たまゆらの季節を憶う
古結 灯
第1話 朝顔の花
それは、蝉の声が一層喧しくなった夏の盛り。
真っ白な入道雲が沸き立ち、茹だるような暑さがじっとりと纏わり付くころ。
まだ少し薄暗さの残る部屋の中で、暑さに耐えきれず不本意にも意識を呼び覚ました葵は、冴えてしまった頭を再び眠りに誘うことできずに、涼を求めて外へ出た。
隙間から薄明が溢れる御簾を軽く押すと、しんと静まり返った空気が体に触れる。
昼間は喧しく鳴いている蝉の声は一切聞こえず、まるで水を打ったような静けさが清々しい。
ふと見上げると、朝まだきの空はうっすらと白み、西の空には残月が名残惜しく浮かんでいた。
(冷たい)
足を踏み出すと、ひやりとした
――ましてや、縁談が決まった娘であれば猶更だ。
「朝なんて、こなくてよかったのに」
ぽつりとに漏れた本音が、
この空が明け、再び日が落ちた時、自分は顔も知らない誰かの妻になる。
名前はなんと言ったか。父が何か言っていた気はするが、微塵も思い出せない。
唯一覚えているのは、相手は自分より五つ上の貴族だということ。
――そなたの縁組をまとめてきたよ
それはひと月前。驚きで声が出ない自分の前で父は嬉しそうにそう言った。
頬を緩める父を前に、嫌だ、とは言えなかった。
この時代、ほとんどの貴族が親の決めた相手と添い遂げる。それでも両親は良い人が現れれば、と待っていてくれたが、いつまで経っても通う人の気配すら見せない自分に、とうとう行動に出たのだろう。
(こんな嫁ぎ遅れたわたくしを貰うなんて)
一体どんな物好きなのかしら。
自重するように溢れた空笑いは、なんとも切ないものだった。
裳着(※1)を済ませた女君達はだいたい十五、六までに嫁ぐとされている。自分は今、十八。つまり自分は既に適齢期を過ぎ、とっくに出遅れてしまっているのだ。
ああそういえば、我が家は先々代の帝の弟君の血筋をひいているのだった。宮筋の娘を家に取り込み、家柄を利用しようという魂胆だろうか。
でも、どうでも良かった。
誰のもとへ嫁ごうと、どうなろうと、相手が自らの想い人ではないことは同じなのだから。
思わず大きなため息が溢れ出る。その時、視界の隅に見慣れた何かを捉えた。
「…」
庭の軒下に、見覚えのある花がひっそりと咲いていた。
それは長い蔓を柱に巻き付け、葉に朝露を乗せ涼しげに咲き誇っている。夜明けとともに花開くその花は、朝顔だ。
「朝顔…」
しかし葵は、途端に苦々しい表情を浮かべた。
「嫌いだから、植えないでって言ったのに」
葵はふいと朝顔から顔を背ける。
その瞬間、脳裏で誰かが自分を呼んだ。
――姫君。
(やめて。思い出したくないの)
蘇る記憶を消し去ろうと、かぶりを振る。
しかし、鮮明に自分を呼ぶ姿が溢れて止まらない。もう声も思い出せないのに、記憶の中で自分を呼ぶかの人は、今も鮮やかに笑っていた。
(嫌い。嫌いよ)
朝顔は嫌い。
あの夏の記憶を、悲しいあの日のことを、今でも鮮やかに思い出してしまうから。
※1裳着…平安時代の女性貴族の成人式。十二~十三になる歳で執り行われた。
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