弓道少年の憂鬱

 矢をつがえ、引き絞る。全ての雑念を払い、ただ矢を射ることに意識を集中する。その冷涼な目は、鷹のような眼光を的に向けて放っていた。


 矢が手から離れる。屋外に立ててある的に、その矢は一直線に飛んでいく。だが、その矢は的を射抜かなかった。狙いは少し外れ、後ろの木の壁に突き刺さったのであった。


「うーん……駄目か……」


 白い上衣に黒い袴を身に着け弓を携える少年、宮城桃李みやしろとうりは、力なく溜め息をついた。その少女的ですらある秀麗な顔貌は、憂いの色に染められている。

 この練習場は彼の祖父が建てたもので、元々林業の作業小屋として使っていたのを弓道の練習用に改築したのである。周囲に民家などがないため、他者に惑わされずに練習を行うにはうってつけの場所だ。さほど遠くない場所にはキャンプ場があるが、この小屋はレジャーに来る人々の通る道から外れた所にあるため、そういった人々に煩わされることもない。その上今年は新型ウイルスの影響でそうした余所者の姿も少なく、周囲には人気ひとけが全くなかった。


 集中しているはずなのに、どうにも雑念を振り払うことができない。どんなに気を引き締めていても、一人の少年のことが気にかかって仕方がない。それが、桃李の悩みであった。


 その少年、というのは、幼馴染の荻原おぎわら理央りおである。

 彼とは近所同士で同い年ということもあって、小さい頃から何かと一緒に過ごすことが多かった。理央は桃李とはまた違った雰囲気で少女めいた所があった。桃李が凛々しさのある中性的な美少年だとすれば、理央は小動物を思わせる可愛らしさを持っている。

 理央は体が小さく気の弱い子で、からかわれたり虐められたりすることが少なくなかった。対する桃李は、中性的な容貌ながら気の強い少年であり、自分を侮る者は勿論、理央を傷つける者も絶対に許さなかった。理央を虐めた者と大喧嘩を繰り広げたのは一度や二度のことではない。そのお陰か、桃李自身が侮りを受けることは殆どなく、理央もまた、桃李が防波堤となる形で難を逃れていた。

 何をするにも、何処に行くにも、二人は一緒であった。長年の付き合いで結ばれた二人の関係は、まさしく刎頸の交わりといっても過言ではないようなものとなっていた。

 

 中学に上がると、桃李は弓道を始めた。理由は単純で、彼の父も祖父も弓道の経験者だからである。理央とはクラスも部活も離れ離れとなってしまったが、二人の交誼は相変わらずであった。

 初めの内は、新型ウイルスの影響によって学校の弓道部で活動できなかったため、専らこの場所で祖父や父に個別指導を受けていた。初めの方こそ呑み込みの速さを見せたものの、夏の頃から、桃李は伸び悩みを感じるようになったのである。

 伸び悩みの原因は何故なのか、桃李は自らの胸に手を当てて考えてみた。


 ――自分は、本当に弓と向き合えていただろうか。


 理央と何処に行くかとか、何をして遊ぶかとか、そんな浮ついたことばかり常日頃考えていたのではなかろうか。


 それから桃李は夏の間、部活動がない日でもひたすら自主練習に打ち込んだ。当然、理央と一緒に何処かに行く暇などなく、スマホで連絡を取り合うのも最小限に留めた。それは夏休みが終わった後も続いた。


 あのあどけないつぶらな瞳の少年の姿が、桃李の心をざわめかせかき乱す。理央と会わなくなってからの方が、彼のことを考えてしまうようになっている。

 今までのことを振り返れば、理央は桃李に依存する所があった。いや、実際には桃李の方こそ何処か理央に依存していたのかも知れない。自分を必要としてくれる者の存在というのは得難いものであり、のめり込んでしまうのも無理はない。


 もう、今日は終わりにしよう。そうして袴から普段着に着替え始めた、その時のことである。

 甲高い叫び声が、西北の方角から聞こえてきた。声変わりのしていない少年の声である。

 桃李はその声に、聞き覚えがあった。


「まさか……理央!?」


 こうしてはいられなかった。桃李は素早く着替えを済ませると、弓と矢筒を携えて小屋を飛び出した。

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