11.玉恨歎曰「天下豈有是事乎!」
先輩はスッと黒板に向き直って板書し始める。
李益の近くに刻まれたのは人名。そして二人の間には⇔の記号。
「『霍小玉伝』の作者、
「……派閥争いがあったんですか?」
先輩は首だけ後輩に向け、皮肉げに唇を吊り上げて見せた。
「そうよ。この時代、安史の乱で深く傷ついた唐は地方に節度使が半独立状態でのさばっていた。その処遇を発端として官僚達の間に大きな対立が生まれたの。それぞれの
先輩は小池でなく客席を眺めながら、するする語り上げる。
「だから、蒋防は反対勢力の李益を貶す為にこの物語を書いたとされているの。このお話の李益は要するに不義理なひどい奴でしょう? 最後まで読めばもっと嫌いになるわ。そして、この後に不義理な李益を諫める親友として
フー。
少し熱っぽい息を吐いて、彼女は眼鏡の蔓をつと撫でた。
「問題は『李益はなぜあっさりと霍小玉を裏切ったか』だったわね。私の答えはこうよ」
また黒板に向かい、彼女は板書し出した。
この間、舞台上に変化がある。
舞台上に出てきたのは照明=桂子。
どこへともなく頭を下げると、また役者が一人、ペコペコしつつ現れる。
二人は座り込み何か交渉をし始めるが台詞は無く、サイレントで芝居。
板書が終えると、そろそろゴチャゴチャしてきた黒板にこう書かれている。
李益は呪われていたから
「呪いの所為で裏切らざるを得なかった、ってことですか? そんなこと本編には一文字も書いてないのに?」
ドヤ顔の先輩に小池が問うた。
「書いてあることだけが物語じゃないわ。行間や語られ方から得られることも読解の材料よ。そもそも、霍小玉なんて実在さえわからないのよ? 全てが嘘の可能性さえある」
小池は訝し気な視線を投げかける。
「火のない所に煙は立たないとも言いますし……せ、先輩、ちょっと、李益のことを買い過ぎでは? 嫉妬深過ぎてかなりヤバい人だったんですよ?」
教壇の二人が議論を交わすうちに、舞台上でも無言で芝居が進んでいた。
桂子が何者かと深刻な調子で話を交わす内、小玉が現れる。
その佇まいは折れかけの葦のようで、何者かは血相を変えた。
そんな舞台の様子には目もくれず、小池が高校で文芸部だった頃の知的で昔の小説の女みたいな話し方する先輩は、眼鏡をクイッと上げて微笑む。
「買い過ぎか、そうかもね。李益がお気に入りなの。私、こういう人は好きだわ」
「うのっ!?」
小池の目の色も変わった。
「文才は一流、頭脳は明晰、何より嫉妬深い。それって愛情が深いってことでもあるじゃない?」
「ど、独占欲が強いってだけですよ!」
握った拳を赤くする後輩を見ても、彼女の微笑みは変わらない。
「キミも嫉妬深いみたい」
その一言にドキッとして小池は黙り込む。
舞台上では無言のまま交渉が進んでいた。
霍小玉が何かしら切々と語るが、対峙する相手は難しい顔で唸るばかり。
「小池君の小説は好きよ、瑞々しくて心を動かされる。勉強もできるし、貴方は私のお気に入り」
先輩は変わらぬ笑みで小池に応じた。
「オッ、脈あり? 良い感じですね、先生。さっきから暴露も無いし! いつ来るんだろうなあ……」
僕は能天気に小池の肩を叩く。後半は無論アドリブだ。
唇をへの字に引き結んだ後輩の顔は、だんだん青白くなっていく。
ただ視線だけは先輩から離さず、無言の見つめ合い。
一方、舞台上では桂子が交渉相手に忍び寄り、何かを手渡していた。
一つ、二つ、三つ……。段々その数が増えていくにつれ、相手の表情が渋くなっていき、やがて首を振り、渡されたものを返す。
それを見届けると、僕は黒板に向き直り、板書をし始めた。
この間、交渉相手は小玉の傍に寄り、耳打ちを始める。
そこでSE、放課後のチャイム。
キンコンカンコンと高らかに鳴る中、小玉の沈んでいた顔色がみるみる変わっていく。
初めは愕然、次に失望。
「と、もう部活も終わりだわ」
教壇では先輩が小池に手を合わせていた。
「ごめんなさい、彼氏が待ってるから。片付けよろしくね!」
鳴り終えたチャイムの残響。
板書を終えた僕が身を引っ込め、小池がガクリと肩を落とす一方、小玉は憤然と叫んだ。
「
この世にこんなことがあっていいものでしょうか!?
「また明日ね、小池君」
僕に眼鏡を返して先輩=衣装は照明の外へ消えていく。
前傾姿勢で台本に目を遣っていた小池=演出助手は身を起こすと、その背中に向けて声を掛けた。
「はい……『演出は辞めた部員全員からⅬINEブロックされている』」
パン。
「はい、そこまで。演出助手、お前の台本見せろ」
「――え?」
手を叩くや否や僕は彼女に歩み寄って、その手の台本をもぎ取った。
台本を広げ、今やっていたところを見る。
「……ないな」
「え……」
「書いてない、今の暴露」
室内にカチンと氷が軋む音がしたような感じ。
硬直する助手の目を真っすぐ見ながら告げる。
「犯人はお前だ」
答えは無かったが、助手は崩れ落ちるようにその場に蹲った。
「いきなり何だ!?」
「どういうことや、演出ちゃん!?」
後輩や観客達が無言で騒めく中、部長とチカが詰め寄ってくる。
えーなんか本当に推理ドラマみたいじゃん。
と、茶化さないよう真面目な顔で僕は喋り出す。
「常識的に考えてみろ。幾ら仲良くないとは言え普通の部活動でそんなにたくさん暴露するようなことがあるわけないし、部員一人が知っていることなんて更に少ないに決まってる」
「だから?」
部長が不快気に問うた。
「さっきので最後だったんだよ。全員分の暴露が出てきて、犯人がわからなくなって終わり。というか、普通その前に芝居が中止になると踏んでいたんだろう。何なら最初の一発目で僕がキレて終わりと思っていたのかも。それなのに劇が続いて、僕が次の暴露をアドリブで催促し続けて焦って、アドリブの自爆を入れて、こうなったんだ。聞いたか、さっきの暴露のショボさ。部活辞めたらその部の奴のⅬINEブロックするなんて当然だろ?」
「いや、私は別にブロックされてないが」
部長の言うことは無視。
「犯人は別に最後まで黙っていればよかったんやないか?」
チカの言うことは最も。だが、そうはならない。
「思い出せ、犯人の動機はこの劇を破綻させること、それから僕を攻撃すること。どっちも果たせてないのなら止まれないんだ。まあそうでなくとも、演出助手はバカだから『次の暴露がなきゃおかしい』という流れを作れば、そう思い込んで暴発すると思ってたけど」
「おい、それだとまるで最初から犯人が彼女だとわかってたみたいじゃないか」
険しい表情の部長に僕はククク……と不敵に笑った。
「あのさ、台本に手を加えるのは誰にでもできるけど、その仕込み通りに台詞を言ってもらうにはピンポイントでその役者に渡す必要があるわけ。で、本番前に台本を僕達に配ったのは演出助手だから。最初から疑ってたんだわ!」
「バ、バカや~~~~~!!」
チカがひっくり返る。
部長は蹲ったままの元に行き、沈痛な面持ちで見下ろした。
「本当に、君がやったのか?」
か細い声が返ってくる。
「は、い……」
これで一件落着。
しかし室内に残ったのは、困惑だけ。
そうだ、みんなもわからないのだろう。
なぜ犯人はこんなことをしたのか。
僕だって気になるし、何より言いたいことがあり、耐え切れず叫んでしまう。
「なんでだよ、演出助手! 僕らめっちゃ仲良しだったじゃん! ね、本当なんですよお客さん、お昼の後歯磨きの時とか同じ歯ブラシ使ったりね」
「そういうキモい嘘を吐くところも嫌いだった!」
演出助手が声を荒らげ、立ち上がった!
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