ベアー・アタック

 桃李は走った。艶やかな黒いポニーテールを揺らしながら、鬱蒼と茂る木々の下をひたすら全力疾走した。

 辿り着いたのは、川の畔であった。そこに、おかっぱ頭をした小柄な少年が立っている。その周りには誰の姿もない。少年の足元には、竹で編んだ籠が置かれている。


「理央!? どうした!?」

「桃李……桃李なの……?」


 桃李の予想は的中した。そこにいたのは、荻原理央本人であった。そして、彼が何故叫んだのかも分かった。


 理央の背後の、少し離れた茂みに赤いものが倒れていた。その周囲には、小うるさい羽音を立てながら蝿が飛び回っている。それが何であるかを理解してしまった桃李は、反射的に目を逸らした。


 ――あれは……人間の死体だ。


 桃李の心臓が跳ねた。何が起こっているのか正確なことは何も掴んでいないが、よからぬことであるのは想像がつく。


「ど、どういうことなんだ……」

「あ、あのさ……あっちの土の地面の方にさ……その……見ちゃったんだ」

「何を?」

「クマの足跡……たくさんあった」


 理央の一言は、桃李の心胆を寒からしめるものであった。クマの恐ろしさは、祖父からさんざん聞かされている。祖父の友人にも、クマに襲われて死んだ人がいるという。


「逃げよう。理央」

「で、でもクマが何処にいるか分からないし……下手に動いて出くわしたら……」

「お爺ちゃんの小屋が近くにある。ひとまずそこに隠れて助けを呼ぼう」


 そう言って、桃李は理央の小さい手を握り、小屋のある方へ走り出した。

 桃李の祖父は、ここからそう遠くない場所に休憩小屋を作っていた。そのことを思い出したのである。

 二人の少年が走る川原には、砂利を踏む音と水の流れる音だけが響いていた。


「あっ!」

「大丈夫か!?」


 理央が、岩につまずいて転んでしまった。桃李は理央の手を引いて引っ張り起こした。

 理央が起き上がった時、その目がいっぱいに見開かれた。まるで、何か見てはならないようなものを見てしまったかのように……


「理央……」

「あ……あ……クマだ……」

 

 理央が向いている方に、桃李も振り向いた。そこには理央の言う通り、一番見たくない、一番出会いたくないものの存在があった。

 黒い毛、ずんぐりとした体、爛々と輝く双眸、恐れていたものが、二人の少年の方へ近づいてきていた。


「奴と目を合わせながらゆっくり歩くんだ」

「分かった」


 桃李は祖父から教えられたことを思い出し、理央に伝えた。桃李は理央の手を引きながら、ゆっくりとクマから距離を取ろうとした。クマの狩猟本能を喚起させないためには、この方法が一番良いと教わったのである。

 だが、クマは見逃してくれなかった。クマは真っ直ぐ、四つ足でこちらに向かってくる。クマの足は速い。本気で逃げても追いつかれる。人の足の速さで撒けるような相手ではない。

 このままでは、二人とも危ない。桃李は意を決して立ち止まった。


「え……何をするの……?」

「俺が奴を食い止める」


 そして、桃李は持参した弓を構え、矢をつがえて引き絞った。


「これでも食らえ!」


 桃李は、引き絞った矢を放った。なんと、桃李はクマに向かって弓射を敢行したのである。

 一射目は外した。矢は砂利の上に空しく落ちた。四足歩行する獣の前面投影面積は小さく、的としては狙いづらい。

 桃李は歯噛みしながら二射目を放った。二本目の矢は、見事クマに命中した。クマはのけぞり、苦しんでいる。桃李はクマの体の何処に矢が命中したのかを確認しないまま、きびすを返して逃走を始めた。


「今の内に逃げよう」

「え……」

「あれじゃクマは死なない」


 桃李が矢を射かけたのは、クマが怯み、足を止めている隙に逃げるためだ。そもそも競技用の矢は、昔の合戦で使われていた実戦用の矢と比べれば殺傷力は低い。それでも直撃すれば人間の骨を貫通するような威力は持っているのだが、タフなクマを仕留めるにはいささか不足である。

 桃李は理央の手を引いて、砂利道から林の方へ入った。


「あそこだ」


 桃李が向かった先には、トタン屋根の木造小屋があった。古くてみすぼらしいが、隠れるにはよさそうだ。桃李がその扉を開けると、二人は中に入った。

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