第4話
三日前。
朝っぱらから酒を樽で持ち込んだ客が、居座っていたメルと、酒盛りを始めた。
この時期、ぽっかりと空きが出来、蓮は久しぶりにストレス発散に行こうと思っていたのだが、意外に酒に飲まれる連中で、小さなこの家の崩壊が危ぶまれ、急遽キャンセルの連絡をした。
そしたら、ストレス発散の相手までやってきて、昼過ぎには酔っ払いが、増えていた。
勘弁してくれ。
げっそりとしながらも、放って置くわけにはいかず、適当に相手をしながら、肴の用意をしてやったりしていたのだが、話が妙な事になった。
「どうしてあんなに、素っ気ない子に、なっちゃったのかしら。昔は、無理にそう見せようとはしてたけど、今じゃあ、本当に素っ気なくなっちゃって。あたし、悲しくて悲しくて……」
「うんうん、どう考えても、その原因の一つは、エンだろ? なのに、すまし顔で、ちゃっかりと、あいつの家に居候しちまって……元通りになるなら、それでいいぜ? なってねえだろ?」
管を巻く酔っぱらいは、二人だ。
客はメルを入れて四人だから、もう二人は宥める役に回ってくれるはずなのだが、その二人は仲よく黙ったまま、酒を注ぎ合っている。
「一番変わったのは、葵の奴との空気だよな。最初見た時、なんであんなに険悪になったんだって、心配しちまったよ」
今では慣れてしまったが、疑問である。
メルに頷いた大男ロンは、小さく笑った女、雅を見とがめた。
「なあに? 何か、知ってるの?」
それを受けた女は、首を振ってから答えた。
「険悪じゃないですよ。単に、面白く馴れ合うのを、やめただけです」
「どうして? あの子が楽しそうにしているのを見るの、貴重だったのに」
「そう言う前振りだと、理由を言いたくなくなりますよ。あなた方に恨まれるなんて、可哀そうすぎます」
傍で、四人目の客、
「あの子が、最近でも私たちを近づけたくないのは、タガが外れただけだと思いますよ。一人で、誰かのために気をもんでるのって、結構疲れますから」
秘かに大量の酒を飲んでいる二人だが、表面上はほんのりと顔が赤いだけで、変わっていない。
だが、本音のタガは外れていた。
「お前らみたいな、過保護の保護者を持つと、それだけで疲れるからな。少し、自重してやれ」
「してるじゃないのよっ。でも、この長い年月を経て、セーちゃんも大人になったって事かしら……」
しんみりとしたロンの声に、メルもしみじみと呟く。
「大人かあ……誰か、似合いの奴と所帯を持って、幸せになってくれるのなら、寂しいけど嬉しいかなあ」
「そうねえ。でも、あの子にはまず、色恋とは何かから教えないと、誰かを好きになっても、気づかないんじゃないかしら?」
唸る二人に、鏡月が呆れて言う。
「来た当初から、教えてやっていれば、今ここで悩まなくて済むことだろうに」
「あなたがやってくれれば、良かったのよ」
「あ? なんでオレが……」
急に振られて顔を顰める若者に、メルは身を乗り出した。
「お前には、その義務があるんじゃねえのか? 成り行き任せに、何もかも見守っているだけで、何もしてねえなんて。これぐらいは、やってくれよっ」
叫ぶように言い、メルはテーブルに突っ伏した。
「オレは、蓮が、あんなに悩んで気にかけてくれてたのに気づきもしねえし、思いつめてたのにすら気づかなかった。オレじゃあ慰める言葉も、かける言葉も見つけられねえけど、お前なら、出来たはずだろ? 止める事だって、出来たはずだろうっ?」
完全に周りが見えていない女の言葉を、蓮は辛うじて聞き流しながらテーブルに肴を置いて行く。
それを一瞥してから、鏡月はしれっと言った。
「気にかけられたくないなら、先に、あの赤毛の勘違いを正してやってはどうだ? あれが一番、ストレスだろう」
「ですよね。蓮は最近、兄弟には会ったんですよ、ユズさんと」
「あら、あなた、ユズちゃんを知ってたの?」
驚くロンに、雅も驚いた。
「え、知らなかったんですか? 私、結構前に、紹介されましたけど」
女は続けて、とんでもない発言をした。
「セキレイさんとも、顔見知りでしたけど」
「何ですってっ?」
これにはメルと鏡月も、目を剝いた。
蓮も思わず作業の手を止めて振り返ったが、雅はいつものように笑いながら、首を傾げた。
「顔見知りではありますけど、仲は良くないですよ? この間は我慢しましたけど、今度会った時の、あの人の対応次第では、お仕置きの一つくらいは、してあげないと」
「……何やったんだ? あいつ」
私情では温厚な方の雅が、そこまで宣言するのは珍しい。
メルが思わず訊いてしまったが、その友人は優しく微笑んだまま、全く別な話を持ち出した。
「それより、セイの身を固める案は、前向きに考えた方がいいと思いますよ。本当に、悪い虫が、払っても払っても、へばりついてきて、困ってるんです」
これは、別な話、なのか?
考える蓮の前で、雅は笑ったまま切り出した。
「吊り橋効果、試してみたいですね。これなら、色恋を教えるより、本能に真っすぐ打ち込めますよ」
「やってみるのはいいけど、難しいわよ? あの子、結構肝が据わってて、少しの事では怖がらないもの」
「それこそ、ぼろっぼろの吊り橋か、下が見えねえくらいの崖っぷちじゃねえと」
メルと頷き合い、ロンは付け加えた。
「でも、それで怖がるかも分からないわ。怖がるとしたら、エンちゃんの方でしょ」
「え?」
驚いた声を上げたのは、雅だった。
「どうしてですか?」
「どうしてって……知らないの? あの子、高いところは、軒並み駄目なのよ」
「そうなんですか? え、でも……」
戸惑いながら、雅は過去の話を持ち出した。
「質の悪い術師に絡まれて、旅籠の二階に閉じ込められた時、助けに来てくれましたよ? 気づいたら、旅籠の外を、抱えられて走ってました」
色のある話に、メルが思わず顔を緩めたが、ロンは顔を緩めながらも、首を振った。
「助けに来たからって、二階に外から上って来て飛び降りたかは、疑問ねえ。あなたが気を失っているのをいいことに、旅籠自体、崩壊させたのかもしれないし」
「まあ、お前を助けようとして、怖いのを忘れちまった、ってこともあり得るけどな」
にやにやが止まらないメルは、雅の方に身を乗り出した。
「セイの前に、お前とエンが身を固めるのが、先じゃねえの?」
「な、何を言ってるんだ。私とエンは、ただの、師弟であって……」
「あなたねえ、そんな世迷言、あたしたちが信じると思ってるの?」
ロンも人の悪い笑顔で身を乗り出し、やんわりと問い詰めた。
「あなたは、どう思ってるわけ? あの子の事、好きなの?」
「好きか嫌いかで言えば、好きですよ? でも、それ以上の間柄になるかは、相手の出方次第じゃないですか? 一応、私としては、自分から迫るのは、どうかと思ってるんです」
「お前が迫れば、一発で落ちそうだしな」
呑気に、鏡月が頷く。
だが、それには本人が首を傾げた。
「それはどうでしょう? いえね、今だから言いますけど……何度か、雰囲気的にいい感じになって、そう言う仲になりそうになった事は、あるんです」
「な、何だってっ? おい、その話、詳しくっ」
友人の鋭い食いつき方に、雅は少し引き気味に、続けた。
「だから、なりそうに、なっただけなんだよ」
「何でっ?」
「そう言う時に限って、無視できない邪魔が、出て来るんだよ。何か、呪いでもかかってるのかな?」
今は諦めているが、あの当時は、本当にそうなのではと疑ったものだ。
そう嘆く女に、酔っ払いたちは、低く唸った。
「おい、もしやあの馬鹿親父、障害が多い方が、って奴を実行してないか?」
「どうかしら? してないって言いきれないから、辛いわ」
鏡月の真顔の問いに、ロンも真顔で答える。
「とはいえ、毎回は、やり過ぎよねえ」
「何の話ですか?」
「いえ、こちらの話よ」
首を傾げる雅に、メルが咳払いし、切り出した。
「よし、その吊り橋効果、やってみよう。もしかしたら、エンの方から、告白してくるかもしれない」
そうかねえ、と蓮は心の中で疑問に思いながら、酔いつぶれそうな客たちの様子を、のんびりと観察していたが、話が妙な落ち着き方をする気配に困惑していた雅が、不意に言い出した。
「じゃあ、この際、蓮の身も、固めません?」
「へ?」
メルが思わず変な声を出し、鏡月が目を剝いて咳込む。
「お、おい、雅? お前、何を言いだすんだっ?」
盲目の若者が慌てて窘めるが、雅は優しい笑顔のまま続けた。
「順番から言うと、エンよりこの子の方が、年上ですよ?」
「いや、だが……」
「お前、酷くねえか? 蓮は、まだ、昔の女の事、忘れてねえんだぞ?」
返事に困る鏡月を遮り、メルが叫んだ。
だが、雅は首を振る。
「だから、その、昔の女に、再アタックしてみれば、いいじゃないか。同じような、吊り橋効果で」
「……?」
雅は顔を見合わせるメルとロンの前で、目を剝いて固まる蓮に微笑んだ。
「君の事だから、分かってるんだろ? お相手の、苦手なもの」
「……」
「そうか、昔、好いてた奴と、ってことか。まだ、そいつは健在なのか?」
メルが納得して、蓮に問いかけた。
「ああ、元気だな、あれは」
答えられない若者に代わり、鏡月が短く答える。
「そうか……お前が、酷い恋沙汰を忘れられるほど、いい女で、忘れられねえのか?」
「と言うか、忘れるために、もしかしたら、例の娘さんと付き合ったのかもね」
今度は雅が代わりに答え、蓮に呼び掛ける。
「呼び出すのも、君なら、すぐだろ?」
「あら、あたしも、知ってる子?」
「ええ、よく、知ってるはずですよ」
頷くと、今度はメルが手を打って、とんでもないことを言い出した。
「そうだ、蓮とお相手と、ミヤとエンで、Wデートしたらどうだ?」
「……え?」
流石に目を見張り、雅が慌てて首を振った。
「いやいや、まずは、この子の身を固めてから……」
「あのねえ、確かに、蓮ちゃんも気になるけど、あなたの方が年上なんだから、どちらを先ってお話じゃ、ないのっ」
「安心しろ、当日は、そこには誰も近づかせねえから。それぞれのペアが、見守り合えば、それでいいだろ?」
にっと笑い、メルは親指を立てて見せた。
雅からすると、話を蓮に持っていって、自分の事は有耶無耶にするつもりだったのだろう。
だが、世話好きのきらいがある二人は、見逃さなかった。
酔っ払いの戯言と、蓮は知らぬふりをするつもりだったのだが、翌朝に話はぶり返された。
昼前には、日付と場所まで決められ、後は、蓮の相手の都合をつけさせるだけの状態にまで、決まってしまっていた。
「ま、頑張れ」
短くも無責任な鏡月だが、この次の標的だと、ロンに宣告されており、それしか言えなかったと言うのが、本当のところだろう。
適当な女を探す、と言う手もあるが、雅は明らかに相手の事を知っていて、誤魔化せない。
かといって、相手を呼び出すにも、場所が場所だけに、言い訳が難しい。
悩んだ末に、蓮は些細な噂話を、広げることにしたのだった。
その噂が、信ぴょう性を増して来たのは、驚きだった。
香水を振りかけ、髪型をいつもより女寄りにしたのは、年配者たちの思惑に反発する意を、伝える為だ。
並んで歩くセイの足取りが、いつもより鈍い事に気付きながらも、蓮は知らぬふりを決め込んでいた。
こちらは、吊り橋効果など期待出来る程、お気楽な事態ではなかった。
その効果のほどは、向こうのカップルに確かめてもらおう。
これは、今迄で、一番の難関だ。
セイは、ホラーハウスの出口を出て、ベンチに突っ伏しながら確信した。
暗さは、問題ではない。
すぐに、目は慣れてしまうからだ。
ほんのりと不気味な明かりも、ろうそくや行燈の明かりを知るセイからすると、まだ辺りを見回すのに、支障のないものだ。
問題は、最近のこの手の物では珍しい、おどろおどろしい人形の数々、だった。
それが、電動でなのか手動でなのか、不気味な動きをする。
手足が動き、時には目がこちらを向く。
気が張っている時に突然襲かかる人影は、反射的に反撃するに充分の混乱を、もたらしていた。
悲鳴を上げる前に、ついつい、襲う人間を返り討ちにして、出口に走ってしまう。
これで、三つだった。
「……不味いな。これじゃあ、連れ攫われた奴らが、どこにいるのか、調べられねえぞ」
呟く蓮の言う通り、本当に不味い事態だった。
残すホラーハウスは、三つ。
一つの施設で、ここまで多くのホラーハウスを有するものなのかと、パンフレットを見ると、趣が違うようだ。
だが、基本は変わらない。
全部のハウス内に、あれは、うようよいるのだ。
「ここまで反撃しちまってちゃあ、次は襲ってこねえかもしれねえな……」
「いや、手ごたえからして、来る奴らは、全員別人だった。この分だと、他のハウス内でも、同じだ。問題ない」
「……問題あるとすれば、お前だな」
傍に立つ蓮に構わず、セイは頭を抱えた。
「あれは動かない、動かない……動かないんだっ」
「……何言ってんだ?」
「自己暗示だよ、自己暗示」
「いや、お前はその類、効かねえだろうが」
呆れる若者が見下ろす中、必死で呟いて言い聞かせていたが、後ろで溜息を吐かれ、セイは顔を上げた。
「……使いたくねえ技だが、仕方ねえか。これじゃあ、閉園時間になっても、解決しねえ」
「……」
呟いた蓮が、手の中で何かを握りしめた。
「手を出せ」
言われるままに、まだ震える手を差し出すと、そこに一粒の錠剤を転がした。
「人の気配がしたら、直ぐにこれを口に放り込め。後は、別々の場所に連れていかれなかったら、すぐに対処してやるよ」
錠剤を握りしめ、黙って頷いたセイの頭を軽く叩き、蓮は笑いかけた。
「落ち着いたか?」
「ああ、ありがとう」
「よし、行くぞ」
立ち上がったセイは、心強い若者と連れ立って、次の場所へと向かった。
今日は平日で、すいているため、すぐに乗りたいものに乗れた。
雅は目的を忘れて、楽しんでいたのだが、一緒に乗っていた男が、徐々に疲れ果ててきているのに気づき、我に返った。
「大丈夫か? つらいなら、少し休もう」
「出来れば、もう見てるだけに、したいんですけど……」
珍しく、気弱な事を言われ、女は目を丸くした。
「本当に、駄目だったのか、高いところが?」
「いえ、そんな事ありませんよ、本当にっ」
この期に及んでそう言うエンに、女は優しく笑った。
「じゃあ、今度は、観覧車に乗る?」
「……」
取り繕う余裕がない男を見上げながら、雅は優しく告げた。
「正直な男の方が、可愛いよ?」
「か、可愛い? あの、確かに、あなたより、年下ですけど、可愛いは……」
「苦手なら苦手と、正直に言ってくれよ。言ってくれたら……」
少し考えてから、女は続けた。
「少し、高度を下げた物に乗るよ?」
「一番最初に、最高度の乗り物に、乗りましたよっ」
「あれを耐えたんだから、我慢できるよ、きっと。スピードは、観覧車の方がゆっくりだし」
泣きそうになりながらの返しに、雅は思わず胸を打たれながら、慰めるように言う。
「……今から謝るのは、駄目ですか?」
「今更?」
それは本当に、今更だった。
つい剣を帯びた声で返してしまう女を見上げ、エンは困ったように溜息を吐いた。
「分かりました。全部お付き合いします。その前に……」
「何?」
「この手、封じてしまいたいんです。何か、縛る物、持っていませんか?」
男が言いながら上げたのは、左手だ。
小さく震えているのを見て、雅は察した。
この手は、持ち主の自由に動かない。
元々利き手だっただけに、つい動かそうとしてしまい、この間のように家の物を壊してしまうのだ。
「先程から、ここの物を壊しそうで、怖くて」
「分かった。何か、買って来るよ」
力強く頷いて、雅は立ち上がった。
「君はここで、休んでて」
言い置いて、走って行く。
売店を探しながら走っていたが、ふと立ち止まった。
嗅ぎ覚えのある匂いが、近い。
顔を上げると、いくつかある、ホラーハウスの一つだ。
「……やっぱり、蓮も気づいてたんだ」
雅は頷き、少し考えてその中へ入った。
女一人で平然とホラーハウスに入るのを、入り口の作業員は怪訝な顔で見送ったが、雅は気にせずに順路を進んでいく。
どこかであの二人と鉢合わせすると思ったが、残り香だけだったのか、追いつけない。
途中で走ったのかなと、無理に追いつくことをやめ、歩みを緩めた時、足が何かを蹴った。
妙に固い何かで、少し驚いて見下ろすと、見慣れた物が転がっていた。
「……セイの、携帯電話?」
間違いない、自分が贈ったストラップ付の、セイの携帯電話だった。
しかも、蓮が振りかけていた、香水の匂いが移っている。
落として気づかぬほどに、取り乱しているのか、何かのトラブルに巻き込まれたのか。
「……」
考えながらも順路を進み、雅は出口を出て外に出た。
すぐ近くに救護室を見つけ、そこでテーピングを分けて貰い、エンの待つ場所へ走って戻る。
「ただいま。手を出して」
「はい、すみません」
ベンチに座って待っていたエンは、素直に左手を差し出した。
隣に座り、指が動かないように、丁寧にテーピングしていく女の手先を見ていた男は、その視界に見慣れたものを見つけ、目を上げた。
「あれ、それ……」
雅の膝の上に乗ったそれは、見た事のある携帯電話だ。
「どうして、セイの携帯電話が?」
「あ、そうだっけ? ホラーハウスの中で見つけて、落とし物かなって。後で、事務局に届けようと、思ってたんだけど」
取り繕って言う雅に、エンは首を傾げた。
「ホラーハウス?」
「そう、直ぐ近くの、西洋のお化けを集めた、ハウスだよ」
「何で、そんなところに、入ったんですか? 刺激がないって、入ろうとしなかったのに……あ、まさか」
不自然過ぎたかと、内心焦る女に、男は穏やかな声で尋ねた。
「まさか、ミイラ男の包帯を、剥いで来る気だったんじゃあ、ないですよね?」
「あ、いや、でも、全部、作り物だったから、剥げなかったよ、ははは」
私を、どういう目で見てるんだ、この子はっ。
思いつつも笑いで誤魔化し、話を逸らす。
「でも、セイがこんな所にいるなんて、あり得る?」
「どうでしょう、仕事でなら……誰かの護衛か、何かですね。でも、ホラーハウス、ですか」
「そうなんだよ。入りそうもない場所だから、似た携帯ってだけだと……」
エンは小さく断って、右手で携帯電話を取った。
軽くボタンを操作して、頷く。
「通話以外、出来ないように設定されていますね。それに、この型、間違いないです。知り合いに特別に作ってもらったとかで、永く使っているそうですから」
「そうか。あの子、落としたのに気づかないようなところに、こんな大事な物入れる子じゃ、ないんだけど……」
小さく唸って顔を上げると、エンが雅を見つめている。
「ど、どうしたの?」
「まさか、誰かの、策略ですか、これ?」
「何が?」
内心ドキリとしながら問い返す女に、男は穏やかに微笑んで首を振った。
「いえ、こういう詰問は、やめておきます」
どうせ、今後の行動を変える事は、出来ない。
胸の内で男が投げ槍になっているのが、手に取るように分かるが、雅は敢て分からぬ振りで微笑み返す。
「そうだね、あの子の方は仕事だろうから、こちらが詮索して邪魔したら、きっと怒る」
それから、可愛らしく見えるらしい仕草で、首を傾げてエンの顔を覗きこんだ。
「そろそろ、大丈夫?」
それを見返した男は、一瞬目を見張り、笑い返して頷いた。
「はい、お付き合いします」
若干声は固いが、男は覚悟を決めたように立ち上がった。
和風仕立ての、いわゆるお化け屋敷で、里沙を見失ってしまった時、楓は必死で探した。
順路しか歩いていないのに、端の人形に気を取られほんの一瞬だけ、目を離しただけなのに、煙のように消えていたのだ。
薄暗い中、順路を入り口まで戻って探してみたが、見つからない。
不安に駆られながら出口を出、甥の瑪瑙を探す。
一人で探しきれないなら、人数を増やして手分けする。
今に戻るだろうと楽観していては、どんな取り返しのつかないことになるか、経験済みだった。
だが、携帯電話を持たない甥っ子も、見つけるのは骨がいる。
どこにいるのかも、見当がつかない。
途方に暮れる楓に、声をかけた男がいたのだ。
「どうしたの?」
軽々しい笑顔で、男は声だけは優しく問いかける。
ナンパ初体験、だ。
大陸から父親たちと共にこの国に渡り、
凪沙は牢人者と恋仲になり、直ぐに子まで恵まれたが、楓の方は我慢する気力が弱く、度々騒動を起こしてしまい、結局蘇芳と手を組むまで、落ち着いて男を漁れなかった。
当時は顔つきに粗暴さが出ていたのか、こんな軟派な男は近づかなかったが、永く政治家の妻としてつつましい生活をしている上に、元々一族の女の特有の体格が、気安い空気を作ったのだろう。
もう見た目もそこまで若いとは思わないのだが、若い男に声をかけられるのは、嬉しい。
「実は、甥の娘が、いなくなってしまったの。可愛い子なんだけど、見なかった?」
やんわりと問いかけると、小柄で童顔の女の雰囲気に見惚れ、男は頬を緩めながら首を振った。
「あんたに似た可愛い子なんて、何人もいないから、すぐ分かりそうだけど、残念だな、見てないや」
「そう。ありがとう」
「何なら、オレも一緒に探してあげようか? どうせ、暇だし」
すぐに興味を失いかけた楓に、男は慌てて声をかけて切り出した。
「本当? 嬉しいわ。あなたみたいな子が、あの子の彼氏ならいいのに」
人当たりのいい役は、蘇芳の役なのだが、今は一人なので、仕方なく笑顔を振りまきながら男を持ち上げる。
「いやいや、あなたのお役に立てるのなら、本望ですよ。どこではぐれたんですか?」
「この中よ」
すぐ傍の、出て来たばかりのお化け屋敷を指すと、付け加えた。
「入口まで引き返して探したけど、見当たらなかったの」
「へ、へえ。お化け屋敷、好きな子なの?」
「ええ。研究したいんですって。男を虜にする方法を」
いい事だわと笑う女に、軟派男は何故か目を剝いたが、すぐに気を取り直した。
「なら、他の化け物屋敷に行ったのかも」
「あら、ここだけじゃないの?」
「ここさ、六つあるんだよ。西洋と東洋と、欧米と……今の日本で流行ってる、ホラーで六つ」
パンフレットを開き、本当だわと呟く楓と男は連れ立って、二つ目のホラーハウスに向かい、一緒に中を探したのだが……。
その途中、背後から攻撃を受けた。
余りに意外で、全く警戒もしていなかったため、抵抗する間もなく、睡魔に引っ張られてしまった。
どのくらい経ったのかは分からない。
分かったのは、眠気は去ったが、体が思うように動かない、と言う事だった。
体が鉛のように、と言う表現は、こんな時に使うのかと、楓は納得しつつ目を開けると、真っ暗な中に、うごめく者がいた。
夜目に慣れる必要もない楓には、それが女だと分かる。
しかも、一人ではない。
見る限り、十代から三十代の女が数人、楓と同じようにぼんやりと起き上がっていた。
頭も、ぐらぐらする。
もしや、とは思う。
一度もそんな目に合った事がないから、分からないが……寝ている間に、何か非合法の薬でも、打たれたのか。
腕を伸ばして、自分の腕に針の後でも見つけられれば確定なのだが、生憎、首以外の場所は、直ぐに怪我が治る体質で、確かめようがない。
油断していると、こうも簡単に悪意の者の手に落ちるのかと、今迄ニュースで見るこの手の犯罪の被害者を、部外者の目で見ているだけだった楓は、実感した。
そして、大事なことに思い当たり、慌てて周囲の女の顔を見直す。
こんな所に、里沙が連れ去られていたと知れれば、もう遊びに誘う事が出来ない。
誰がどう思おうがどうでもいいが、楓は残った親族だけは、末永く守りたいと思っているのだ。
それなのに、よりによって凪沙の孫娘を危険な目に合わせては、甥っ子どころかその周囲の者にまで嫌われて、近づけなくなってしまう。
ようやく、蘇芳の質の悪い病気じみた狩りが、鳴りを潜めたのに。
見渡す限りでは、愛らしい娘の姿はない。
だが、最悪な場合も考えられた。
焦って身を起こそうとする内に、壁が切れて光が差し込んだ。
目を細めてそのまぶしさをやり過ごす楓は、その光の中に数人の男を見止めた。
軟派男かと思ったが、その顔は見覚えがない。
分担して女たちを覗きこみ、何かを呟き続ける女と、触れられても全く動かない女に目を止め、抱え上げる。
その事務的で、物を扱うような動きが、楓の癇に障った。
「何を、してるの、あなた方は」
絞り出す声は、男たちには予想外だったようだ。
驚いて振り返った男の一人に体当たりし、女に触れている男たちを引き離す。
記憶の底にわだかまった思い出が、湧き出て来た。
父親とその一族は、空腹のときは、同族の者にすら襲い掛かる、異端の一族だった。
己の子を産んでくれた女すら例外ではなく、楓の母親も物心がつくころに、いなくなった。
母が共食いの餌食になったと知るのは、腹違いの兄弟の母親たちが、命を落とす現場に立ち会った時だった。
幼かったわけではないのに、止める事が出来なかった。
同族に止まらず、人間にまで子種をばらまき、同じように餌食にしていくようになった彼らが、自分たちの反抗心だけで、その考えを改めるはずはなかったのに、楓は腹違いの兄弟たちを連れて、逃げる事しかできなかった。
その後悔が、沸々と湧き上がった。
同族ではあったが、同類にはなりたくない、そんな思いで様々な欲求を我慢して来た。
怒りに任せた、殺戮も。
だが、今は、抑えが利かなくなっていた。
立ち尽くす楓に舌打ちし、二人がかりで抑えにかかるのを、女は無造作に振り払った。
振り払った男が飛んでいく先で、新たに連れてきた女を転がしていた男たちが振り返り、口の中で悲鳴を上げる。
壁に叩きつけられた男は、驚いた顔のままこと切れていた。
女の立つその前に、腰から下が立ち尽くしている。
叩きつけられた男は腰があった部分から、内臓と血をあふれさせ、そのまま崩れるように倒れ伏した。
絹を裂くような悲鳴が、響いた。
悲鳴の主は、楓を抑え込もうとしていたもう一人だ。
逃げる間もなく腕を攫まれ、そのままもぎ取られる。
「そうよ、初めから、こうしておけば、良かったのよ。簡単だったのね」
楓は、呟いた。
「我慢なんかしないで、皆殺し、してやればよかった、こんな奴ら」
背後で、足音が逃げていく。
振り返って、扉が開け放たれたままなのを見た。
「ああ、向こうにいるのね、お父様たち」
そして、殆んど反応を示さない女たちを見回して、微笑む。
「待っててね、すぐに、あなた達を、自由にしてあげるわ」
何かが吹っ切れて、体が軽い。
足取りも軽く、楓は部屋を出て行った。
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