第2-3話 回想3

次の日もその次の日も、男君は寺を訪れては葵の下へ訪れた。

特に何をするでもない。葵をからかって遊んだり、時には和歌や琴を教えたり。

やがて夏も終わりを迎える頃。少し秋の気配が感じられる風を浴びながら、ぼうっと簀子から空を見上げていた男君はふと口を開いた。


「姫君」


そう呼ばれ、弦を弾いていた手が止まる。


「何?」


しかし男君はこちらを振り向くことなく、空を見上げていた。

近くでひぐらしが鳴いている。夏の夕べを告げるその声は、ふわりと凪ぐ風に乗り二人の間の沈黙に流れ込んだ。


そういえば、いつもすぐに帰ってしまうというのに、今日はいつまで居るのだろうか。既に日は傾きかけ、夜の気配すら聞こえてきているというのに。


そんな事を考えていると、男君は振り向くことなく口を開いた。


「明日から、ここに来れなくなります」


「え…」


頭を殴られたような衝撃が、体に走った。

まるで外界から自分だけ遮られたかのように、ひぐらしの声も、風の音も、全ての音が止まる。

その世界で、男君の言葉だけが頭の中で反芻する。

明日から、これない?


「それ、は」


どうして?

そう聞きたいのに、喉に張り付いたように声が出ない。掠れたような声色は宙に溶け、陽炎のように掻き消えた。

しかし男君は相変わらず顔をこちらに向けることはなく、ただ淡々と言葉を紡ぐ。


「家の関係で、都に戻ることになりました」


いずれこの時が来ることはわかっていた。だがそれはあまりにも急すぎて。

誰よりも近くにいた人が、誰よりも遠くなる。それはまるで、夏空の高く登る雲のように、手が届かない人になってしまうことを意味していた。


胸が苦しい。上手く呼吸ができない。

おかしい。いついなくなってもいいと思っていたのに。こんな失礼なひと、どうでも良いと思っていたはずなのに。

こんなに苦しいのは、なぜ?


「寂しいですか?」


男君はふと振り向くと、その瞳はまるで探るように葵を射抜く。


「そ、れは…」


「僕は寂しいです」


どくんと心臓が跳ねる。

しかし次の瞬間男君から放たれた言葉は、あまりにも無常なものだった。


「明日から、からかって遊ぶ相手がいないですからね」


ぴしり。

何かにひびが入った気がした。

早鐘を打つ心臓が、一気に氷解を滑らせたように冷たくなる。


「いやー明日から誰に相手にしてもらおう」


男君は笑いながら、再び視線を空に戻した。


(…ああ。このひとは)


わたくしを、一時の暇を潰す玩具としてしか見ていなかったのだわ。

もやもやと胸の内に広がる暗い感情。まるで墨をぶちまけたように真っ黒で、一片の光もないそれは、幼い葵の心に一気に広がった。


「寂しくなんか、ないわ」


ようやく絞りだした声は、どこか震えていた。


「…姫君?」


我に返ったような男君が、驚いたように葵に視線を向ける。

その瞳は、今まで見たこともないような驚愕の色に染まり、大きく見開かれていた。


「ひ、」


「もう、からかわれることもなくなるもの。清々するわ。あなたになんて二度と会いたくない!」


だいっきらい。

男君の言葉を遮り、そう叫ぶ。

途端にぐにゃりと視界がぼやける。夏の暑さに中てられてしまった時のように、白く白く歪んでいく。

葵はぎゅっと唇を噛むと、勢いよく立ち上がった。


「姫君!」


遠くで男君が何かを叫んでいた気がするけれど、もうどうでもいい。

何もかも、どうでもいい。


走って、走って。

誰もいない、寺の者しか知らない離れの部屋に駆け込むと、葵は勢いよく扉を閉めた。

胸が苦しい。しかしそれはきっと、走って息が切れたことだけが要因ではないのだろう。

必死に空気を求めて呼吸を繰り返すも、溢れて止まらない感情と涙がそれを拒んだ。


「うっ…」


漏れる嗚咽を必死に抑え、膝に額を押し当てる。


(どうして涙が溢れるの?どうしてこんなに悲しいの?)


しゃくり上げながら、止め処なく溢れる涙は頬を伝い、濃袴こきばかまにいくつもの深い染みを作った。


――姫君。


優しく自分を呼ぶ男君の声が、頭に響く。

嫌いなんて嘘。会えなくて清々するなんて嘘。本当は、会いに来てくれて嬉しかった。話しかけてくれて嬉しかった。


最初は鬱陶しかった。なぜいつも自分は遊ばれているのだろうと不満だった。

でもいつの間にか、共に過ごす時間が長くなるにつれ、あの人の事を考える時間が多くなった。

いつ来るのだろうとそわそわする時間も、いつも感じていた胸の高鳴りも、熱くなる頬も。

全部全部、あの人を求めていたからだったのだ。


ああわたくしはこのひとが好きだったのだと。ようやく理解するには、もう全てが遅過ぎた。

ようやく理解したのに、瞬く間に失ってしまったこの感情の行き着く先は、もうどこにもない。



その後、何度か葵の下に文が届いた。そこにはいつも、朝顔が添えられていて。

しかし結局葵が都に戻るまでの間、それは一度も読まれることはなく、葵が寺を発つ最後の日、夏の思い出とともに火にくべたのだった。

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