男のフウツ

「……俺のフツウ?」


 男の声は掠れていた。

 震えていた。

 無意識のうちに、男は少女の肩に置いていた手を引っ込め、後ずさりをしていた。


「うん、そう。おじさんの人生を教えてよ」


 少女が言う。

 それだけで、男の心は揺れる。

 自分のフウツが否定されるかもしれない、その恐怖が心を縛っているのだ。


「……違う」


 あの青年や老人とは違う。

 自分はフツウだ。

 そう、自身に言い聞かせる。

 そうやって強引に心を落ち着かせた後、男は口を開く。


「俺は、真面目に生きてきた。親を失望させないように、誰かを傷つけることのないように生きてきた。人の役に立つように、人に必要とされるように生きてきたんだ。勿論、人を殺したことも、盗みを働いたこともない。学生の頃は勉学に、就職してからは仕事に励んだ。娯楽の一切を捨て去り、俺は人のために働いた。おかげで今は、それなりに稼げてる。そのお金で親孝行ができる。募金して、困っている人を助けることができる。人のために努力して、それによって得た報酬も人のために使う。――フウツだろ? 誰かを傷つけたくないと願うのも、人の役に立ちたいと願うのも、当たり前だろ?」


「――――――」


 少女は相槌を打つこともなく、ただ黙って話を聞いていた。

 男の話が終わると、少女は目を伏せる。

 数秒後、再び男の目を見つめた少女は、すっかり乾いてしまった唇を舐めた後、男に言う。


「おじさん、変わってるね。そんなふうに生きて、何が楽しいの?」


「楽しい楽しくないの問題じゃない。正しい正しくないの問題だ」


 法を守ることは正しくて、法を犯すことは正しくない。

 人の役に立つことは正しくて、人を傷つけることは正しくない。

 それが、男の思想である。

 一方、少女の思想は男のそれとは異なっている。

 少女の思想の根幹にあるのは『正』ではなく『楽』なのだ。


「人のために生きるなんて、私には考えられない。私には理解できない」


 少女は真っ向から対立する。


「おじさん、変わってるね」


 目には見えない銃弾で、少女は己をフツウだと思っている男を撃ち抜く。


「おじさん、おかしいね」


 目には見えない刃で、少女は己のフツウを否定されたくないと願っている男を傷つける。

 しかし、少女は男を傷つけていることに気付かない。

 止まらない、少女の口撃。


「おじさんは――」


 少女はシニカルな笑みを浮かべて、告げた。








「――――フツウじゃないね」

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――フツウ―― 桜楽 遊 @17y8tg

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