鉱石の光は、星の瞬き
まゆし
鉱石の光は、星の瞬き
テーブルに置いたままのウイスキー。グラスの中にある大きな丸い氷がカランと静かに音をたてた。
俺はグラスを眺めながら、何も考えずに、夜空を感じる。
ウイスキーの横にあるショコラを口に放り込んだ。ゆったりと口の中でショコラは名残惜しそうに溶けた。甘い。
俺はウイスキーを少し口にした。
☆☆☆☆☆
少々入り組んだ道を進んだ一角に、このバーはあった。この店を見つけた時は、本当に偶然でこんなところにバーなどあったかと、ろくに働きもしない脳で家の付近の
この日、俺は少々、いや、かなり苛立っており散歩でもして気を紛らわそうとしていた。
終電も無くなった頃合いに家を出た。
街は静かだ。大通りを避けているから、人も車も通らない。歩いているうちに、何も考えなくなった。正しくは、考えることができなくなったのだ。
疲れてきたのか、眠くなってきてしまったのか。コンクリートを踏みしめる感触は、雲の上を歩いているような、そんな感覚になっていった。
けれども、どうしてだろうか家に帰るという選択肢は浮かばない。
自分の意思で歩いていることすら解らなくなってしまった俺の感覚は鈍くなる一方だ。
月明かりに照らされたバーの扉が眼に入った。
一人でいたいけど、一人でいたくない。
俺は『OPEN』のプレートが吊り下げられている扉を静かに開けたのだった。
扉を開けると変わった様子に俺の身体は驚き、すっかり鈍くなっていた感覚は元に戻った。
思いの外、暗い店内。眼が慣れるまで少し時間がかかる。数人店員がいたが、全員女だった。だが、賑やかな、いかがわしい雰囲気とは無縁で、極めて真っ当なバーだった。それにしても、どの店員も上品で非の打ち所のない美貌の持ち主だ。
カペラやリゲルのような一等星のような美しさ。いや、一等星の中でもっと強く輝くシリウスが複数存在しているようだと言ってもいい。この暗い店内が夜空ならば、彼女たちの存在は星のようだ。
そしてその接客は、何もかもが必要最低限であり、機械的なものであった。注文の取り方、飲み物の提供。カウンターで飲み物を用意する店員までもがだ。この店内は殆ど音がしない。
まさか、店員は皆、
客はまばらで、不思議と一人で来ている客ばかりだった。その表情は店内が暗くてよく見えない。
その
「いらっしゃいませ。お一人様ですか。こちらへどうぞ……」
人数を確認するような言葉があったが、一人であることを知っているような口ぶりともとれた。
無駄な動きもなく
軟らかそうで
美しい美貌から美しい声が発せられた時には、本当に人間だと思えなくなっていた。
──あまりにも全てが整いすぎている。
席に案内され、適当なスコッチウイスキーをロックで注文する。何分も待たないうちにウイスキーは俺の前にそっと置かれ、横には真四角なショコラが三粒添えられた。
持ってきたのは、
ウイスキーグラスの中で大きな円形をした氷が、グラスにコロリと優しい音をたてて静かに揺れた。
その丁寧に削られた氷は、これまた整っており。
満月のようだった。
店内は、微かな物音が耳をすませば聞こえる程度。店内に流れる曲も聴こえるか聴こえないか曖昧で、限りなく無音に近い。客は各々一人の時間を満喫している様子が窺えた。
しばらく、ウイスキーを満月の氷で薄めながら口にしていると、店の隅の明かりがついた。小さなステージが見えた。
俺は「失敗した」と思った。今、歌は聴きたくない。店を出ようか迷うが、どこから現れたのか、すでにロングドレスの女がそこにいた。
黒い生地にスパンコオルのようなものがちらりと控えめに光る。その夜空のロングドレスは裾が床に着くか着かないか。緩やかな波打った肩下まである明るい髪に、華奢な身体。
彼女もまた、美しい整った容姿をしている。
まじまじと見ていたうちに、彼女は歌い始めた。俺は急ぎ店を出ようとして、止めた。それはそれは美しい声で淑やかに歌う
人の心を動かそうとする、人の心を揺さぶろうとする、そんな歌い方ではない。彼女は何を伝えたくて歌っているのかわからない。
もしかしたら、何も伝えようとしていないのかもしれない。全く知らない曲に、全く知らない言葉。
それが、今の俺には丁度良かった。
歌は人の心を揺さぶる。
その、人の心を揺さぶる為の
少なくとも、今の俺には。
彼女を照らす光は柔らかな月のような明かりだった。そして彼女の歌は夜空に流れる天の川のようだった。
近くを通った店員を見てみた。相変わらず無駄一つない動きで、音もたてずにテーブルを拭いている。耳にかけた艶やかな黒髪が動きに合わせて、少し揺れている。眼は
視線に気が付いた店員は「何かご注文でしょうか」と無機質に美しい透き通る声で俺に問う。
俺は「いや、失敬」と、眼を逸らした。
名前を聞くことすら
俺は彼女たちを『
彼女たちがとても人間であるとは思えない。もちろん全員同じ容姿ではない。髪の長さも髪型も顔の作りも様々だった。
重要な共通点は、あまりにも人間離れした容姿を持ち、それらが全て整いすぎている、ということ。そして、やや無機質な話し方である、ということ。
美しい声を持ちながらも、無機質で人の心に触れない声を発することに、何か理由があるように思えた。
店員が皆、
意外にもこの独特な雰囲気の中で椅子に座っていると何故か安心する。
やはり、きっとここは夜だ。もしかしたら、
全ての
夜の色をした
心は潤いを取り戻し再形成されていく。
そして、歌が終わって小さなステージから去ろうとした
口元が微かに動いた。
俺に向かって何かを呟いた気がした。
結局、思案したものの俺に対しての言葉なのかも確信が持てなかったし、何を言ったのかも解らなかった。グラスにあった満月の氷が小さく小さくなった頃、帰ることにした。
あれだけ苛立ちで荒んだ心は、元の形を取り戻し潤っている。もう、ちょっとやそっとでは崩れない心になった気がした。
帰り際、店を振り返ってみた。月が店の扉を照らしている。
☆☆☆☆☆
それから数日後、またあのバーに行くことにした。多分、この辺りだ。見たことがある入り組んだ道をみつけた。
だか、バーはどこにも見当たらない。
確かにこの道の一角にあったはずなのに。
あのバーは消えていた。
あの
夜空を見上げると、雲もなく、星が瞬いていた。
満月は俺を照らしている。
鉱石の光は、星の瞬き まゆし @mayu75
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