少女のフウツ

 男は走った。

 常人には理解し難い、狂人から逃げるために。


「――はぁ、はぁ、はぁ。っと、おおっ!」


 曲がり角に差し掛かった時、男は角から現れた人影を確認したため、急停止する。

 辛うじて、衝突することは避けられた。


「びっくりしたぁ〜。おじさん、誰?」


 曲がり角で男が鉢合わせた人影の正体は、一人の女子高生だった。

 少女が制服を着ていることもあり、男はすぐに彼女が高生であることを察することができたのだ。


「おじさん、か……」


 男は四十歳。

 女子高生から見れば、おじさんに違いない。


「ねぇ、聞いてる? ていうか、ここどこ?」


 長い茶髪と短いスカートを揺らしながら、少女は尋ねる。

 どうやら少女にも、ここに来る前後の記憶がないようだ。


「ここは、フウツじゃない者が集まる場所なんだとさ」


 男は雑に答える。

 雑な理由は二つ。

 一つは、二度同じ説明をするのが面倒だから。

 先程も、老人にこの建物について説明した。

 もう一つは、相手が年下だったから。

 男は、相手の年齢や立場によって話し方を変える人間だったのだ。

 だから当然、丁寧な話し方はしない。


「俺たちをここに招いた神とやらがいるらしいが……、よくわからん。あと、外に出る方法もわからん」


「なにそれぇ〜?」


 女は訝しげな視線を男に送る。

 男の話を冗談だと思っているのだろう。


「そもそも、私はフウツだし……」


「――――――」


 またか、と男は思った。

 この場所に来てから、何度も聞いた“フウツ”という単語。

 だが、どれもこれも男の知るフウツではなかった。


「フウツだと言うなら、これまでどんな生き方をしていたのかを聞かせてくれないか?」


 一人だけでいい。

 一人だけでもいいから、フウツな人間がいてほしい。

 そう願って、男は尋ねた。


「別にいいけどさぁ。面倒だから、最近の話だけでいい?」


 最近とは、高校に入学してからのことだろうか。

 わからないが、男は首を縦に振る。


「えっとぉ〜。全然勉強してなくて、高校受験失敗したでしょ。それで、底辺高校に進学したんだよねぇ。まぁ、勉強が嫌いだったから、どこでも良かったんだけどね。それに、高校入ってからは楽しいことばっかりだし……」


 女は一度上を向き、思い出に浸るような顔を浮かべる。

 男もつられて上を見るが、そこにあるのは味気ない石の天井だけ。


「たくさん遊んだ。やりたいこと全部やった。我慢なんてしなかった。みんなで夜遅くまで遊び歩いたり、授業中にゲームをやったり、先生の車のタイヤをパンクさせたり、テキトーに嘘吐いておっさんを痴漢に仕立て上げたり、金がなかったからコンビニで万引きしたり……。とにかく、楽しかった」


 満面の笑みを湛える少女。

 男は、その笑みに恐怖しか感じなかった。


「お前がやっていることは、犯罪だ。それを、わかっているのか?」


「うん、知ってる。でも、やりたいことをやれない人生ってつまらなくない?」


「誰かがやりたいことを全部やったら、他の誰かが傷つく。だから、法があるんだ。そんなことも、理解できないのか!?」


 男は少女の肩を掴んで、強く揺さぶる。

 しかし、少女は嫌がる素振りを見せない。

 男を振りほどこうとしない。

 ただ、じっと男の目を見つめている。


「じゃあさ、聞くけど」


 酷く気怠げな声だった。

 その声のまま、少女は続ける。


「――おじさんにとってのフウツって何?」


「ぇ?」


 少女の言葉は、男の心を貫いた。

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