――フツウ――

桜楽 遊

青年のフツウ

 男は、知らない建物に迷い込んでいた。

 この建物に来る前後の記憶というものが、男には一切ない。

 気が付いたら、ここに立っていた。

 それだけだ。


「――――――」


 床も壁も天井も、石で造られている。

 出口は見当たらない。

 ――不思議な場所だ。

 だが、不気味な場所だとは思わなかった。

 男はこの状況を受け入れつつあったのだ。


「――そこのお兄さん」


「っ!」


 背後から声が聞こえ、男は振り返る。

 立っていたのは、顔立ちの整った青年。

 二十五歳くらいだろうか。

 的確な年齢はわからないが、今年で四十になった男よりは遥かに若いようだ。


「この場所について何か知っているんですか?」


 男は尋ねる。

 すると、青年は驚いたように眉を上げる。


「お兄さんは何も聞かされていないようですね……」


「はい。困ったことに、俺にはここに来る前後の記憶がなくて。――あなたは?」


「記憶ならあります。ここに来る前のことも、ここに来た直後に会った神とやらのことも、僕は覚えています」


「かみ?」


 青年の口から飛び出た『神』という単語。

 特定の神を崇拝しているわけでもなく、そもそも神の存在を信じてすらいなかった男は、訝しげな視線を青年に送る。


「神が言うには、ここはフウツじゃない者が集まる場所なんだとか」


「……出る方法は?」


「さぁ、そこまでは知りません。神を満足させれば良いのかもしれないですね」


 胡散臭い、と男は思った。

 ――だが、しかし。

 本当なのかもしれない、とも思っていた。

 この空間には、男にそう思わせるだけの力があったのだ。


「俺は、俺のことをフウツだと思っているんですけどね……」


「僕も同じですよ。何故こんな場所に招かれたのか、見当もつきません」


「そうですよね。俺もフツウに生きていただけですし。因みにあなたは、どんなふうに生きてきたんですか? どうせ暇ですし、少し話しませんか?」


「……そうですね。ふぅむ、どこから話しましょうか」


 青年は、顎に手を当てて考える。

 そして訪れる静寂。

 数秒間の沈黙の後、青年はようやく口を開く。


「――高校生の頃、僕には夢がありませんでした。大学進学か就職か。正直、どちらでも良かった。そんな時、担任に『教師にならないか?』と提案されたんです。夢を持っていなかった私は、取り敢えずその提案を受け入れました。大学に入学して、教員免許を取り、私は高校教師になりました。大変なことも多かったですが、充実した仕事でした。教師になって三年目で、私は受験生の担任になりました。クラス目標は“第一志望、全員合格”。まぁ、進学校でしたので、当然の目標だと思います。私は、その目標を達成するために努力しました。生徒たちは、僕以上に努力しました。……一人を除いて。ある男子生徒が、全然勉強していなかったんです。現実的に考えて、その生徒が第一志望校に合格する可能性は、限りなくゼロに近かった。このままでは、クラス目標を達成することができない。たった一人のせいで、他の生徒たちの努力が報われなくなる。それだけは、避けたかった。そこで私は思いつきました。――その男子生徒の存在を消せば良いのだと。思い立ったら、すぐ行動。私は放課後、その生徒を呼び出し、殺しました。幸いなことに生徒の体は小さく、力も弱かったので、ちゃんと殺すことができました。その男子生徒を殺し終えた後、私は自分の両腕を眺めました。教え子に引っ掛かれ、血の線が無数に刻み込まれた両腕を眺めました。その時、気付いたんです。――私も邪魔だと。先生もクラスの一員ですからね。大学受験をしない私がいると、クラス目標を達成することができなくなります。だから、私も死ぬことにしたんです。暗闇に覆われた人気のない学校を歩きました。屋上に向かって階段を登りました。そして屋上の扉を開けた瞬間、私はこの場所に飛ばされたのです」


 話し終えて、青年は『パンッ!』と手を打ち鳴らす。

 その音で、男の魂は現実へと引き戻される。


「……ぁ、はぁ!」


 男はようやく、己が呼吸を忘れていたことに気付いた。

 肺が酸素を求める。

 二酸化炭素を吐き出したがっている。

 その生存本能に抗う意味はない。

 だから、男は呼吸に専念した。

 吸って、吐いて、吸って、吐いて、吸って、吐いて、吸って、吐いて――。

 体と心をゆっくりと落ち着かせる。

 そして脳が冷静さを取り戻した後、男は徐ろに口を開く。


「――どうして、生徒を殺したんですか?」


「先程も言いましたが、クラス目標を達成するためですよ。自分で夢や目標を決めれない僕は、他の人が決めた夢や目標を達成するために努力するしかないんです」


「狂ってる……」


「失礼ですね。目標達成のために尽力するのは、至ってフウツだと思いますよ」


 青年に悪びれる様子はない。

 殺人は立派な犯罪行為だというのに、青年は罪悪感を微塵も感じていないのだ。

 それを悟った瞬間、男は吐き気を催した。


「話をしてくれて、ありがとうございました。それでは……」


 男は会釈をした後、口を抑えながら足早にその場を去るのだった。

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