15.パリの散歩道 ⑤

 父母には言いたくない。杏奈には言えない。杏奈はスケートアメリカで優勝したから、グランプリファイナルに行ける可能性は高い。次の試合は最終戦の日本大会だ。そんな大事な練習をしているなか、こんな馬鹿げた相談をして杏奈に心配をかけたくなかった。


 あの一件以来、てっちゃんと話をしていないし、顔を合わせるのが辛くなった。何度か話しかけられて、聞かなかったふりして目を逸らしたことだってある。その時の私は、てっちゃんを傷つけたのかもしれない。自分でなんでそんな態度を取ってしまうのかわからない。普通にしたいのに。てっちゃんの邪魔なんてしたくないのに。傷つけたくないのに。


 もちろん私だって、それだけを考えて生活しているだけじゃない。学校で授業は受けるし、練習にもちゃんと行っている。課題があるのは大変良いことで、スケートに打ち込んでいる間は忘れられる。でも、ふとした時に、ジョアンナと踊っていた背中を、彼女と抱き合っていたてっちゃんの腕の形を思い出してしまう。輝かしいディズニー・プリンセスの、邪気のない笑い声や、幸せそうな笑顔も。彼女を見つめた、てっちゃんの優しい顔も。


 ……それを思い出してどうして辛くなるのかもわからないのだけど。それだけで終わるのだったらよかった。

 問題は眠った後にも起こるようになった。


 出られなかったバンケットの夜に見た夢を、何度かみるようになってしまったのだ。硬い壁と深い霧に、たった一人で取り残されている夢。あの夢は結構、きつい。一人じゃないって言った手は、もう私の手を取ってくれることはないって否応なく思わされるから。


「そっか。そんなことがあったんだね」


 てっちゃんの名前は出さなかった。ずっと一番近くにいた男の子がいたこと。その子が、別の女の子と抱き合っているところを見てしまったこと。お互いに幸せそうだったこと。それを見て、どうしようもなく悲しくなったこと。繰り返し悪い夢をみるようになったこと。……勘のいいアーサーは誰のことを私が話したのか、気付いたかもしれない。両手に抱えたカフェラテのカップが温かい。アーサーがこれ飲んで落ち着いてといって、近くの店でテイクアウトしてくれたものだ。


 エッフェル塔がそのまま見えるシャン・ド・マルス公園。世界遺産の公園を歩きながら、その時のことを話した。エッフェル塔は高くそびえ立っていて、十一月のパリの街は冷たい風が時折吹いてもなお美しくて、私はダヴィデ像の顔を持つカナダ人にくだらない相談をしている。情けなくて涙が出そうだ。


「ごめんね。こんな話して」

「いいんだよ。俺が聞き出したんだし」

「なんできついかは、自分でもわかんないんだ。どうしてこうなっちゃったのかも。もっと普通でいたいのに。変な態度をとってあの人を傷つけたくないのに」


 受け入れなきゃいけないのに。てっちゃんが幸せならそれでいいって思いたいのに。思おうとすればするほど、息が苦しくなって仕方がない。最初に手を振り払ったとき、てっちゃんは銃で打たれた人の顔をしていた。

 あんな風に傷つけるつもり、なかったのに。


「不器用だなあミヤビは。そんなやつ、蹴っちゃえばいいのに。後から事実を知って、そいつが君を傷つけた事を死ぬほど後悔すればいいだけだし」


 小さく笑いながら、首を横に振る。蹴る、というアーサーの発言が少し面白い。実際にはできっこないんだけど。


 適当なベンチを見つけて、アーサーが腰をかけた。座りなよと促されて、私は少し間を持って座った。リュックサック一個分が入るぐらいの隙間。


「なんできついのかは、そのうち自分でわかるよ。俺が教えるのは簡単だけど、自分で気付いて欲しいな。俺が言えるのはさあ、ミヤビはミヤビのままでいいんじゃないのってこと」


 アーサーはテイクアウトしたコーヒーを一口飲んだ。グレーの瞳が、柔らかい光を灯す。


「だって君は、自分を傷つけた相手にだって気遣える、とっても強い子だってことだよ。だから、君は君のままでいいの。そんなことがあったのに、今回もしっかり成績を残しているじゃないか。俺からしたらそっちの方がすごいよ」

「そんなことはないよ」


 昔、マスコミやら周囲の期待やらで練習に身に入らなかった時、父に怒鳴られながら練習を中断させられた。やる気がないなら帰れ。そんな練習は時間の無駄だ、と。

 後日、父はこうも言った。


「人にはそれぞれ事情があります。ですが、その事情を氷の上に持ち込んではなりません。練習の時も同じです。中途半端な練習は怪我の元です。周りにも迷惑ですし、あなた自身が持つ技術に対して失礼です。第一、練習の時に浮ついているようでは、本番はどうなるのですか」

「一流のスケーターは、どんな時でもプロフェッショナルな滑りをしています。練習であろうが関係ありません。氷の上では心を整えて臨みなさい」


 父の言葉は正しい。その言葉があったから、練習中には辛い記憶を忘れていられるのかもしれない。

 でも、それが上手くいかないことも多い。名古屋でのアイスショーの初日がそうだった。あの時も演技の前に、心が乱れてしまった。堤先生がいなかったら、私は最悪な演技をお客様に晒してしまっただろう。今思い出してもぞっとする。


「……私は強くないよ。今だってアーサーに頼ってしまっている」


 もっと強ければ、きっとこんなに苦しくないのだ。もっと笑っておめでとうって言えるのに。


「頼っていいんだよ。それで少しでも、君の心が軽くなって前向きになれば、聞いた甲斐があるってもんさ。今辛くても昇華できる時がくるよ。それまでは泣いたって良いし、眠るのが怖くなったらいつでもLINEして良いんだよ」


 時差があるからその場で返せないけどね。軽く笑うアーサーに感じたのは、守られているような安心だ。父とは少し違う感じの。


「……アーサーってお兄ちゃんみたいだね」


 兄というものは、頼り甲斐があるものなんだろうか。体格だけじゃなくて、ひと回り人間が大きく見える。


「まぁね、俺は初めて会った時から、勝手に親近感は持ってたけどね」


 僅かに目を見開く。初めて会った時っていつだっけ? そうだ、ジュニアの時、長野で開催されたGPシリーズで知り合った。それは2年前。その後確かに試合が重なったことが多かったけど……。


「うちの両親、君のパパと世代が少し被ってるんだよ。小さい時、よく父から君のパパがどんなスケーターだったか聞いたよ。その時かな。同じスケーターの両親を持つもの同士、ってね。ま、この世界ではよくある話だけど。……そうだ、これあげる」


 アーサーは自分のバックパックから、簡単に包装された紙袋を取り出して、私の膝に置いた。


「……これ、どうしたの」

「いいから開けてみて」


 言われるまま開いてみる。

 出てきたのは、雪の刺繍が入ったシルクのハンカチ。触り心地が滑らかで、毛並みのいい猫を撫でている気分になる。


「ハンカチは今日付き合ってくれたお礼。本命はハンカチの中だよ」


 ハンカチの中に包まれていたのは、無色のリップスティックだった。ハンカチもリップも、さっきの店で買ったのだろうか。今日は食事中も歩きながらも、ずっと唇がかさついていた。アーサーは気がついていたのだろうか。そう考えると少し恥ずかしい。


「友情の印さ。まぁ、俺にとっては君は妹みたいなものだけど」

「……受け取れないよ。だって、私はアーサーになにも返してない」

「何言ってんの。友情にものを返す必要はないんだよ。でももし、気になるんだったら、そのハンカチとリップを使ってあげてよ。それだけで十分なんだから」

「……ありがとう」


 キャップを開けると、ほんのりと柑橘系の香りが漂ってくる。グレープフルーツのようだ。甘いだけじゃなくて、わずかな苦味も感じる。

 早速使ってみる。色がついていないから安心する。グレープフルーツ風味のリップはすんなりと私の唇に馴染んだ。


「で、これで少しはぐらっとときめいたりしないの?」


 思わず吹いてしまった。ここでぐらっと来たら、彼の友情に対して失礼だろう。


「しないしない。だって、友達だもん。それとも、お兄ちゃんって言った方が良い?」

「じゃあ、特別にアーチャって呼びなよ。妹よ」


 ロシアではアーサーはアルトゥールになる。父や母は、俺のことアーチャって呼んでいるから。


「アーチャ兄さん」


 照れくさいと思ったその呼び方は、意外にすんなりと私に口に馴染んだ。


 アーサーは満足そうに立ち上がって、そこの通りのオープンカフェのルリシューズが美味しそうだった、どうせなら食べに行こうと提案する。私の話を聞きながら、よく見ていたものだと感心する。つられて私も立ち上がる。ルリシューズってどんなものなんだろうか。気になってきた。だけど、パリと言ったらマカロンじゃないのだろうか。そう首を傾げると、パリで美味しいおやつは、マカロンだけじゃないんだよと教えてくれた。


 アーサーの包容力が成せる技か。誰かが自分の心を知っていると言う安心からか。無色のリップの力か。


 ほんの少しだけ、心が軽くなった気がした。

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