老人のフツウ

 男はベンチに座り込んでいた。


「――はぁ」


 ため息を一つ漏らす。

 そうすることで、男は心を落ち着かせる。

 一刻も早く、あの殺人犯の顔を忘れたかったのだ。

 しかし、青年の顔も、青年の声も、あの時受けた衝撃も消えてくれない。

 男は頭を抱えて、地面を見つめる。

 ストレスに耐えかね、遂に思考を放棄しようとした、その時。


「――こんにちは」


「っ!」


 耳元で何者かに囁かれ、男は咄嗟に振り返る。

 目に映ったのは、一人の老人の姿。

 白髪の上にハットを乗せ、口元には少しばかり髭を生やしている。

 紳士という言葉がお似合いだな、と男は思った。


「ああ、これは失敬。驚かせてしまって申し訳ない」


 男が瞠目しているのを見て、老人は軽く頭を下げる。

 その後、頭を上げた老人は「実は……」と前置きをしてから、話し始める。


「わたしには、ここに来る前後の記憶がないのですが……。あなたは、この場所について何か知っていますか?」


 老人は男同様に、この不思議な建物に迷い込んだ経緯を覚えていないらしい。


「人から聞いた話で良いなら……」


 男が言う。

 すると、老人は希望の光を見つけたかのように顔をぱっと明るくする。


「えぇ、良いですとも。教えてくださると、助かります」


 男は話した。

 神とやらがいるのかもしれないのだということを。

 ここにはフウツでないものが集まるのだということを。

 そして、外へ出る方法がわからないのだということを。

 ただし、あの青年が実は人殺しだったのだという話はしなかった。


「……そうですか」


 話を聞き終え、老人は肩を落とす。

 いつの間にか、老人は男の隣に座っていた。


「わたしにもあなたにも、ここに来た記憶がないというのに、その青年には記憶がある。――もしかしたら、その青年が神なのかもしれませんね。いや、あなたが神だという可能性も……」


 疑うように、老人は男を見つめる。


「やめてくださいよ。そんなわけないですから」


 男は首を横に振ることで、老人の言葉を否定する。


「そうですよね。ごめんなさい、今のは冗談です。それにしても、わたしはフウツである自信があるのですが……」


「っ!」


 その時、男はびくりと肩を震わせた。

 フウツという言葉に恐怖心を抱いていたからだ。

 唾を飲み込み、なんとか動揺を鎮め、男は老人と向かい合う。


「フウツですか。――失礼ですが、人の命を奪った経験は?」


 男は、冷や汗を流しながら尋ねる。

 すると、老人はふっと口元を緩める。


「ふふふっ。面白いことを言いますね。そんなこと、聞くまでもないでしょう」


「えっ、えぇ。そうですよね。人を殺したことなんて――」


「あります」


「えっ?」


「人を殺したことならあります。それも、数え切れないくらい」


 老人はきっぱりと言う。

 先の青年と同じだ。

 悪びれる様子は全くない。

 この老人にとって殺人とは、食事や睡眠と同じ感覚なのだろうか。


「どうして……?」


 男は、弱々しい声で問い詰める。

 どうして、人を殺したのか。

 どうして、平然としていられるのか。

 どうして、どうして、どうして――。


「綺麗なものが汚れていくのを、わたしは許すことができない」


 力強い声で、老人は言う。


「人間は、成長と共に穢れていく。子供の心は綺麗です。とても純粋です。しかし、大人になると汚れてしまう。成長するにつれて、醜いシミが増えていく。心も体も汚れてしまう。わたしは、それが許せない。そう思っているのは、わたしだけではないはず。人間は汚いものを嫌いますからね。家を掃除するでしょう? 皿を洗うでしょう? 服を洗濯するでしょう? それと同じです。わたしが子供を殺害するのも、それと同じなんです。美しい心が汚されてしまう前に、わたしは子供を救う。綺麗なものには、最後まで綺麗なままでいてほしい。綺麗なままで終わってほしい。――そう思うのは、フツウでしょう?」


「――――――」


 絶句した。

 老人の思考、態度、言葉を前にして、男は絶句した。


「……フウツじゃない」


 辛うじて引っ張り出せた言葉は、その一言のみ。

 それ以上は何も言わず、男はその場を去った。

 我武者羅に走って、走って、走って、走って、走って、走り続けた――。

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