おい、政次。庭先は掃き終わったのか?」
「うん、すっかりきれいにしたぜ」
「だったらおまえ、例のものを持ってこいよ」
「例のものって?」
「んとにおまえは、馬鹿だなあ。例のものと言ったら、おまえのアレじゃねえか」
「あ、貝殻のことか。なら、そう言ってくれよ」
と言いながらも駆けだしていくのが、そそっかしいのやら、いい奴なのやら。
棒手振で貝を売る政次にとって、剥き身を作ったあとの貝殻は、ちり箱に捨てるのもはばかられる、ゴミなのである。
これまでは河岸に返しても、一文にもならなかったそうだが、河岸の親方は堤防作りの材として、悪くない値段で卸していると聞く。
が、その貝殻が、薬の器としては、なんとも重宝なのだ。
岩吉は政次にいいつけ、よく乾かした貝殻を、大中小、きれいなやつ、さほどきれいじゃないやつ、によりわけさせて、買い上げてやっている。
おっちょこちょいの粗忽者ながら、根が真面目なのか、政次の仕事は誠実なので、そこのところは、岩吉も気に入っているのだ。
すっと板戸が開いて、玄龍が現れた。
「岩吉っつあん、精が出るね」
「なに、ハンコを捺してるだけでござんすよ」
「それそれ。そのハンコのおかげだろう、ここのところ、ずいぶんとお客が多い」
「いえ……」と言いながら、岩吉は、玄龍がその働きを見ていてくれたことに、目頭が熱くなる思いなのだ。
「ところで、だが……」
「へい」
「あの日の芝居小屋での匂い、覚えているかい?」
「へい……」と言いながら、岩吉も忘れていない。「火薬の匂いもしましたが、なんだか松脂のような、青臭い匂いがしましたね」
「そうだろう? 俺も調べてみたんだが、なんだか中途半端な、いたずらだね」
「世間では、蝙蝠座のウケ狙いのケレンと言っているようです」
「なるほどね。いや、実は、そこはあの日、座元の菊池とやらに厳しく問い質したんだが、決してそれはないと言うんだよな」
「あっしの見立てではありますが、あいつは普通の商売人ではないように思えます。どんなソラゴトだって、言いかねませんよ」
「そうだな。岩吉っつあんの言う通りだよな……」
思案顔であごを撫でながら、玄龍は勉強部屋へ戻っていった。
(あれは何か、考えてらっしゃる様子だな)と、岩吉にはよくわかる。(あれっきりでいいじゃないか。先生が何かを考え出すと、また、ややことしいことになるんだから)
なんだかざわめく気持ちを抱えながら、岩吉は印判を捺し続けた。
政次は床屋の奥で、順番を待っていた。
佐賀町の長屋で持てあましていた貝殻を、盤台に山盛りに載せて森下町まで運び、土間で丁寧選り分けて、もらったのが、百文。
(これあ、貝の身を売るより、貝殻を売る方が儲かるってことなのかな)と思案する。
銭を渡すときに、岩吉が怖い顔で言った。
「百文は過分だぜ。ただし、頭をきれいに剃ってないやつは、これから出入りはさせないからな」
だから、言われた通りにしている。
こないだ先生に叱られてから、口は慎んではいるものの、耳だけはどうしても大きくなる。
やっぱりここでも、蝙蝠座の話ばかりが聞こえてくる。
「あの座元の菊池ってえのは、元はと言えば、やくざなんだってな」
「そう。板橋の宿で、かなりの顔だったって聞くぜ」
「やくざだって何だって、金を貯めて、小屋の株を買っちめえば商人さ」
「夜の芝居なんて、そもそも御法度だろうがよ」
「なんの。芝居の話は寺社奉行様の扱いだから、町廻りは関われないのさ」
話に割り込みたい気持ちを、抑えに抑えて、政次は噂に耳を傾けていた。
やっと頭の順番が来て、縁側に座る。
「痛くてもなんでもいいからよ、手っ取り早く、ぞりぞりとやってくれよっ」と言った政次にカチんと来たか、床屋はずいぶんと痛く深剃りをした。
二十文を投げすてるようにして、政次は療養所に走った。
「先生、いるかい!」
「おう政次、男前が上がったじゃねえか」と、岩吉が言う。
「るせいやい!」
「うるせえとは何事だよ。てめえごときが、先生を呼ばわるんじゃねえや」
などと、いつものようなやりとりをするうちに、これもまたいつものように、板の間の間仕切りを開けて立っている玄龍だった。
「おまえたち、ほんとに仲良しだよな」と、笑っている。
「え! こんな野郎と……」と岩吉が言いかけたのをさえぎって、政次が、
「おいら、ほんとに黙って聞いていただけなんですぜ」
「何をさ」
「あの、蝙蝠の野郎、板橋宿の大ヤクザだったって」
「へえ、そうなのか」
「なんだか、ヘビだかマムシだか、とにもかくにも、悪りぃ奴らしいんで」
「そんなに悪い奴なのか」
「ワルもワル、大ワルのやつで、とんでもねえ野郎らしいんです」
「どのくらいとんでもないのだい」
「いや、なんだか、そこんとこはあれのあれだけれど、たぶん、長ドスを振り回して威張ったり、お寺で博打を開いたりと、そういう奴らしいんで」
「そうかそうか。おまえは耳がいいな」と、玄龍は微笑んでいる。
政次は、ちょっと大げさを言ったことに気づいて、耳を赤くし、
「えっと……走ってきたもんだから、頭がこんぐらがって、少し違ってるかもしれないけど……」
「いいさいいさ。大急ぎで走ってくると、そんなもんだよ。で、おまえ、飯を食っていかないか?」
「いや、おいら……今日は帰りやす」
懐にはまだ、岩吉からもらった銭があるから、飲み食いの心配はない。というよりも、なんだか恥ずかしい気持ちでとぼとぼ歩く、政次だった。
(話半分としても……)と思いながら、岩吉は、飯の竈に火を吹いていた。
いつのまにか、玄龍が立っている。
「私もちょっと、吹いてみたいな」
「え、何を」
「その、竹さ」
「まさかに、先生……」
「いや、本気。しょうじき言うと、自分で飯を炊いたこと、ないのさ」
「だからって……」
「まあ、よこせよ」と、玄龍は火吹き竹を岩吉の手から奪いとる。「これは、ぷうぷう吹けばいいのかい?」
「いや、そういうものでもないので……」
「じゃ、どうするのだい」
「……」
「岩吉っあん、飯の炊き方を、教えてくれよ」
玄龍が「岩吉っあん」と呼ぶときは、優しい戯れ。「岩吉さん」とかしこまって言うときは、礼儀正しい敬意のあらわれ。「岩吉」と呼び捨てにするときは、ほんとの仕事だ。
そんな呼び分け、岩吉は、本音のところではいやなのだ。
いつだって「岩吉」と、呼んで捨てて欲しいのだ。
その玄龍が、竈に身を屈めて、竹を吹いている。
「先生……」
「ん」
「炊(かしき)の段取りをお教えするのは、わけもないことですが……」
「うん」と言ったきり玄龍は、竹を吹いている。
「ご用がおありなら、そのとおりおっしゃって下さいや」
背中を向けていた玄龍が、腰を叩きながら、立ち上がり、振り返る。
「いや。私も、迷っているのさ」
「板橋、ですね」
「岩吉っあんには、ぜんぶお見通しだね」
「今すぐ、行きます」
「そんなに急がなくてもいいだろうさ」
「いや、先生。お言葉ですが、先生のアセリが、あっしにはわかるのです」
「そうか……そうだよな。私はせっかちだものな。ハハハ」
「今すぐ出支度をします。その間に飯も炊けるでしょう」
「わかった。頼むよ……岩吉っつあん」
言うなり玄龍は、部屋に戻った。
岩吉には、玄龍が部屋でやろうとしていることが判る。
今からの板橋となれば、岩吉がいくら頑張っても、夜道を走って着くのが、明け方になるだろう。
いくつもの町の門を抜けて行くには、札が必要になる。そのてん、医者が記した急患の書状がありさえすれば、よくよくのことがない限り、どこへでも抜けていける。
炊きあがった飯を一混ぜしたところに、玄龍が書状の束を持ってきた。
「そこらここらの屋敷の名前を書いて、重ねておいたから、順ぐりに出せばいい。万が一の時には、辻から使いをよこしてください」と、療養所の費用とはまた別な、粒の銀をずっしりと持たせてくれた。
「なあに、先生。板橋なんて、たった三里もあるかないかです。ただ、調べられるだけのことは調べてまいりますので、数日はご不便をかけます」
「私の酔狂だと、笑ってるだろ?」
「へへ。しょうじき、そう思っていないと言えば、岩吉はウソツキになりますよ」
「岩吉! たのむよ」
「へいっ!」と言うなり、岩吉は玄関を飛び出していた。
蝙蝠座の木戸口に並んだ客をかき分けて、手代が走ってきた。
「旦那さま、こんなものが」という口調は、ただごとではないことをわかっている様子。
『蝙蝠江』と書かれた表書きは、見覚えのあるカナ釘流だ。
受け取った菊池長兵衛は、あえて顔色を変えず、
「やあ、ご苦労だったね。今日の入りはどうだい」と言ってみる。
「相変わらず、中ノ通まで、長い列でございます」と手代。
「お客さまには、喧嘩や怪我をさせないようにな。あと、順に、甘酒でも配ってやりなさい。いやなに、しっぽまで配ることはないよ。じゅんぐりとな」
穏やかに言ってみせたものの、長兵衛の心中は、穏やかではない。
すぐにでも開けて見たいのだが、目の前には、客人がいる。
なんの、役者崩れの、梅中屋春海老である。
「急ぎの用があるなら、あたしはこれで……」と、腰を上げかける春海老を押しとどめた長兵衛は、
「いやいや、いつものことで」と、鷹揚に構えてみせる。
「でも、番頭さんの顔色は、ただごとではござんせんでしたぜ?」
「うむ……」
あの日、あの煙玉の日から以来、小屋への客はまるで引かないが、ヘンなやつもおおぜい来たものだ。
用心棒を買って出る汚い浪人者から、抱えになろうという怪しげな医者。ほかにも、乞食同然のやつらが「あの日の芝居の木戸銭を返せ」とやってきたものだ。
相手の様子と顔色を見ながら、それなりの応対をしてきた。
何のことはない、ここで冷や酒をちびちびとやっている春海老も、まあ、似たようなもの。
(ただしこいつは少し、使えるんだ)と、長兵衛は、思っている。
役者崩れには違いないが、どこからどうしたものか、武家商家を問わず、女房連中をまとめて連れてきてくれるし、博打の仲間なのだろうが、とにかく顔が効く。
チャラチャラしているわりには秘密は守れるところも、使える。
「いやな文(ふみ)が、けっこう来るんだ」と、つい、言ってみた。
「いやな、とは」
「まあ、とにかく、いやなことばかりが書いてあるのだぜ」と、春海老が相手となると、言葉も気持ちも崩れる長兵衛だった。
「ふうん。でも、旦那。そりゃあ、出る釘は打たれる、ってんじゃないですが、儲けの冥利に尽きるんじゃないですかい」
「でも、あんまり気味がよくねえよ」
それきり、興味を無くしたように、すっとぼけているのも、役者上がりの春海老ならではである。長兵衛にもそれはよくわかるのだが、相談をする相手も、他には、いない。
「あたしや覗いたりしないから、読むだけ読んでみたらどうなのです」と春海老に言われ、長兵衛は文を、解いた。
『煙ナンゾハ、ゴ挨拶。焦ゲコウモリハ、犬モ食ハナイ』
相変わらずの、釘のような文字で、そうあった。
脅しの文は、それだけで重罪だ。とはいえ、これを奉行所に差し出すわけにもいかない。
むっつり押し黙った長兵衛に、春海老が、
「何だかわからないけど、旦那らしくない顔色ですね」
「……」
「あたしが、役に立てますかね」
「うん……。ちょっとこいつは、いやな感じだ……」
「いっそ、小屋の周りに警護をつけたらどうなんで?」
「警護?」
「うん。心当たりは、いくらでもありますぜ。このご時世、二本差しの浪人も、余っている。そうでないやつには、長い棒でも持たせるんです」
「うん」
「で、ここが肝心でさ。蝙蝠の紋を染め抜いた羽織や法被を、みんなに着せる」
「おお、なるほど!」
「まあ、いくらかはかかるだろうけど、あたしは呉服のそのあたりに、よく顔が利くからね」
「春海老、それ、やってくれるか」
「まあ、善は急げってことで、今からでも動きましょう」
「おまえ、頼りになるな」
「いいえいいえ、他ならない蝙蝠座さんへの世話なんて、なんでもない」
菊池長兵衛は番頭を呼んで、何事かをささやいた。
春海老のようなやつを動かすには、現金に限るのだ。
土手の道を歩きながら、春海老は、袖の中の音を、味わっていた。
(二枚がからんで、ちゃりんと鳴るのが、たまらないぜ)
と言うのも、あのケチな菊池長兵衛が、前金だと言って、二両まで出したのだ。
何気ない顔で受け取ったものの、わくわく、である。
堤を下りて、だらっとした坂を下ると、いい感じに遠く、吉原の灯りが、やたらとまぶしく感じられる。
(久しぶりの、田んぼ歩きだぜ……)と、思いながらも、紫霧の顔が、ついつい、浮かぶ。(いやいや……あんな年増ばかりを相手にしてたら、男がダメになっちまう)
大門まで着いたが、番所から誰かが飛び出してくるわけでもない。
(そうさ、俺は、やせてもかれても、梅中屋春海老なんだからな……)
上楼(あが)る見世は決めていないし、馴染みもいない。
せいぜい、ひやかしてから、どっかに入ればいい。
(それにしても……)と、春海老は思う。(蝙蝠の旦那も、ヤキが回ったもんだぜよ。俺が書いた脅し文に、びくびくしてやがったのには、笑った)
削った竹に墨を着けて、左手で書いたカナの文字。
あちこちから、いろんな文言は来ているらしいが、
(ワルの気持ちを煽るのは、役者ならではのことさ)と、いい気持ちになる。
あとの狙いは、ただひとつだ。
黒船屋敷の紫霧と添うか、あるいは「死んだらすべてを渡す」という念書を一筆取るだけ。
「まあ、ことに姿のいい兄さん、あがってくれなんせ」などと、格子ごしに、吸い付けた煙管を突き出す女達に、自慢の流し目を送りながら、春海老は、ぐるぐると、郭(なか)をひやかしている。
浅草奥山のすぐの西、本願寺に面した与力屋敷で、若い同心、伊藤十蔵は頭を抱えていた。
先輩からは、早く調べ書きを出すように言われている。
出すことは出来る。ありのままを書くことは出来るはずなのだが、それを書くことが、出来ない。
あの日、蝙蝠座の前で見たのは、怪我をしながらほったらかしにされていた怪我人達と、手際のいい、玄龍の手当。
そして、政次を待とうと表で見たのが、木戸口で豆銀を配っていた、小屋の小僧たちと、それに群がる無傷な人々。
息を切らせた政次が走ってく来るのを迎えて、人をかき分けて小屋に戻ってみると、手当をほどこされて休んでいた人々。
一座のものなのか客なのか、よく働いていた女。
女が小突いた、ガマのような座元の菊池長兵衛と、まるで何の役にも立たなかった医者連中。
菊池長兵衛は、呼ばれれれば、どこへでも出るなどとうそぶいた。
そして、あろうことか、自分にまで、《ぼた餅です》などと、ヘンな包みを差し出した。
金子であるのは一目瞭然。
一歩下がって、刀の柄に手をかけた。
「これはまた、活気なお役人さまですね」とまで、長兵衛は言った。
正直なところ、ぶった斬りたいとさえ思ったが、ガマを斬っても刀が油で汚れるだけだと思ってこらえたのだ。
そんないきさつを、正直に書けるというのか……。
無理だ。
上司は、何を察してか、
「まあ、楽に書け」と言った。
いやだいやだ! 嘘を書くのだけは、いやだ。
青白い頭をした祐筆が、心配顔で、十蔵を見上げる。
「お話しだけいただければ、わたくしはなるたけスラスラと書きます」
「いや、そんなことではないのだ」
「と、申されましても……」
「わたしは、ちょっと町を巡ってくる。おぬし、何かスラスラと、書いておけ」
言うなり、十蔵は、滑るように廊下を走り抜け、与力屋敷を出た。
同心の姿が、さっさか歩けば、浅草観音の門前に集まっている人たちも、さーっと道を空ける。そんなことすら、十蔵には面白くない。
吾妻橋詰の番太も、逃げるように脇へのける。
あてもなく屋敷を飛び出したつもりだったが、十蔵の脚は、しぜんと森下町に向かっていた。
ヘンな具合に斜めに曲がった堀のふちに、玄龍の療養所は、ある。
「ごめん」と呼ばわってみた。
ふだんなら、門のうちの狭い庭で竹箒を手にした岩吉が、さっと迎え入れてくれるところ。
しかし、音沙汰が、ない。
「ごめんくだされい!」と、声を張り上げてみたが、誰も出ない。
ままよと思って、門をくぐった。
「玄龍どの、おられませぬか。伊藤十蔵が、参ったでござる!」
奥で、ごそごそっと、音がした。
(いた!)と、十蔵は、嬉しくなった。
「どうぞ。錠はしてないから、入りたまえよ」と、奥から声がする。
十蔵は遠慮無く、戸を開けた。
土間があって、板の間があって、板戸の奥が廊下だと、間取りは知っている。
その板戸が、がらりと開いて、玄龍の身体が、黒く、逆光の影絵になった。
「しらせもなく訪れて、失礼でございました」と、十蔵は頭を下げる。
「なんの。医者のところに、しらせがあるためしなんてないさ。さあ、お上がりください」
「しからば」と板の間に上がりながら、十蔵はもうすでに、なんだか、ほっとしている。
「そこ、寒いから、いやでもわたしの部屋に上がってください」と、懐手をした玄龍は、すでに奥へ入って行く。
十蔵は振り返って玄関の戸をしっかりと閉め、土間に雪駄を揃えて、ほこりにまみれた足袋を脱ぎ、裸足で板の間を踏んだ。
治療の場である板の間までは、これまで何度も上がったことはあるが、廊下の先は、初めてだ。
玄龍の《勉強部屋》は、小さかった。
たった二畳に、机と、丸い火鉢があるだけ。しかも、炭は、すでに白い。
そこに玄龍は、木綿の単衣を重ね着しているだけ。
十蔵は、お仕着せとはいえ、自分の紋付き羽織袴が恥ずかしいような気になった。
「顔色、いいですな」と玄龍は言った。「さては、走って来られたのでしょう」
「はい、そうです」
「腹は、へってないですか」
十蔵は、実を言うと、ぺこぺこだった。
玄龍は、にっこりと笑い、
「いや、ほんとは俺が、はらぺこなのさ」と言った。
「では、先生、どこかの店にでも……」
「なんの。釜の中に、冷や飯があるんだ。湯漬けでも、食いませんか」
「かたじけない」
二人は土間に下りた。
玄龍は器と箸を探し出し、十蔵は生まれて初めて、竈にかがんで竹を吹いた。
「それ、あんがい難しいものでしょう?」と、背中越しに玄龍が言う。
「はい。難しいものですね」
「そうなんだ。吹きまくればいいってものでも、ないんだな、これが」
(こんな姿を、同僚や上司に見られたら、どんなことになるのだろう)と思いながらも、十蔵は、心の底から、楽しい気持ちだった。
釜の中には一合余りの飯があり、十蔵と玄龍は二人して、勝負でもするように、一粒残らずそれを、椀に盛った。
十蔵は、みずから懸命に沸かした湯を、鉄瓶から掛けまわした。米から炊いたわけでこそないが、初めて自分で作った飯だ。
なんだか、胸に迫るものがある。
敷に載せて、足を滑らさないように、玄龍の部屋に運ぶ。
しかし、どこに置こうにも場所がないので、突っ立っていた。
「すごいものを見つけた」と言いながら、玄龍が小鉢を持ってきた。「味噌漬けがあったよ」と言いながら、火鉢に足をかけて、部屋の隅に押しつける。
少しばかりの隙間が空いたところに、十蔵は、二つの椀を載せた敷を、そっと下ろした。
「さあ、食いましょう!」と玄龍が箸を取るのを待って、椀を手にした。
湯を掛けまわしただけの冷や飯と、ほんの少しばかりの味噌漬けが、こんなにもうまいものかと思った。
口の中と喉とが、甘くて温かくて、言葉も出ない。
あってはいけないことだと思いながら、目頭が、潤む。
「おかわりは、ないからさ」と玄龍。
「いいえ、これでじゅうぶんでござります」
「食いながら、聞くけれど。……十蔵どのの憂いは、何なのだろう」と、味噌漬けをポリポリ齧りながら、玄龍がつぶやいた。
「この、うまい、うまい飯、いただいてから、話したくぞんじます」
「うん。ほんとに、うまいですな」
ゆっくりと米の一粒一粒を噛みしめて、十蔵は食い終わった。
「ご馳走様でした」と深く頭を下げて手を付いたのは、心から出た礼だ。
「お粗末と言えば、これ以上の粗末もないが、うまかった」と笑っている玄龍が、十蔵に促したいことが、わかる。
「実は、調べ書きのことなのでござる」
「ふむ。先の事件のことですな」
「ありていに書けば、菊池長兵衛が相当に厳しい咎めを受けるのは必定。さりとて、嘘を書きたくないのでござる」
「蝙蝠座をかばうわけが、あるのかな」
「私がかばっているのではござらぬ。そこはそれ、同心連中も、さまざまな付き合いが……」
玄龍はしばらく宙を眺めていたが、
「宮仕えも、たいへんですなあ」と、投げすてるように、言った。
「玄龍どののお考えはいかに」
「うん。わたしなら、筆の速い祐筆でも呼んでおいて、『一件落着』と書かせるね」
「!……」
まるでほんのひととき前を見られていたような気がして、十蔵はうろたえた。
「さいわい死人も出ていないし、炎も上がっていない。蝙蝠座は、せいぜい、夜の演し物をやっていた叱りを受けるくらいでしょう。役人にもそれだけの手回しはしてあると言うのだから、十蔵どのが突っ張るのは、損だと思うよ」
「では、嘘を書けと申されるのか」
「私の考えを問われたから、言ったまでです」
(ああ……)と、十蔵は望みが絶たれた気持ちになる。(知恵者の玄龍先生だからこその、機転の利いた答えを求めていた自分が、馬鹿だったのか)
もう一度手を突いて、食い終えた椀が載った敷に手をかけた。
「いや、それはそのまま。わたしが後でやりますよ」と言われて改めて気づいた。
「そういえば、岩吉どのは……」
「ええ。ちょっと田舎に用事ができましてね。使いに出てもらってるんです」
そう言う玄龍の顔が、さっと厳しくなったのを、十蔵は、見た。
永代橋の東、堀の入り組んだ一角、万年町の長屋で、しばらく頭も剃っていない男が、浮かない顔をしていた。
煙草も切れたし、酒などもう何ヶ月も舐めてさえいない。それどころか、米びつの底が見えているのを、知っている。
虹色煙二郎は、腕のいい花火職人である。
両国の橋から南のこちら??いや、江戸中でだって、誰にも負ける気はしない。
だが、このていたらくだ。
「そこにじっとしてたって、仕事がむこうからやってくるもんかい」と、女房のお福になじられる。
「うるせえ!」とは言ってみるものの、今となってはすべてが、商売上手だった兄貴、一郎のおかげだったとは、気づいている。
その一郎が、ぽっくり逝ってしまった。
しばらくは、それでも仕事は、あった。
だが、もともとが偏屈なうえに、商売気というものがまるでない煙二郎は、逼迫していくばかりだった。
「義兄さんのように、如才なくやればいいじゃないか。問屋さんに、年賀のあいさつをするだけだって、ずいぶん違ったはずだよ。それなのに……」
「商人に頭を下げるなんてのは、俺は、いやなんだ」
「だったらこれから、どうしようって言うのさ」
「俺の仕事は、空に向かって、ぱーっと花火を上げることよ」
「ぱーも、ぽーも、その注文が、まるで無いじゃないのさ!」
「まあ、今に見てろよ……」
だてに虹色と名乗っているのには、わけがある。
とっくに亡くなった煙二郎の親父もまた、こだわりのある花火職人で、秩父の山へ行っては、あれこれと鉱石を掘ってきたものだ。
それらをうまくあんばいすることで、よその花火が赤一色なところへ、青や紫、黄緑や桃色なんかを、自由自在に、出すことが出来た。
「花火は南向きで見るに限る」なんて評判になり、両国橋が下手に傾いたなんて、冗談のような噂さえあったほどだ。
(あのころは、よかった……)と、思い出す。
仕事場には問屋が列をなして、われさきに虹色花火を買いもとめようと、セリまで始まるほどだった。
頑固な親父は儲け心がなかったので、そのままでは問屋に抜かれるばかり。
そこのところを仕切っていたのが、兄貴の一郎だった。
(でも、花火にかけちゃ、俺の方が腕がよかったんだ……)
親父は死ぬ前に、虹色を出すための処方を、煙二郎にだけ託した。
(兄貴は怒りもせず、にっこり笑っていたっけ……)
がっくりと肩を落としているその脇で、お福は夕暮れ近いかすかな光を頼りに、内職の縫い物などしている。
もとから建て付けの悪い戸だが、
(今日はまた、いやに傾いていやがるぜ……)などと思いながら、煙二郎は、腰高障子に記した「虹」の裏文字が、薄暮れに混ざって消えかけていくのを、見ていた。
その戸の外から、
「もしもし」と声がする。「大江戸名物、虹色花火の煙二郎さまのお宅は、こちらですか」
男の声だが、なんだかちょっと、いやになまめかしい。
「へい。虹は、うちでごぜえやすが」
「ごめんこうむりますです」と、ガタピシさせながら戸を開けたのは、ひょろりとした色白な男。
縞の着物に羽織の様子と、かるく身を屈めた様子は、商人のていだ。
あぐらの煙二郎も、さっと居住まいを正す。
「ご用件ですかい」
「ええ、そうなんです。今のうちから約をとりつけておかないと、とてもじゃないが、虹色さんの花火は手に入らないと、聞いておりましたのでね」
「ごらんの通りの、むさいところですが、どうぞお上がりになってくだせえ」
お福は急いで内職を畳み、布団屏風に屈み込んで、なるたけましな座布団を取り出そうとしている様子。
「お仕事場に上がるのは、控えさせてもらいますよ。来る道に、ちょっとした料理屋があったのですが、そこまでご足労を願えませんかね。なにせ、ちょっと大きな仕事のつもりなのです」
「え!……そりゃ、あっしはかまいませんので」と、お福を見やると、小さな目を大きく見開き、
(行け! 早く行け!)の目配せ。
「きゅうにお呼びたてをして、もうしわけありませんね」と、口先では言いながら、(商人仕立ても疲れるぜ)と思っている男??梅中屋春海老だ。
「いえ、なに。冬にはどうせ、ひまをしている稼業でやす」
「儲かってるかい?」
「ごらんの通りでさ」
「ふうん」などと、すでに、雑な口調である。
「ときに、旦那さんは、どちらのお店で?」
「うん。おいおい話すよ」と、口調も壊れてくる。
永代橋の東の橋詰。船宿に毛を生やしたような、ちょっとした料理屋だが、煙二郎は、目を見開いている。
(こんな親父、手もないぜ。まあ、花火の腕は一流と聞いてるから、せいぜい仕事だけはしっかりしてもらうさ……)
実は、来る途中で立ち寄り、店の者には言い含めてある。
「これはこれは……お待ちしておりました。こちらさまが、《虹色の先生》なので?」という台詞代として、あらかじめ一分ほどの銀を、置いてきた。
「そうよ。二階は出来ているかい?」
「はい。順繰りに運ばせますので」
よほど酒に飢えていたのか、煙二郎はぐいぐいと飲む。
「おうい!」と春海老は下に声をかけ、「先生の御酒を、絶やさないようにな!」
「へーい!」と、答える先から、酒はどんどんと来る。
春海老は、すでに胸元をはだけ、立て膝になっている。
(キツいぜ……)
役でもこんなに硬い着物を着せられたことはない。
もっとも、その役というのが最後についたのがいつだったか、思い出せないが。
煙二郎は調子が上がって来た。
「……鉱石というのはさ、秩父の山にもたくさんあるが、羽州、奥州まで脚を伸ばせば、これあ面白いモノがたくさん採れるんだ。それらを、ちびっちびっと混ぜるこの配合が、まあ腕の見せどころいうやつでさ。でもって、俺の親父は、旅が好きでね……」と、上機嫌でまくし立てている煙二郎に、春海老はすでにかなり、いらいらしてきた。
そろそろ、仕事の話の潮時だ。
「煙二郎さんよ。こんどの仕事が上がれば、奥州どころか、蝦夷の果てまで旅ができるぜ」
「え……」
「まあ、杯は一度そこへ置いて、俺の話を聞きなよ」
「へい」
春海老は、帯に挟んでいた紙を取り出した。
「見たら、わかるかい?」と、煙二郎に差し出す。
煙二郎は酔った目をしぱしぱさせながら、紙を手に取った。
図面だ。
「真ん中に火薬を仕込んだ、一尺あまりの花火玉にはみえやすが、この点々が、わからねえ」
「煙二郎さんよう。カネが、欲しくはねえかい?」
「カネ……」
煙二郎の痩せた喉仏がごくりと動いたところ見透かして、春海老はナマの小判を差し出した。
「ここまでの足代で、一両。まずは納めなよ」
職人らしい骨張った手が、ぱっと開いて、一瞬、わなないたが、やがてそれが合わさって、小判を吸い込んだ。
「すっかり、ゴチになりやした。そろそろ、あっしは……」と、震えるような声で言うところへ、
「おいこら!」と、太い方の声で一喝する春海老。「図面まで見て、ここで帰るとは言わせないぜ」
「だけど、こいつあ、俺にはわからないものだ……」
「その点々は、な。……釘だよ」
「花火に釘……ですかい」
「花火なんかじゃ、ねえんだよ!」
春海老はもう一枚の小判を、煙二郎の胸元に投げつけた。
「それは、話を聞いちまった代金だ」
「いや、あっしは、もう……」
「なあ、煙二郎さんよ。ここらで、男になろうぜ」と言いながら、春海老は、財布をかかげて揺さぶった。
ちゃらんちゃらんと、鳴る。
(こいつはまるで、夢のような音だからよ……)と思いながら、春海老は、寄り目を作って、煙二郎を、きっと見据えた。
地元のことだから迷いようもないのだが、どこをどう歩いたのか、煙二郎には覚えがない。
酒もしたたか飲んだが、そんなことでは、ない。
最後まで名乗らなかった、あの、ニセモノくさい商人。
白くなったり赤くなったりするあの瓜実顔は、忘れられそうにない。
狐にでも化かされたかと脇腹を探るが、そこには、冷たいものが、あるのだ。
いつ以来だか、最後に拝んだことすら忘れてしまっていた、こがね色のが、三枚も、あるのだ。
木戸で止められてもややこしい。
腐れかけた小橋で落ちても洒落にならない。
歩き回るのはやめて、家路を急いだ。
相変わらずのガタピシ戸を開けると、お福はまだ布団も敷かずにいて、ひざ立ちになった。
「おかえりよ」
「うん。ただいま帰ぇったよ、ってとこだぜい」
「だいぶん飲んだのかい」
「まぁな」
「あのお客は、どうだったのさ!」
そわそわしている女房の顔も、今夜ばかりは、正面から見られる。
「どうもこうも、俺は虹色花火の煙二郎でい」
「だからさ。まさかあんた、また、たばかられたんじゃないだろうね」
「るせいや!」と言いながら柄杓を取ったが、水瓶の水も、もう底に、わずかだ。
(米も水も、まあとうぶんは苦労しないや)と思うと、つい、にやけてしまう。
「飲み過ぎかい? あんたは、いつもそうだ。仕事の話と聞いて出ていっちゃ、ただ、酒を飲んで帰ってくるんだものね」
「馬鹿野郎! 行灯を明るくしろよ! 芯を足せ!」
「何を言ってるんだか……。芯どころか、油だって、もうないよ」
ここで、煙二郎は、カーンと来た。
「行灯が暗ぇってなら、まぶしいものを見せてやらぁ!」と言うなり、三両を投げ出した。
「あんた、これ……」
「男はなあ、男ってものは、だ。女や子供の見ていねえところで、仕事をしているものなんでい!」
(おれは、あの仕事を、やる!)と決めた。(やるしかねえんだっ!)
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