3
一度だけ、瑠香と離れ離れになるかもしれない事件があった。瑠香が中高一貫の女子校に入れられそうになったのだ。事件というには大げさかもしれないけど、小学生だった俺たちにとって身の回りで起こることはなんだって事件だった。もっとも、俺がその事件の詳細を知ったのは小学校を卒業する日になってからだったけど。
俺と同じ中学校に行きたかった瑠香は、進学先を決めた母親に三日三晩泣いて抵抗したらしい。普段感情をあまり見せない瑠香が泣いたというのは驚きであり、同時に喜びでもあった。彼女は、俺と一緒にいるためならば泣いてくれるのだ。
真っ赤な目で誇らしげに笑う瑠香のことが愛おしくて、俺はこの先ずっと彼女の側にいようと誓った。そう願ってさえいれば、本当に彼女の側にいられると思っていたから。
「正ちゃん、入っていい?」
控えめなノックとともに、ここ最近聞いていなかった声が聞こえた。少し驚きながらも返事をすると、瑠香が部屋のドアを開けた。
「どうしたんだ、突然」
「正ちゃんって地理の授業取ってたよね。ノート借りたくて」
「あ、ああ、いいぞ。ちょっと待っててくれ」
立ち上がって棚の方に向かう。これまでなら遠慮なくベッドに座っていたところだろうに、瑠香はドアの近くに立ったままだ。そんな小さな変化が悲しい。
「えーっと……これでいいか?」
「ん、ありがと。なるべく早く返すね」
「気にしなくていい」
ノートを受け取ると、瑠香はさっさと帰ろうとした。俺は咄嗟にその腕を掴む。力の差があるので、驚くほどあっけなく引き止めることができた。
「……どうしたの?」
振り向いた瑠香が首を傾げる。
「あ、いや、その……そんなに急いで帰ることないんじゃないか。茶でも入れるからさ。わかんないところがあるんなら、教えるし」
「……だいじょぶ。これまで、勉強も正ちゃんに頼りきりだったし……ちゃんと一人で頑張るよ」
笑顔で言われたそれは明確な拒絶で、俺は突き放されたみたいな心地になった。こんな気持ちになるなんておかしい。だってこれまで瑠香の面倒を見てきたのは俺の方で、なのに、どうして俺の方が捨てられたみたいになるんだ。
「正ちゃん? ねえ、手、離して」
「……いやだ」
「え?」
「なんでだよ。別にいいだろ? お前に彼氏がいたって、二人でいてもいいだろ! なのになんでそんな風に言うんだ。何が悪いんだよ、何もしないのに」
瑠香の瞳が揺れる。痛くしないように気を付けながら、瑠香の腕を掴む力を強くした。
「……正ちゃん。離して」
「ちゃんと答えたら離すよ。なあ、別にいいだろ」
「駄目だよ」
「なんで」
「駄目なんだよ。恋人がいたら、他の異性と遊ぶのは駄目なの。正ちゃんだって、恋人がいたらそう思うよ。嫉妬して、いやだって思うから」
「俺は恋人なんて作らない」
「そういう話じゃないよ。わかって、正ちゃん。誰かと恋人になるって、そういうことなんだよ」
「それがわかっててなんで瑠香は彼氏なんて作ったんだ? 俺と一緒にいたくないのか?」
瑠香が何か言いたげに口を開いたが、言葉は発せられなかった。代わりに目線が伏せられ、ため息が聞こえる。
「正ちゃん。私たち、もう高校生なんだよ。大人になるの。これまでと違ってずっと一緒にはいられない。わかるでしょ」
「わからない」
「わかってよ。だって私と正ちゃんは、恋人にはなれないんだから」
そう言った瑠香は明らかに傷付いているといった表情で、俺は一瞬言葉に詰まる。それでも、引き下がることはできなかった。
「……恋人じゃなくても、一緒にいていいだろ」
「正ちゃん」
幼子を嗜めるような視線を向けられた。その目の意味がわからない。お前の世話を焼くのは俺の役割で、瑠香はそんな、大人みたいな目をする奴じゃなかったのに。
「離して?」
視線とは裏腹に甘えるみたいな声だった。俺は瑠香に甘い自覚があるから、つい手を離してしまう。
「じゃあね、正ちゃん」
ひらひらと手を振って、瑠香が部屋を出て行った。手の中に残った熱がひどく心をざわめかせる。
二人でいるのが当たり前だった俺に、一人でいるこの部屋は広すぎる。でもその寂しさを、瑠香はもう埋めてくれない。
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