2.星崎雅
待ち合わせ場所はわかりやすく、アイスパレス横浜の入り口にした。今日は練習が休みの日。天気にも恵まれている。絶好のレジャー日和だ。
……誰かに見られたら気まずいな。てっちゃんと二人で出かけるのって、初めてだ。いつもはスケートリンクという空間の中にいるから、わざわざ一緒に出掛けたりはしないのだ。
ガラス扉に映った自分の格好をチェックする。頭に付けたきつねのヘアピンは、ずいぶん前に気に入って買ったはいいけれど、意外に外れやすくてずっと引き出しに閉まっていた。今日落ちなければいいし、似合っていればいいんだけど。
いや、何を気にする必要がある? リンクメイトだし、幼馴染だし、戦友みたいなものだし? 出かける時に格好を気にするなんて当たり前だし。多分今緊張しているのも、「男の子と二人で出かける」という全く未知の経験が待っているからだ。
でもこれは断じてデートではない。表現力を磨くため。スケートの勉強のために「二人で出かける」だけなのだ。
いつも通りいつも通り。そう暗示をかけているうちに時間になり、時間きっかりにてっちゃんはやってきた。
「雅。ごめん、待たせた」
「大丈夫だよ」
私が早く来ただだけだし、と言うつもりだった。
「おい、どうした?」
「えっと、てっちゃん。えーっと、その恰好……」
「何か変か?」
「変じゃない……よ……」
変ではない。断じて変ではないのだ。だけど、隣にずっといるには心臓に悪すぎる。勝手に顔が熱くなるのを自覚しないわけにはいかなかった。
黒髪は癖がなくて、色白。てっちゃん自身は、かっこいいと綺麗の中間のような端正な顔立ちだ。誰がどう見ても美少年だと断言できるだろう。だから問題は顔じゃない。見慣れているし。問題は、着ているものだ。
練習用ジャージでも制服でも日本代表のジャージでも勿論衣装でもなく。ワイシャツに細身のジーンズ、それに真っ黒で長いラインのコートを着たてっちゃんは、いつものてっちゃんじゃないみたいだった。
「あれ、雅。熱ある?」
「だ。だ大丈夫だよ! ほら、早くいこう! 電車乗り遅れちゃうよ!」
鞄はコートと同じ色のボディーバッグ。着せられている感がなくて格好良くて。大人っぽい、知らない高校生みたいだった。
見当はずれの心配をするてっちゃんに出発を促す私の右足は、右腕と一緒に動いてしまっていた。
*
始まりは、父が持ってきたとうきょうスカイツリー内のプラネタリウムの招待券だった。晩御飯のあと、片づけを手伝ってお茶を飲んでいた時、父が持ち掛けてきたのだ。
「昔の友人がくれたもので2枚あるんだが。興味はあるか?」
ないこともない。そういえばプラネタリウムっていうもの自体、私は行ったことがないんだし。東京は星が見えにくいとよく言われているけれど、横浜だって大して変わらない。映像機から映し出されるのは確かに人工的な夜空だけど、きっと綺麗に決まっている。
「あるよ」
「ならお前に譲る。これでたまには、友達と遊んで来い」
なんて意外な父の言葉だ。思わず目を剥いてしまう。遊びに行ってこい、なんて今まで言ってくれたことがあっただろうか。リンクサイドでの厳しい父はどこへやら。明日雹でも振るのだろうか。
チケットからして美しい夜空の写真。今は5月。シーズンオフだし、私の通う中学はエスカレーターだ。受験を気にする必要はない。
学校の友達……でもいいかもしれない。仲がいい子は何人かいる。
でも、と冷静に振り返る。みんな、あんまり乗らないかもしれない。プラネタリウムや映画で静かに鑑賞というより、ディズニーランドではしゃいだり幕張メッセのアニメイベントの方で発狂する子ばっかりだ。
誰か適任者はいないだろうか……と。
ふっとよぎったのは。
白い肌。癖のない黒髪。端正な顔立ちに。細身だけどしっかりとした後ろ姿。リンクメイトの鮎川哲也だ。
てっちゃんの趣味の一つは、天体観測……というほど大層なものではないけど、星とか空とか風景をぼーっと眺めることだ。地元に帰れば湿原に身を浸しているらしいし、横浜のマンションではよくベランダで空を眺めている。
ならてっちゃんと……。
いや、ダメだ。行ったら行ったでどうすればいいか分かんないし、そもそも誘っても断られたら? それはダメージが大きい、ような気がする。付き合っているわけではないからそんなこと気にする必要ないんだろうけど。
だから、思い直してこう言うしかない。
「あー……。ごめん、ものすごく嬉しいしものすごくいきたいんだけど、2枚だと一緒に行けそうな子がいないかなぁ」
せっかくなのに御免ね父さん。父さんの生徒さんで興味がある人に渡しといて。
少し惜しい気持ちになりながら、2枚のチケットをアハハと乾いた笑いと共に父に返した。
――それから数日後。
「雅、次の日曜日って暇?」
夕方練習の終わり、着替えてこまごまとしたものを片づけていたら、てっちゃんに声を掛けられた。日曜日は休みを取ることにしているし、その週末にアイスショーの予定も誰かと出掛ける予定もない。
「何もないけど」
「ならこれ、堤先生からもらったんだけど。行ってみないか?」
帰る準備が万端のてっちゃんから見せられたのは、夜空の写真が印刷された細長いもの。滅茶苦茶見覚えのあるものだ。
「このチケット……」
「知っているのか?」
「だって元は父さんが持ってたやつだよ」
――どういうことになったのか。つまりこのチケットはこういうことになっていた。
父からまず、自分が受け持っている生徒の親御さんに渡って→親御さんは「貰ってみたはいいもの、ちょっと行ける暇がないかな」と考え、チケットはアイスパレス横浜で子供が習っているスケートママ友達のところに行き→そのスケートママは人込みが苦手なので子供が教わっている友加里先生――アイスパレス横浜のコーチ陣の一人――に「付き合っている方がいらっしゃったら」とにこやかに渡し→受け取った友加里先生は「彼氏も私も、実はこないだ行ってきたんだよなぁ。」と頭を悩ませ、その後「堤先生がどうせなら彼女さんと行って来たらどうです?」と言って堤先生に渡し。
それが堤先生からてっちゃんの手元にきたということだ。
「堤先生はなんて……?」
「『興味あるかどうかは哲也次第だけど、これもスケートの勉強だと思えば面白いかもよ。ただ滑るだけだと表現力は生まれないからね。』って。確かに興味は多少あるし、表現の糧に出来たら面白いと思って。」
……思いっきり戸惑ってしまう。 まさかてっちゃんから誘われるとは思っていなかった。
だって、これって要するに……デート? の、誘い?
「本当に私でいいの……?」
「2枚あるし、俺だけじゃなくてお前の勉強にもなるだろ。それに、予定とかすり合わせやすいのってお前ぐらいなんだよ。嫌だったら別の誰かに……」
何というか、思い返すと本当に色気のない返答。どこまでもスケート本意。だけど……。
「行く! 嫌じゃない! 嫌じゃないから!」
てっちゃんのスタンスはスケートの勉強で、私を誘っているのも「私のスケートの糧」になると思ったからだ。だったら私も、デート、と考えずに「表現力を身に着けるための共同研修」のように考えればいい。そう考えれば、幾分か行きやすい。
急に勢いよく答えた私に驚きながら、その時は簡単に時間と予定をすり合わせるだけで終了になった。
*
――こうして一緒に電車に揺られているわけだけど。
なんだろう。ものすごく緊張する。最終滑走で滑るより緊張している気がする。隣に座っているはずのてっちゃんの顔が見られない。
横浜からとうきょうスカイツリー駅までは2回の乗り換えで済んだ……らしい。でも、どの駅で降りてどの路線に乗ったのか覚えていない。前もって調べていたけど、全然わからなくなっていた。
とうきょうスカイツリー駅で降りた瞬間。
「ごめん、てっちゃん。トイレ!」
限界が訪れて、私はてっちゃんを置いて走り出した。
そう考えることにすればいいと思っていても、実際はものすごく焦っていて。
そして「そうすれば一緒に出掛けやすい」と思っていても、少し残念に思う自分もいる。
でも実際に現実が訪れると、本当にどうしたらいいかわからない。一緒に練習している仲間なのに。
走りまくってトイレの個室に入ってすぐに行ったことは、親友の安川杏奈にメッセージを送ることだった。速球にSNSを立ち上がらせて、超速球で指を動かす。助けてください杏奈様。何かすごく緊張します。どうしたらいいかわかりません。
杏奈からの返事は、少し遅れてやってきた。もし練習中だったら、ごめん。本当にごめん。こないだっから送りまくって本当にごめん。
『大丈夫? 息、出来てる?』
結構苦しい。というか、電車の中で会話らしい会話ができませんでした。
『哲也君は普段通りなんでしょ? だったらあんまり固まってたら雅だって楽しめなくなっちゃうよ』
それはそうなんだけど。だって今日のてっちゃん、何か知らない人みたいなんだもん。
『それは雅が見慣れていないだけで、中身は同じよ。もしかしたら哲也君も今の雅に見慣れていないのかもしれないよ』
そうかなぁ、全然、そうには見えない。むしろ余裕さえ感じる。
『落ち着いて。大丈夫よ、何とかなるわよ』
個室の扉にごつんと額を当てて、何度も何度も呼吸を繰り返しながら、名古屋にいる杏奈の声を頭に再生させる。大丈夫、何とかなるわよ。
何とか、なるのかなぁ……。スケートリンクのガラス扉で何度も確認した自分の姿は、見たまんま中学生だった。氷からいったん離れてしまうと、私はただの子供なんだなと強く思わされた。これを見ても本当に、杏奈は大丈夫だと言ってくれるのだろうか。杏奈との遠い距離がもどかしかった。
まだ不安な気持ちを残しながらトイレを出ると――横から手首をつかまれた。
結構強い力だったので驚いて振り向く。
てっちゃんだった。
「てっちゃん、どうしたの」
「どうしたのって、お前なぁ……。ここ、どこだと思っている?」
「駅じゃないの?」
てっちゃんが首を横に振る。心なしか、てっちゃんの顔は汗ばんでいて、息が上がっている気がする。
「駅じゃない。ここはもうソラマチなんだよ。お前は改札出て、スカイツリーの中にはいってたんだ」
「嘘」
結構探したぞ、と付け足される。
……トイレに至るまでの通路を抜けると、驚くべき光景だった。
電車がない。電車のアナウンスもない。その代わり青果屋があって魚屋があってパン屋があって、お洒落な総菜が売っていて。ようするにデパ地下みたいな空間が広がっていた。11時ぐらいだけどそれなりに混んでいて、売り手も買い手もせわしない。
とうきょうスカイツリー駅の東口改札を出ると、目の前がエスカレーターになっている。上った先はソラマチの2階だ。電車を出て走り出した私は、そのまま改札を出てしまい、エスカレーターに乗ってソラマチ2階のトイレに行ってしまったのだ。
「でも最初は俺も改札出ているの気が付かなくて、駅の中で待ってた。あんまり時間がかかるからおかしいなと思って周りを見たら、これが改札の向こう側に落ちていた」
これ。頭に付けていたはずのきつねのヘアピンだ。いつの間にか取れてしまったらしい。
「……ごめん、全然気が付かなかった」
「いや、俺もおかしいと気付いた時点で電話すればよかったし」
互いにiPhone持っているのに、なんでそこに思い至らないんだろう。私は杏奈に連絡するのに夢中で、てっちゃんは……。
連絡するのも思いつかないほど、必死で探してくれたのかな?
それを確認する勇気はない。今日の私はてっちゃんから見て不可解だろう。あきれ果てていそうなものだけど。
「もう、大丈夫か?」
私の体調を本当に悪いものだと思っていたのか、それとも今までの言動を案じていたのかは分からない。だけど、出てきた言葉は気遣いに溢れていた。
さっきてっちゃんが強くつかんだのは、私の左手首だった。今、彼の手が移動して、手首ではなくて私の手の甲を握っている。温かいけど、熱くはない。その絶妙な温度に、なんだか落ち着きを感じる。
……そうだ、てっちゃんは前も、こんな感じで手を取ってくれたんだ。
「うん。もう大丈夫だよ。心配かけてごめん」
大きく頷く。笑顔で答えられたはずだ。自分自身に、私は少しほっとする。てっちゃんも少し顔を緩ませる。
「じゃあ、行くか」
そのまま。私の手を握ったままてっちゃんが歩き出す。私も、もう大丈夫だから放していいよ、とは言わない。今の私にとっての幸せを手放すような真似だから。
本当だ。着ているものが違くても、てっちゃんの中身は変わらない。
何を一人で焦っていたんだろう。バカみたいだ。
「ああ、あと雅。言いにくいんだけど、『トイレ』ってあんまり大声で言わない方がいいぞ。聞いている人もちょっと恥ずかしくなるから」
歩きながら小声で言われた言葉に、さっきとは別の意味で顔が赤くなる。……確かに。
――本当に、一人でテンパっていた自分がバカみたいだ。
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