第2-1話 回想1
思い出せる限りの記憶の中で、彼の君はいつの間にか記憶の中にいた。
当時、まだ裳着を済ませる前の葵は燃えるような夏の暑さに体調を崩してしまい、心配した両親によって懇意にしていた寺に預けられていた。
「はあ…やっぱり朝顔の斎院さまは素敵だわ」
そこに広がる煌びやかな世界は、今をときめく源氏物語。女房達、いや貴族の中で大人気の作品を、両親に無理を言って入手してもらったのだ。
目の前に広げられたそれは、朝顔の帖。
主人公である源氏の君と、従妹である朝顔の斎院との話を描いたものである。
「最後は出家されてしまったのね…」
きらきらと輝く大きな瞳が、美しく描かれる物語を夢中で追う。
当時、自分は源氏物語に熱を上げていた。煌びやかな世界、美しい姫君達、そこで繰り広げられる源氏の君との恋模様。
全てが自分の体験することのない世界で、絵巻物を広げてはその世界を堪能していた。
視線を上へ滑らせる。
するといつの間にか、自分と絵巻物の上に大きな影があることに気づいた。
「姫君は朝顔の斎院派ですか」
「きゃあっ」
不意に上から放たれた声に、何とも素っ頓狂な悲鳴を上げてしまう。
「珍しいですね。宮中では紫の上とか藤壺の宮が人気だそうですよ」
驚いて頭上を仰ぐと、そこにはこちらを覗き込む一人の男君が立っていた。
夏らしい紗の狩衣を纏い、その頂には
慌てて広げた絵巻物を隠すように両手で覆うと、真っ赤になりながら男君を睨みつける。
「いつもいつも!淑女の部屋に勝手に入ってくるなんて!どういう神経していらっしゃるの!?」
「声はかけたのですけどね。姫君が絵巻物の世界に夢中で気づいてくださらないので勝手に入ってしまいました」
「理由になってないわ!」
「まあまあ。ほら機嫌を直して、淑女は声を荒げたりしませんよ」
真っ赤になって怒る葵を他所に、楽しそうに笑う男はよいしょ、と掛け声を出しながら寝そべる葵の横に腰を下ろした。
住職の知人だというこの男は、頻繁にこの寺を訪れては何故か葵をからかって帰る事が日課となっていた。
いくら葵が聞いても、素性は一切何も教えてくれない。いつも現れるのは一時で、すぐに何処かへ行ってしまう。
そんな飄々とした男君に、葵はいつも弄ばれていた。
「朝顔の斎院のどこがいいんです?ちなみに僕は夕顔の君派なんですけど」
「え?」
虚を衝かれたように目を見開く。
朝顔の斎院が好きな理由。
そうねえと葵は少し考えると、絵巻物に視線を落とした。
「朝顔の斎院さまも、源氏の君の事がお好きなのよ。けれど源氏の君を受け入れれば、それは蝶のように花から花へ飛ぶ源氏の君を待ち続けるという、耐えがたい苦しみを一生抱えて生きていかなければいけないの」
「へえ」
「朝顔の斎院さまはそれがわかっているから、そんな事をすれば自分が他の女君のように破滅してしまうことをわかっているから、源氏の君が好きだけど絶対源氏の君を受け入れないのよ」
「その普通の姫君にはない聡明さと、流されない芯の強さがとても美しいわ」
「ふーん」
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