◆2

 ある日。

 神崎優里香が、学園に来なかった。学園に誰かが来ないというのは、あまり新鮮味のあるイベントでは無い。優等生である神崎優里香が休み、というのは少しだけ珍しかったかもしれないが。

 成績優秀な彼女は、入学した時点で卒業の条件を満たしているのだから、最初から学園に来る必要が無い、みたいな噂が飛び交った事がある。流石にそれは冗談であると分かるものだが、もしかしたら万が一、千が一、百が一、十が一くらいは冗談ではないかもしれないと言う声が上がるところが、神崎優里香の恐ろしい点だ。

 兎に角として、神崎が学園に来なかった事について深く気に留めることはなかった、のだが。こうしてわざわざ話題に挙げるということは相応の理由があるわけで。

「あー、神崎だが。入院する事になったそうだ」

 朝HRの終わり際。担任の山田が気だるそうに、そんな事を報せた。

 入院。

 その言葉に、クラスがざわついた。私自身も、え、と声が漏れたのは事実だった。

 頭が良すぎると、人は入院しなくちゃいけないのか。

 そんな戯言が頭の中に浮かんで消えた。さすがに不謹慎だと反省はする。

 入院したという事は、病気か怪我か。後者かな、と思った。神崎が、入院を必要とする病気を患っている素振りを、見たことも感じたことも無かったからだ。見ようとも感じようともしなかったので、アテにはならないが。

「じ、事故にでも遭ったんですか?」

 同じ発想に至ったであろうクラスメイトの誰かが山田に聞いたのを、聞いた。

「いいや、持病の治療だそうだ。数年に一度入院してるんだとさ。それ以上の事は分からん」

 もう一度クラスがざわついた。

 前者だった。あの神崎が、病を患っていたのか。そんなざわめきだった。

 何年かに一度入院が必要なんて、結構な病気じゃあないのか? 知らないけど。

 クラスはざわめき続ける。

 けれど、私はもう、その喧騒を構成する一員では無かった。

 神崎が病気で入院した。だからどうした、という事である。その話は私の中でそこで終わりなのだ。それ以上の興味を持つのは私には難しく、頬杖をついて自分の世界にトリップしようと、した。

 矢先。

「──というわけで、伊原」

「ふぁい」

 急に、いや、話を聞いてなかったので、もしかしたら急ではなかったのかもしれない。兎に角、不意に山田から伊原、と私の名字を呼ばれたので、返事が変な声になった。

「お前さん、帰りに神崎の入院してる病院に見舞いに行ってはくれないか。神崎に渡さないといけないプリントがあってな」

 何で私が、という顔になったのが自分でも分かった。そして私が指名された理由をすぐ察した。

「伊原、今日日直だろう? 放課後に用事があるなら他の奴にするが」

 正解だった。山田はランダムで生徒を選ぶ場面になるとまず日直を指名する傾向にあった。クラスの共通認識である。日直に見舞いまでさせるのかという気持ちもあるが。

 いくつかのクラスメイトの視線が刺さる。私は部活に所属しているわけでは無いし、放課後に用事があるわけでもなし。正直、友人でも無い奴の見舞いなど非常に面倒ではあるのだが。

 断る適当な理由を探すのも同じ位面倒だ──と、思った。

「行きます」

 どっちにせよ面倒なら、面倒事は後回しで良いやと頷いてしまったのであった。

 それから数時間。

 自分の世界に浸りつつ授業が終わり、放課後になった。

 日直の仕事を一通り終えて――今日はまだやる事が残っている事を思い出し、溜息がでた。主に数時間前に面倒事を後回しにした自分のせいなのだが。

 あることないことを絶妙なバランスで織り交ぜた、つまりは適当なことを適当に書き連ねた日誌を山田に提出して、神崎に渡してほしいというプリントと、入院している病院へのアクセスが印刷されたコピー用紙を預かった。これで病院の場所が知らないところだったら面倒だなと思ったのだが、幸いにも学校からの帰り道にある大きな病院、私も知る病院だったので安心した。

 校舎を出て、校庭から響く陸上部の声を背に帰路をぼんやり歩く。そうした際にも、くだらない考え事をして自分の世界に浸ることを忘れない。

 私は自分の世界に浸るのが好きだった。やってる事はただ、考えても仕方の無いことについてあーだこーだと思考を巡らせるだけなのだけど。それに集中し過ぎて時間が飛んでいる事はしばしばあるし、帰り道に自分の世界に浸って、気が付けば家に着いているという事も多々ある。だので、今日は病院に寄るのを忘れないように注意する必要がある。

 さて、何を考えるか。

 授業中にも自分の世界に浸っていたものだから、ネタが直ぐに思い付かない。

 ネタそのものは枯渇することは無い筈だが。枯渇する事があれば世界の仕組みが全て解明されてると思う。

 溺れる事の出来る思考の海を求めて、周りを見回す。私と同じ帰宅部の生徒が少なからずいる。前方には生徒が五人程固まって幅を取り下校していた。対する私は一人。五人と、一人。なんか聞いた事のあるテーマだなと、頭に引っかかった。なんだっけ。歩むスピードと引き換えに、記憶の引き出しを探る。そして、それは直ぐに思い出せた。

 トロッコ問題、だと思う。

 とある線路を走るトロッコが、制御不能になって。そのままだと前方にいる五人の作業員が避ける間もなく轢き殺される。線路の分岐器を操作すれば五人を救う事が出来るが、別線路で作業していた一人の作業員が轢き殺される。この前提で、分岐器を操作するべきか否かという問題、だったはず。

 その問題の事を、道行く五人の生徒と一人帰路に着く私から思い出してしまったらしい。なんだか複雑な気持ちではある。彼らと私がそれぞれ線路にいる状況だったら、間違いなく私が殺されそうだ。

 この問題で、自分しか分岐器を操作出来る人間がいないのだとしたら、私は線路を切り替えるだろうか。切り替えないだろうな。知らない人が五人死んだところで知る由はないのだ。見知った人間が線路にいたなら少し迷うかもしれないが、そもそもトロッコの線路上で作業をする様な知り合いは私にはいないのでそんな心配をする必要は無い。

 だがそれでも知ってる顔だけが線路上にいなかったとしたら──。

 ……やめよう。これから病院に行くってのに、誰かが死ぬ思考をするのは何だかよろしくない気がした。それに楽しくない。愉快なことだけ考えていたい。

 ただ。

 ただ、一つだけ考えてしまったのは、今から見舞いに行く人物、神崎。学園一の天才は、この問題で分岐器を切り替えるだろうか、ということだった。

 神崎優里香に興味はないけれど。天才の、学園一の才女である神崎優里香の考え方には、少なからず興味が無いことも無い。私と神崎が仲の良い友人であれば気軽にその問いをする事が出来たかもしれないのに。

 別に残念とは思ってない。……ほんとに。

 程なくして、無事病院に着いた。総合病院。それにしても、自分が病気では無いのに病院に来ると言うのはなんだか不思議な感覚だった。覚えてるだけでも、亡くなった叔父を看取った時以来だと思う。悪い事なんて一ミリもしてない筈なのに、ちょっとだけ悪い事をしているような気分になった。

 さて、神崎はどの階にいるのやら。まずは受付に聞かないといけない。と、一歩踏み出したのだが、私は見舞いの品を何も準備していない事に気が付いてしまった。

 どうするべきなのだろうか、今からでも調達に行くべきか。そもそもクラスメイトの見舞いにそういった品を持って行くのが礼儀なのだろうか。経験が無ければ、常識も無いに等しいので分からなかった。少しだけ考えて、受付に向かう足を、病院の購買所に向けてそこでお茶とスポーツドリンクを買った。これでいいだろう。

 受付でクラスメイトの見舞いに来たと告げると、面会者の情報を記す紙を渡された。その用紙に伊原いばら 弥美やみと、自分の名前を記入しつつ他の欄も埋めて渡すと、首からさげるタイプのカードを貰った。面会希望者と書かれている。それを身に付けて、五階のナースステーションに向かう様指示された。

 エレベーターで五階へ。受付周りは静かだったが、ここはそこよりもしんとしてる。静かさで耳が痛いくらいだ。

 右手に進むとそこにナースステーションがあった。外から見る感じ、誰もいないように見えた。タイミングが悪いな。御用の方は押してくださいと表示されたボタンがあったので素直に押すと、奥の方からはいはいはーいと看護婦さんが現れた。人当たりの良い笑顔が印象的なお姉さんだ。

「あ、お見舞い希望の方? 誰宛ですかー?」

 お姉さんは、私の首から提がっている面会希望カードを見るなり問うてきた。話が早い、助かる。

「神崎優里香、なんですけど」

 思わずフルネームで伝えてしまったが、この場面なら正しい筈。

「ん、神崎さんねー。制服着てるってことは神崎さんのお友達だね?」

 違う。

 けれど、否定する間もくれずお姉さんは何かを勝手に納得した様子で頷いた。まあ、どう思われていようが関係無いけれど。

「神崎さんに渡したいお見舞いの品とかは、何かある?」

「飲み物が二本ほど」

「お茶と……スポーツドリンク、ね。うん。それなら大丈夫。直接手渡してあげて。じゃ、案内するねー」

 廊下を歩き出すお姉さんにくいくいと手招きをされて、素直について行く。

 長い廊下だった。横目で見る部屋番号の末尾が一、二、三、飛んで五、六七八、九が無くて繰り上がる。

 突き当たりの手前の部屋、五二三号室の前でお姉さんは止まった。神崎、の名札が掛かっている。ここらしい。

 そしてお姉さんは扉にノックを三回。

「神崎さーん、入るわよー」

 母親みたいな呼び掛けをする人だなと思った。中から返ってくる、はーい、の声を受けて扉は開かれた。

「お友達がお見舞いに来てくれたわよー」

 友達じゃないんだけどな。否定するのめんどくさいし、する必要も無いか。

 導かれて入った病室には、当然なのだが、目的の人物である神崎優里香はいた。間違いなくいた。だけれど、病人としての神崎を想像してた私は、ややその予想を裏切られることになる。

 格好こそは寝間着のそれなのだが、病人を想起させる要素――たとえば点滴とか、なんらかのチューブとか、その類の物が一切、神崎には繋がれていなかった。背もたれを起こしたベッドに身体を預け、ベッドテーブルに置かれたノートにボールペンで何かを一心不乱に書き込み続けている。授業中に観測出来るであろう神崎とほぼ同じ姿が、そこにはあった。

「……」

 天才は入院してても勉強しなくちゃならんのか。まあ、神崎優里香ならそんなもんかと、一人で勝手に納得した。

「それじゃあごゆっくり――って言うのも変だな。ま、とにかく。帰る時はナースステーションにその面会者カード返しに来てくれる?」

「分かりました」

 道案内を終えたお姉さんは、軽いノリで言った後ぱたぱたと小走りでナースステーションへと戻って行った。まだやる事があるのだろう。

 見送って、扉が閉まる。二人きりになった。

 神崎は、真剣な表情でノートにがりがりとペンを走らせている。

「……」

 それを見ている私。何か声をかけるべきなのだろうけど、邪魔するのも悪い気がする。

「ごめんね伊原さん、あと八秒だけ待ってくれる?」

 どうしたものかと突っ立っていると、神崎はノートから顔を上げず私に言い放った。

 なぜ八秒。それは分からなかった。

「分かった」

 だが、そう仰るのなら律儀に八秒待とうじゃないか。

 ……というか、私の方を一度も見てないのによく私だと分かったな。まるで、私が来る事を知っていたような。流石に自意識過剰か。

「ふう」

 脳内で六秒ほど数えた頃、神崎はペンを置いて、息を吐いた。それから、こっちを見て。

「いらっしゃい伊原さん。どうしたの、こんな所に」

 きっちり八秒経ってから。輝かしい笑顔で問われた。

 こいつ、本当に病気を患っているのか?

 そんな事を思わせる笑顔であった。

「……クラスメイトが入院してる所にクラスメイトが来たんだから、聡明な神崎なら私がここに何しに来たかなんて分かるだろうよ」

「えー? もしかしたら、もしかしたらがあるじゃない? 遊びに来たとか」

「そんな仲じゃないだろ」

「うん、そだね。そうでした」

 神崎とはロクに会話したことが無いので知らなかったが、こんなノリで話すやつだったらしい。

「そうだよね。もんね。山田先生に言われて、お見舞いに来てくれたんだよね」

「ああ。……よく日直だって分かったな」

「だって覚えてるもの。全部」

「そうかい」

 律儀なことで。

 ふう、と息を吐いて、ベッドに近付いた。

 さっさと済ませて、とっとと帰ろう。手に持っていた、飲み物が入っているビニール袋を差し出した。

「これ、見舞いの品。こんなのしか用意出来なかったが」

「わー、ありがとー。この部屋にいると喉渇くから凄い助かるよ」

 飲み物を受け取った神崎は、さも当然の様にするりとベッドから出て、ベッド脇にある冷蔵庫の中に手際よく放り込んだ。そしてぺたぺたと床を鳴らし、上機嫌な様子でベッドに戻ってくる。その一連の所作を思わず眺めてしまっていたが、本来私がやるべき事だったのでは無いだろうか。病人に見舞いの品をしまわせるなんて。

「……で、こっちが山田から渡してくれって頼まれたやつ。提出は退院してからでいいらしい」

「りょーかいであります」

 行動を悔やんでも仕方ない。もう遅い。

 気を取り直しつつ鞄からクリアファイルを取り出して同じ様に渡す。山田から受け取った時に見てしまったのだが、三者面談の調整のプリントだった。私も貰ったやつ。受け取った神崎は、そのプリントに目を通し始める。

「三者面談かあ。面倒だなあ……」

 ……よし。

 これで用は済んだ。

 あとは、この面会者カードをナースステーションに返して帰るだけだ。

「さて。それじゃあ神崎、私は──」

「伊原さん」

「む」

 帰る、と言おうとしたのだが、被せ気味に呼ばれた。

「少しお話しない?」

「……話?」

「あ、この後用事とかある?」

「いや、ない」

 と即答して、引き留められる口実を作ってしまったことを後悔した。

「じゃあすこしだけ。伊原さんとは、この二年間あまり喋ったこと、ないじゃない?」

「そうだな」

 神崎と会話した記憶は、その通り全然無かった。というか、神崎以外のクラスメイトとだって交流した記憶があんまりない。自分から会話しようとしてないから。

「だから、いい機会かなって。どう? イヤなら、正直にイヤって言ってくれていいけど」

「……少しだけなら」

「ほんと? えへへ、やった」

 神崎は笑う。そんなことで、そんな笑顔になれるのか。分からない奴だ。

「良かった、伊原さんがお見舞いに来て必要最低限の用事だけ済ませて、雑談の一つも許してくれないような薄情者じゃなくて」

「……」

 引き止められなければ、私はその薄情者になるつもりだったのだが。

 勘違いされてそうだから言うが、交流そのものが苦痛だからしてないってワケじゃ無い。話を振られれば応えるし、こうやって会話をする事だって別に苦ではない。自分から行かないだけなのだ。

 きっと、壁を作ってると思われてるのだろうな。どう思われてようがどこまでも興味は無いけど。

「まあまあ、そこ座ってよ」

「ん」

 ベッドの近くにあった椅子を示されて、素直に座る。

「──で、何を話すんだ?」

 椅子の右側に鞄を降ろしながら聞いた。

「んー。学校はどうだったー、とか?」

 小学校に入学したての息子に聞く母親かよ。

「別に普通」

 こっちはこっちで反抗期が始まった中学生かよ。

「そっか」

「ああ」

「変わったことは無かった?」

「神崎が入院した以上の事は何も。あったとしても、私は自分のせ──考え事に集中してたから知らない」

 危うく自分の世界、などと口にするところだった。その表現を誰かに聞かれるのは流石に恥ずかしい。

「何について考えてたの?」

「……何だっていいだろ」

「何だっていいのか。じゃあ私の事も考えてたりして?」

「──」

 息が一瞬止まった。そして。

「それはない」

 と、誤魔化した。

 いや、あっただろうよ。

 トロッコ問題。その問題で、神崎がどうするかって事を。

「その微妙な間。図星だよね?」

 思わず否定してしまったが、バレた。

 僅かな所作から、一瞬で。

「分かるのかよ」

「あは、正直だ。そういうの得意なんだよね、私。それで、私の何について考えてたの?」

 全く。これだから天才は。

 ここまで言われたら言うしかないか。観念して溜息を吐いた。まあこれは良い機会だと自分に言い聞かせて、神崎に向き直る。

「トロッコ問題って知ってるか?」

「……トロッコ問題?」

 その文字列を聞いた瞬間、神崎は呆気にとられた表情になった、ように見えた。突拍子の無い問いだから当然か。

「え、ええと。トロッコに乗った五人が二択問題に挑戦するアトラクションのこと?」

「それはトロッコアドベンチャーだ」

 ボケをかまされてしまった。

 意外だった。

 何がって、神崎も月曜夜七時にやってる番組を観る様な人間だった事が。

「……ごめん、冗談。トロッコ問題ってあれだよね、線路に作業員が五人いて、分岐器を切り替えなければ爆走してるトロッコにその五人が轢かれて死んで、切り替えれば別線路の作業員一人がトロッコに轢かれて死ぬ、さあお前は分岐器を操作するかしないか、どっちなーんだい? ってやつ。イギリスの哲学者フィリッパ・フットが提起した倫理学の思考実験の」

「トロッコが爆走してたかとか、フィリッパ・フットとやらは知らないけどそれ」

 流石は神崎だな。よくご存知で。

「……それで、なんでトロッコ問題?」

「たまたまトロッコ問題の事を考えてる時に、たまたま神崎の事を思い出して、学園一の天才である神崎はこの問題で分岐器を操作するのかって思考にたまたま至っただけ」

「そういうことか。や、そういう事でも正直釈然としないけど……」

 神崎は苦笑した。

「知ってるなら話は早いな。神崎は、分岐器を操作するべきだと思うか?」

「どうだろうね。五人の中に家族とか友達がいれば見知らぬ一人に犠牲になって貰うけど。全員知らない人だったら操作しないんじゃないかな」

「やっぱそうか」

「今の時代、人間は増えすぎたもの」

「そういう理由なのかよ」

 変わらぬ笑顔で、急に悪の組織の幹部みたいな事を言い出した。少し位人間は減っても良いと思ってるのだろうか。

 その思考に至るルーチンは理解出来そうになかった。

「――伊原さんは」

「ん?」

「もし、轢かれる五人の中に私がいたら、伊原さんは分岐器を操作してくれる?」

「……すると思うけど」

 少しだけ考えたが、そのレギュレーションなら、分岐器を操作して神崎を救うと思う。こいつが死ぬのは人類にとって損失でしか無い筈だから。

「そっか」

 答えを聞いた神崎は、嬉しそうに笑った。

「……えへへ。そっかぁ」

「気味が悪い」

 本当に嬉しそうに笑う。その様子に、やや不審さを覚えてる私がいた。

「ごめんね、なんか嬉しくて、さ」

「そうかい」

「でも、トロッコ問題ってそこで終わりじゃないよね」

「そうなのか?」

「派生問題があってさ。線路には作業員が五人いて、何もしなければ無残にもトロッコに轢き殺される」

 そこまでは同じ、と。

「違うのは、今度は分岐器が無いパターン。代わりに近くに滅茶苦茶太った人がいて、その人に不意打ちを仕掛けて線路に突き落としトロッコに衝突させるってやつ。トロッコは止まり五人は助かる。但し、突き落とされた太った人は死ぬ。太った人を突き落とすべきか? って問い」

「駄目だろ……」

「そう?」

 思わずこぼしてしまった言葉に、神崎はきょとんとした。

「分岐器を切り替えるパターンも、太った人を突き落とすパターンも、アクションを起こせば一人を殺す事になるって結果は同じなのに、分岐器を切り替えるのは許されて、太った人を突き落とすのは許されない、みたいな思考をする人が一定数いるって話。というか、大半の人がそう」

「──」

 言われて、確かにそうだと思った。

 五人を救わねばならない状況に立たされた時、私は分岐器は操作するだろう。しかし、太った人を突き落とす事をするだろうか。……かなり躊躇して、出来ないような気がする。結果は同じなのに。

「結果は変わらないのに、双方の思考で許せる許せないの違いが出て来るのは何故なのか、その理由を合理的に説明出来る人は僅かにも満たない──ってところまでを含めて、トロッコ問題だね。まー、趣味が悪くて意地悪な、面白くもなんともなくて、考えるだけ時間の無駄な思考実験だと私は思うよ」

「……なる、ほどな」

 最後、私含めて微妙にディスられた気がするが。

 やはり、神崎は頭が良い奴だと素直に思った。

 頭の回転が早いんだろうな。

「それにしてもさ、伊原さん」

「ん」

 神崎は改まって、私の方を見た。

「伊原さんは、面白い人だね」

「え」

 なんだ、急に。そんな。

 そんな事を言われたのは生まれて始めてなので、いくらか動揺した。

「だってさ、私の事を考えてるって言うから、てっきり私がどういう病気で入院してるのかとか、そういう類の事を考えてくれてるのかと思ってたのに。私がトロッコ問題でどんな考えを持ってるかが気になってるなんて」

 面白い、と神崎は笑う。

「病気の事は聞かない方がいいと思ってたんだが」

「どうして?」

「山田が神崎の病気の詳しい事は知らないって言ってたからな。担任に言わないって事は、言いたくない、もしくは言えない事情があるのかなって」

 というのは建前なのだが。

 本当は神崎の病気には興味が無いだけだ。

「なーるほどね」

 合点がいったと言わんばかりに、神崎はベッドに深く背を預ける。

「裏目った、わけか」

 そして、訳の分からぬ事を呟いた。

「裏目? 何が──」

「伊原さん」

「む」

 またこいつは私の言葉を遮って、何かを問うてくる。

 悪い癖だ。

「私、伊原さんに滅茶苦茶興味があるんだけど」

「……は?」

「伊原さんに興味が滅茶苦茶あるんだけど、私」

「なんで文節を入れ替えて同じ事を言った?」

「なんとなく」

 あまりにも脈略の無い。私に興味があるって、どういうことだろうか。考える横で、神崎は語る。

「伊原さんってさ、何て言うのかな──自分の世界に、籠もっているでしょう?」

「……」

 天才は、人の本質を見抜くのも得意らしい。

 確かに、私は自分の世界に浸るのが好きだ。だからこそ、神崎がトロッコをどうするか気になった訳で。

「その世界の中から何を見ているのか、気になる。興味がある。不可解な伊原ワールドについて私が一つだけ分かってる事は、私には、興味を持ってないって事だけ」

 当然だ。だって、興味が無いんだから。

 答えになっていない気もするが。

「お前、私に興味を持って欲しいのか?」

「うん、とても。どうしたら私に興味を持ってくれる?」

「どうしたらって言われてもな。興味を惹かれたら自然に興味を持つんじゃないか?」

 こんな物言いをしているが、私だって何に対しても興味が無いわけじゃあない。好きな音楽だってあるし、好きな本だって勿論ある。他の人に比べて、その種類は少ないとは思うけど。

「気紛れな野良猫みたい。お手」

「犬かよ」

 やらないからな。

「それじゃあ、私の病気について話してみたりすれば興味惹けたりしないかな」

「……別に無理しなくてもいいんじゃないか?」

「無理じゃないよ、別に」

 また、あははと笑いながら。そうして笑っていると、やはりこいつは病気じゃないんじゃないかと思う。

「確かに私の病気の事は、家族と主治医の先生しか知らない。友達の誰にも教えてない。私の病気の事を知ったら、みんな気持ち悪がると思うし。それは嫌だからね」

 他者から、どう思われるか。他者からの、評価。

 私は、それを深く気にした事は無い。気にするだけ、時間の無駄じゃないか?

 だから、神崎のその気持ちはわからない。

「でも別に、伊原さんには教えてもいいかなあって」

「なんで?」

「好きだから」

「え」

「おっと間違えた。伊原さん、私に興味無いから」

 どんな間違え方だよ。聞かなかった事にしておこう。

「確かに私は神崎の事を滅茶苦茶頭のいい奴、程度にしか思ってないけど」

「でしょ?」

 そこで「でしょ?」って言われるのも、なんだかな。

「……神崎の病気の事を聞いて、もし私が気持ち悪いって言ったらどうするんだ」

「その時はその時で、伊原さんに興味を持って貰えたとみなして私の勝ちです」

「勝ち負けなのかよ」

「そりゃあ友達に気持ち悪いって思われたら傷付くよ、私だって。でもさ、でもでもさ? 私が一目惚れした女の子である伊原さんに気持ち悪いって思われるならちょっと興奮するかもしれないじゃない?」

「ドM」

「もっと言って」

「……」

 ドンが付くタイプの引き方をしてしまった。

「無視! いいね、マゾの扱い方を心得てるね伊原さん。正直興奮した」

 断じて違う。そんな意図は一切無かったのに。

 学園一の天才がマゾだった。そんな事実は知りたくなかった。というか、一目惚れとか言ったなかったかこいつ。

「冗談はさておいて」

「どこからどこまでが冗談だったんだよ」

 あまりに高度過ぎてついていけない。ついて行きたくないけども。

「私の病気について、知りたくない? 今ならお代はいらないよ?」

「お前が話したいだけじゃないのか?」

「伊原さんが相手だからね。この場を仕組んだのも、だし」

「?」

 神崎の言わんとしてる事がよく分からなかった。

 が。

「……はあ。話したきゃ話せばいいだろ。聞くかは、気分次第だけど」

 選択肢で「はい」を選ばないと先に進まないRPGのイベントみたいに、私はこいつの話を聞かないと家に帰れないのだろうと悟った。だから、聞いてやることにした。

「その手の発言をしてくれる時は、大体聞いてくれてる時って相場が決まってるんだよね」

「私は別に今すぐこの瞬間に帰ってもいいんだぞ」

「ごめん、すぐ話すから見放さないで」

 ふう、と一息ついて座り直す。

 仕方ない、興味は無いけど聞いてやろうじゃないか。

「それで?」

「うん。えっとね」

 神崎がこほんと咳払いをして、私に向き直って。そして言った。

「私、神崎優里香さんは――」

 そこで、少し溜めて。

「――頭の病気、らしいのです」

 と、続けた。

「……あたま?」

 笑顔を崩すこと無く。こめかみのあたりを、指でぐりぐりしながら言う。口上はまるで、他人事の様に。

 ある種、頭が良い自分のことを自画自賛している様に聞こえない事も無いが。

「頭、と言うよりは脳、だけど」

「同じじゃねえか」

「違うよ。ビーマニとビートマニアぐらい違うよ」

「その二つって別物なのかよ」

「え? うん。別物だけど」

「そうなのか」

 知らなかった。しかし要らん知識だな。

「脳のどんな病気かと言うと――私は、覚えたと認識してしまった事を、何が起きようと自分の力では忘れる事が出来なくなる病気」

「……はあ?」

 自分でも、素っ頓狂な声が出たなと思った。

「要するに、忘れることを、忘れちゃったんだ」

 どういうことだ、それは。

 言葉の意味を理解しようとする。

 忘れることを、忘れた。

 ……うむ。理解した。しかし、それは。

 何も忘れない? 忘れられない?

 そんなことが、そんな病気があると言うのか?

「小学校を卒業するくらいの時に気付いたんだけど」

 言葉を失ってる私を他所に、神崎は続ける。

「大好きで、何度も繰り返し読んでいた本があってさ。人間と仲良くなりたい怪獣が、街に降りた時に人間を殺しちゃって、結局最後には人間に殺されちゃう話なんだけど」

「救いの無い話だな」

 小学生には難しくないか? そんな本が好きだったのか。

「それでも、好きだったの。で、その中身。その全てを暗唱出来るようになってた。初めのうちは、大好きな本だからいつのまにか覚えちゃったのかなあって軽く捉えてたんだけど。──どうやら、そうじゃなかった」

「というと」

「あんまり好きでもない、一度しか読まなかったような本でも、その中身の一言一句を思い出せる事に気が付いた」

 神崎はベッドテーブルに肘をつく。

「本だけじゃ無かった。新聞やニュースとか、ありとあらゆる記述や事象、家族や友達がどんな事を言って、私がどんな返事をしたか、とか。兎に角全部を覚えてるの。文字通りの、全部。何も忘れられなくなっちゃった、らしい」

 なっちゃった、らしい。どこまでも他人事だ。

 ……しかし。

「そんなことが本当に出来るってんなら、お前は人間じゃないんじゃないか?」

 それが私の抱いた感想だった。なんにも忘れられないなんて、創作じゃあるまいし。

「人間じゃなかったら、何?」

「……ハードディスク?」

「成程、人間ハードディスク。HHDDってワケね」

 何が面白かったのやら、ふふふと神崎が笑う。

「じゃ、私がHHDDである証拠を見せてあげましょう」

「見せられる証拠があるってのか?」

「私が覚えてることなら、なんでも答えてあげる」

「昨日の晩飯」

「病院食。ごはん、秋刀魚の塩焼き、わかめと豆腐のお味噌汁、南瓜の煮物。あとお茶を二杯」

 反射的に聞いてしまったが、すぐに答えが来た。

「なるほどな」

 秋を感じる献立だった。

 なるほどな、なんて言ったけど。よくよく考えればそれが正解なのか、確かめる術が私には無いことに気がついた。

「……あ」

 そこでふと、思い出した。神崎に関する噂を。

 ――神崎優里香は、教科書の全てを記憶しているので授業に臨むのに教科書が必要ない、とかいう噂。

 この際だ、確かめてやろうではないか。

 椅子の脇に置いていた鞄の中を探り、最初に指に触れた冊子を掴み、取り出した。

「お。どしたの、教科書なんて取り出して」

 現文の教科書。

 それをなるべく無造作に開いた。

 そこには、山月記、の文字。

 数ヶ月前に授業でやった題材が載っていた。理由は伏せるが、人が虎になる話。それくらいふんわりとしか覚えていなかった。

 ともかく。神崎が本当に全て覚えているのなら。そこに何が書かれているかくらい直ぐに答えられるだろうと、そんな発想に至ったのだ。

「現文教科書、126頁──」

「山月記」

 即答されてしまった。食い気味に。

 合っている。──いや、偶然かもしれない。適当に言ったそれが、当たっていただけかもしれない。

 そんな考えに至る私を、神崎は行動を以て即座に否定し始める。

「隴西の李徴は博学才穎、天宝の末年、若くして名を虎榜に連ね、ついで江南尉に補せられたが、性、狷介、自ら恃むところ頗る厚く、賤吏に甘んずるを潔しとしなかった。いくばくもなく──」

「っ」

 内容を読み始めた。何も見ずに。

 慌てて目で追う文字が、神崎の口から、音声教材の如く正しく紡がれる。

「本当に覚えてるのか……」

「そうだよ。言ったでしょう? ──翌年、監察御史、陳郡の袁という者、勅命を奉じて嶺南に使し、途に商於の地に宿った。次の朝未まだ暗い中に出発しようとしたところ、駅吏が言うことに、これから先の道に人喰虎が出る故、旅人は白昼でなければ、通れない。今はまだ朝が早いから、今少し待たれたが宜しいでしょうと──」

 私が思わず漏らした言葉を拾いつつも続ける。

 てにをはの一文字でも間違えたら指摘してやろうと考えていたものだが、間違える気配は無く順調に物語は進んでいく。私が止めないからか、神崎も止まる様子もない。

 しばらく、神崎の山月記を聞き続ける。

 なんだか既視感を覚える光景だった。気怠げに授業を受けている時に、私じゃない誰かの朗読を聞いている時のそれだとすぐ思い当たることが出来た。

「その声は、我が友、李徴子ではないか?」

 この時点で私は、神崎が言っていた全てを覚えているという話が本当である事をうっすらと悟っていた。まだ序盤とは言え、何も見ずにここまで一文字の間違いも出さずに読んでいるのだ、こいつは。

 しかも数ヶ月前の題材だ、本当に覚えてるとしか。

「神崎」

「――っと。なに?」

「もういい、分かった。私が悪かった」

 手で制しつつ、教科書を鞄に戻した。

「……なんで謝られたの私?」

 なんとなく。

「ま、いいか。それで、私が全部忘れないって事、信じてくれる気になった?」

「ん。まあ」

「そっか。じゃあ、私への興味は?」

「少しな」

「マジか。やった、私の勝ち」

 流石の私も、ここで嘘をつくことは出来なかった。

 だって。

 神崎が天才である所以がそれなのだとしたら。

 誰だって、少なからず興味を持つと思う。

「これは勝手な予想なんだが」

「なに?」

「神崎が頭良いのは、その病気のなのか?」

「そうだね、病気の。何も忘れないんだから、全部覚えちゃえば、成績だって上がるよね」

 簡単に言ってくれる。普通の奴はそれが出来たら苦労しない。

「なんかこの、なんにも忘れられない病気、世界で私しか罹ってないみたいで私の名前が付けられてるんだってさ」

「なんでそんなに他人事でいられるんだ……?」

「さあ、なんでだろ。それを知った時の気持ちは、から」

 うん? 忘れたって?

「お前は何も忘れないんじゃなかったのか?」

「さっきも言ったけど、自分の力では、なにも忘れられないってだけ。――うん、補足しよっか」

 神崎がベッドから出て、窓際へと歩く。外は陽が落ち始めて、暗くなろうとしていた。

「伊原さんは、何も忘れられない脳って便利だと思う?」

 そして、外を眺めたままそんな事を問う。

「便利だろうな。メモがいらない。……けど」

「けど?」

「同じくらい、不便だとも思う」

 振り向く神崎に言う。

「人間って、忘れる生き物だし」

「そうなんだよう」

 カーテンを閉めて、ベッドに戻ってきた。言ってくれれば、カーテンくらい私が閉めたのに。

「生きているとさあ、いつまでも覚えていたい楽しいことばかりじゃ無いじゃない? 忘れたくて仕方の無い辛いことや悲しい事も当然あるわけで。その全てを、私は私の力だけじゃ忘れる事が出来ない」

 つらいね、と溢す。同意してやれない私を見て、つらいんだよ、と言い直した。

 ともかく。私の力だけじゃ、という言い草を聞くに、忘れる術そのものは存在しているのだろうか。

「二十三日前に踏んじゃったグロ画像のブラクラだって、ずっと瞼の裏にこびり付いてる。うえぇ」

「ブラクラ踏む様なブラウジングをしてるのかお前……」

「そりゃするよ。私だってオトシゴロの女の子ですよ? 伊原さんだってそういうの見てるでしょ?」

「見ねえよ」

「またまたあ」

「見ねえよ。ブラウザの履歴見せてやろうか」

 少なくともブラクラが出るようなブラウジングは断じてしてない。多分だが、履歴の一番上にはテルミット爆弾についての記載が書いてある頁の履歴が残ってる筈だ。

 昼休みに小耳に挟んでつい調べてしまったやつ。

「ち、その反応だと本当に見てないな。伊原さんの性癖を覚えられるかと思ったのに」

「……で?」

「で?」

「いや、お前の病気の話」

 さっさと話題を戻して欲しかった。

「おっといけね。脱線しちゃった。脱線と言えば、トロッコ問題も分岐器を中途半端に操作すればトロッコが脱線して全員が助かるみたいな裏技あるよね」

「誰がそこまで話を戻せって言ったよ……」

 もうトロッコには興味ねえよ。

「ごめんごめん。……でね、何も忘れられないってだけなら、こんな、入院する必要は無くてさ」

 全部我慢すれば、いいだけなんだから。

 そう続けた神崎の顔が。ここに来て、ちょっとだけ曇った――ように見えた。だけれどそれも一瞬で。

「忘れる為に、私。入院してるの」

 次の言葉を口にする頃には、また笑っていて。

「忘れる必要が、あるってことか」

「そうだね。忘れられないことで弊害があってさあ」

「……グロ画像を思い出してしまう弊害?」

「ちがいますー。やめてよ、真面目な話なんだよ?」

 理不尽な怒られ方をした。解せない。

「いっぱい覚え過ぎちゃってさ。頭がね、痛いの。ハードディスクの容量が無いのに、無理矢理詰め込もうとしてる感じ。頭が痛いだけならまだマシで、酷い時だと何も考えられなくなるって言うか……頭が回ってないのに、覚えた言葉が頭の中で延々とぐるぐる渦巻いて気持ち悪くなったりして。で、気持ち悪いって思った事そのものをまたちゃって、また頭の中でぐるぐると。負の無限ループのはじまり」

「……」

 滅茶苦茶辛いんじゃないのか、それ。笑いながら言える事とは思えない。さっきの茶化しをやや反省はするものの、当人じゃないからその奇妙な感覚を想像するのがどうにも難しい。共感したいわけじゃないけれど。

「だから、記憶を全部綺麗さっぱりと消してもらう為に入院してるの。そうすれば、容量も空いて頭もすっきり」

 セーブデータを消す感覚で、記憶を消すのだと言う。

「なるほどな」

 息を吐く。

「神崎の話はよく分かった。学園一である頭の良さは大変な事情による副作用――副産物? であることも。けど」

 だけど。だけれども。

「記憶を消すなんて、そんな事が出来るのか?」

 現実味が無い。ゲームじゃないんだぞ。私が知らないだけで、そこまで医学が発達しているものなのか?

「それが出来るんだよ。洗脳装置みたいな奴に繋がれて、お薬飲まされて眠らされて、目が覚めると記憶が無くなってんの。すごいよね」

「そんな薄い本みたいな治療が現実に存在するか!」

「薄い本?」

 神崎はきょとんとした。

 反射的にツッコんで、墓穴を掘ったと思ったのだがどうやらセーフだったらしい。薄い本は分からないのかよ。分からねえ奴だ。

「なんでもない……」

「そっか。でも、本当の話だよ。何回か経験してるし」

「初めてじゃないのか」

「うん。三回目かな? 記憶が増えすぎて頭痛とかが酷くなったタイミングで記憶を消して貰ってるの。小学校を卒業した時に一回、中学卒業で一回、そして明後日の施術で三回目」

 そういえば山田も言ってたな。

『持病の治療だそうだ。数年に一度入院してるんだとさ。それ以上の事は分からん』

 と。

「記憶を消しても、忘れない病気は治らないのか」

「うん。ハードディスクをフォーマットしてもハードディスクは保存の仕方までは忘れないでしょ?」

「分かるような分からないような喩えだな……」

「ニュアンスが伝わったんならいいよ」

 そう割り切って良いものでも無い気はするけれど。

「……神崎の病気の事は信じる。その信じ難い治療で、記憶が無くせるのもこの際そういう事にしておく」

「うん」

「私の疑問は――興味があるのはここからだ。記憶が無くなった後のお前は、一体全体どうなってしまうんだ? 聞き間違いでなければ、全部の記憶を消す、みたいな事を言っていた気がするんだが。文字通りの全部、なのか?」

 言葉とか、常識、家族のこととか。それらも忘れてしまうのなら、生まれたばかりの赤子みたいになってしまう気がするが。

「あー、うん。するどいね。全部って言ったけど、そういう観点から言えば全部ではないね。自分の身体に深く根付いているモノ――例えば言葉とか、習慣みたいなものは半分くらい覚えたままでいられる」

 半分は、残るのか。いや、半分しか残らないのか?

 ともあれ。

「言葉から覚え直しとか、そういう事にはならないのか」

「そうだね。でも、それ以外の思い出とか、友達の名前とか、伊原さんの事とかは、絶対忘れちゃう」

 私が一つのカテゴリにされているのは置いといて。

「忘れた後、どうするんだ」

 記憶を失った、空っぽの神崎優里香は。

 一体、どうするって言うんだ。 

「私の記憶を覚え直して、皆の知ってる神崎優里香を演じるだけ。記憶を失った事なんて、誰にも悟らせない」

 私の問いに、神崎はさも当然の様にそう答えた。

「記憶を失った事を悟らせない?」

「うん」

「どうやって」

「簡単だよ」

 ベッドテーブルに置かれていた、薄青色の表紙のノートを掲げて、神崎は言った。

「これを使う」

「ノート?」

「そう。ノートに書いておくの。不要な記憶を省いた、必要最低限の事をね」

 そういえば。

 私がこの病室に来た時。神崎は、一心不乱に何かをそれに書き込んでいた。てっきり私は、入院してまで勉強をしているものとばかり思っていたが。

「これに必要な記憶が全部書いてあるんだから、これをまた覚えれば元の神崎優里香を再構成出来るでしょ?」

「ちょっと待ってくれ……整理させてくれ」

「ちょっとだけね」

 神崎優里香を再構成て。ここまでの話に現実味は無かったけど、この文字列は噴き出しそうになる。

 ともかく、整理する。

 目の前の女、神崎優里香は、学園一の天才である。

 その才女は、実はとんでもない病気であった。

 その病気は、覚えた事を自分の力では忘れられなくなる。

 その病だからこそ、神崎優里香は才女であったのだ。

 しかし、忘れられなくなる事で、体調面で支障が出る。

 だから、記憶を病院で消してもらう。そうすれば治る。

 ただし、記憶を消しても病気そのものは治らない。

 記憶を消す前に、ノートに必要な記憶を記しておく。

 そして記憶消去。

 すべて忘れた神崎はノートを読んで、記憶を覚え直す。

 神崎優里香を、私が知る神崎を、再構成。

 そういうことだと、思う。思うのだが。

「神崎」

「うん」

「お前、頭おかしいんじゃないのか?」

 冷静になればなるほど、やっぱり漫画みたいだなと、そんな感想しか出てこない。もしかして、全部神崎の嘘で、私はからかわれてるだけなんじゃないかとか思った。そうだったら、やっぱ天才は凄いんだなって思うだけで済んだのに。

 しかし。

「そうだよ? 私の頭はおかしいの」

「……」

 そう返されてしまうだけ。さっきの山月記暗唱で、嘘じゃない事くらい分かってる筈なのにな。

「神崎の言う事は、言うだけなら簡単だ」

「うん」

「本当に出来るのか?」

「出来る」

 力強い断言。

「少なくとも過去二回は、うまくやったしね」

「友人達にはバレなかったのか?」

「バレてない、と思う。そもそも記憶消したタイミングは卒業してからだし、私は皆と違う学校に進学したから疎遠になっちゃったし」

 それはうまくやったって言い切っていいのか。

「でも、今回の記憶消去は、いつもと違う点があってさ」

「違う点?」

「そう。記憶消去が在学中に行われること」

 私達は、学園の二年生である。卒業は再来年。

「頭の容量の都合で大体三年周期で処置して貰うことになってたんだけどさ。今回は一年半くらいで処置しなきゃいけないこと。それがどういう事か、わかる?」

「……覚えた事が、例年より多かった、とか?」

「正解」

 だけど。

「それが、なにか問題があるってのか?」

「あると言えばあるし、無いと言えば無い」

 どっちだよ。

「普通に過ごしていれば、頭が一杯になるのはまだ一年以上先だった。でも今回は、、来た。何をそんなに覚えちゃったかって言うと――」

 神崎が、わざとらしく天井を仰いでから私の方を見た。

「伊原さんの、こと」

「私」

「私ね、こんな頭だから。余計な事は覚えない様に振る舞うつもりでいた。友達は作るけれど、一線を超えるような関係は作らない

 つもりでいた。そこを、神崎は強調した。つまり、出来なかったって事だ。

「けれど、入学式の日にさ。伊原さんを初めて見た時。私は身体がぞわって、した」

「それは」

「端的に言うと一目惚れしたの。顔が好みだった」

「あまりにも正直……」

 目を逸らした。

 いや、なんとなく察してはいたけれども。聞こえてないフリをしていたが、好きとかそんな類の事言ってたし。

「同じクラスだって事が分かって、ガッツポーズしたかったくらい。仲良くなりたいなあって、思った。思っちゃった。友達になれるきっかけがほしかった。けど、伊原さんは自分の世界に籠もるタイプの人だって分かった」

 私のことを、見ていなかったんだ。と。

「でも、それで伊原さんの美しい世界は完成されていた。私の介入する余地なんて無いほどに。だから、都合は良かったの。伊原さんが見てる世界を、私は伊原さんごと眺めてるだけでよかったの。それだけで、よかった。のに」

「のに?」

「戯れにね、伊原さんの事を、ノートに書いたの。本当に些細なことから。今日も格好良いなあ、とか。退屈そうだなあ、とか。今日はちょっとだけ楽しそうだなあ、とか。あと、友達から聞いた伊原さんの噂とかそういうのもまとめたり。最初は数文字、一行だけとかだったのに、気がついたら日に日にその量は増えていって。気がついたら伊原さんの事だけを書くノートまで作ってる始末だった。やめられなかった」

「……」

 人を麻薬みたいに言う。

 それくらい、本気なんだろうな。

 それくらい想われてる事は――悪い気はしなかったけれど、嬉しいとも思えなかった。

「ノートを書けば書くだけ、伊原さんへの想いが記憶となって私の頭を圧迫していったわけ。脳内メーカーで私の名前を使えば半分くらいは伊原って出ると思う」

「脳内メーカーって何だよ……」

 何年前のコンテンツなんだ。

「伊原さんの事ばっかり覚えちゃったもんだから、頭痛が例年より早く始まっちゃった」

「それは……私はなんて言うべきなんだ。すまないことをしたなって謝ればいいのか?」

「もっと誠心誠意込めて謝って」

「調子に乗るな」

 神崎がまた、あははと笑う。

「こうやって話して、楽しいな、嬉しいなって覚えた事も全部、忘れちゃうんだよね。それが、どうしても怖い。それだけが怖い。誰かを好きになっちゃったのは、流石に今回が初めてだから。好きになった人の事を、一瞬でも忘れなきゃならないのは、つらい」

「ノートに書いておけばいいんじゃないのか?」

「それは勿論書くよ。でも、ノートに書くのは、私の記憶の記録でしかないわけじゃない?」

「記録……」

「伊原さんが記憶喪失になったとして、誰かに誰かが写った写真を渡されて、この人はあなたの親友だったんだよって言われて、はいそうですかって、すぐに親友の頃にしてた振る舞いが出来るかって事」

「――」

 無理だろう、そんなの。記憶喪失に付け込んでくる奴かと疑心暗鬼になるに決まっている。

「――あ」

 気付いた。

 神崎は、それをしなければならないのか。記憶を失ったことを、隠し通さなければならないのだから。

 出来るのか、こいつ。そんな事が出来るのは天才しかいないと思うのだが。いや、目の前のこいつは天才と呼ばれる女で。……出来るから天才なのか、天才だから出来るのか。もはやどっちなのか分からない。頭が混乱する。

「伊原さん以外の人との関係は、忘れても綺麗に元通りに出来る自信がある。してみせる。唯一の心配は、今この瞬間に伊原さんに抱いている恋心と寸分の狂いも無い同じ感情を抱けるか――それが、それだけがどうしても自信が無い」

「……」

「だから、今日。伊原さんが知ってる私が、伊原さんと会える最後であろうこの日に、私は私のワガママで私が伊原さんに抱いている想いを、何も考えず、ただ一方的に伝える場を設けたの」

「――私がここに来る確信も、あったんだな」

「勿論」

 私がここに来たのは、山田に日直だからと頼まれたからだ。私が日直である事を、こいつは覚えていた。きっと、今日に重なる様に入院する様調整したのも、今なら容易に想像する事が出来る。

「聞いていいか」

「どうぞ?」

「私は、お前の気持ちにどう応えてやればいいんだ」

「それを決めるのは伊原さんだよ。好きとは言ったけど、付き合ってとは言ってないし。だから、本当の本当に好きにしてくれていい。無理に返事するくらいなら、無視してくれていい。私はマゾヒストなので結局喜ぶ」

「……。じゃあ、神崎が病気である事を誰かに言いふらしたりしても?」

「伊原さんはそんな事しないよ。それをしたことで得られる反応への興味は全く無い人だから」

 謎の信頼感。実際その通りなんだけど、ここまで私の事を理解していると困惑してしまう。

「そもそも信頼されないでしょ。何も忘れない病気だなんて与太話」

 確かに。

「……もう一つ。私が日直だったとは言え、私が見舞いに行くことを断ればこの場は成立しなかったじゃないか。そうなっていたら、どうするんだ」

「そん時はそん時だよ。そういう運命だったって事で、私の初恋の感情がどこかに消えてはいおしまい」

 神崎がここで、あ、と声を上げた。

「でも、そうはならなかった。ならなかったんだよ、伊原さん。だからこの話は――」

「思い出したかの様に名シーンの台詞を引用すんな」

「ふふ、ネタが通じるのって気持ちいいな。やっぱり、伊原さんとはもうちょっと早く友達になりたかったね」

「……」

 勝手に友達にされてしまった。

「でも、そんなもしの展開の話をしたところで、結局伊原さんは私の思惑通りこの病室に来てくれた。それだけで、もう。私はすごく嬉しい。だからね」

 一呼吸。それから、満面の笑みで。

「ありがとう」

 と。

「……どういたしまして?」

 私としては壮大な計画に巻き込まれてるとは知らなかったわけで。どうにも、反応に困ってしまう次第であった。

「えへへ。――っと、だいぶ話し込んじゃったね。ごめんね伊原さん、少しだけって言ったのに」

 カーテンの向こう側が既に暗くなっているのが分かる。病室内のデジタル時計は、午後五時を示していた。冬なので、暗くなるのが早い。

「平気だ」

 話の区切りが付いた所で、私は帰り支度を始めた。とは言え鞄を忘れない様にするだけだけど。

「むしろ、神崎の方はもういいのか。私に言いたい事とかもっとあったんじゃないのか」

「あるけど、もう大丈夫。我慢します」

「何故?」

「これ以上楽しくなっちゃうと、忘れた時の事考えると辛くなりそうで」

「そうかい」

 その気持ちには、やっぱり共感してやることは出来ないけれど。

「っと」

 鞄を持って立ち上がった。

「それじゃあ神崎。私は帰る」

「おっけー」

 ようやく、見舞いのイベントが終わる様だった。

「じゃあね、伊原さん。今日の出来事は忘れてくれていいからね」

「人に好きって言っといて忘れろって言うのも中々身勝手な奴だな」

「確かにそれもそうだね。言い直す。次に学園で会う時は伊原さんの事が超、滅茶苦茶、猛烈に好きだった私じゃないかもだけど――学園でも、今日みたいにまたお話出来たら嬉しいな」

「……ああ。それじゃあ」

「またね」

 その会話を最後に、私は病室を後にした。ナースステーションに面会カードを返してそのまま帰路に。

「……」

 暗く、寒い外に出て。神崎のいた五階あたりを見上げて、神崎にされた今日の一連の会話を反芻する。嘘みたいな、本当の話。それを思い出して、小さく呟いた。

「――神崎優里香は、学園一の才女である。か」

 それを改めて自覚した。

 人は、どこかしら歪んでいる。性格とか骨格とかそういう意味では無く。人が、その人たらしめる要素というか。言うなれば個性がイメージに近いか。私はそれを歪みと捉えている。その歪みを、美しく、意図的に魅せる事が出来る人物のことを天才だと私は思っている。私は、神崎に魅せられてしまった。辛い病の身でありながら、それを感じさせないあの笑顔に。私の事が好きだと言うあの笑顔に。

 別れた今、自分の世界の殻に閉じこもったこの瞬間だって、あの笑顔が脳にこびりついて離れない。それどころか、すぐ傍に神崎がいる様な錯覚だって覚えたかもしれない。

「すごいな、神崎は」

 他者への関心が薄い私に、ここまで興味を持たせるのは、中々出来ない事だと思う。

「ふ」

 帰る足取りが、妙に軽い。柄にもなく、テンションが上っているらしい。休み明けに、全て忘れて元通りになった神崎の顔を見るのが、少しだけ楽しみになっている私の姿が、そこにはあった。

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