離れるという選択

 今のルピスの胸の内が、誰に分かるだろうか?

 深い青色をしたルピスの眼は今、彼女が恋をしていた少女の姿をいっぱいに映している。その少女――ピアニーは、寒さが深まっていく秋の朝に毛布を跳ねのけ、いつかのように無防備な寝顔をさらしていた。

 ルピスは左腕を寝台について体を支えて相手の顔にかからないよう髪をよけ、身を屈めてピアニーの顔を覗きこむ。顔を近づければ、こんなときでも甘い匂いがするような気がした。ただ、以前のようにふわふわとした気持ちにはなれない。締めつけられるような胸の痛みに息遣いは苦しくなり、ピアニーのそれとは重なってくれなかった。

 久しぶりにお茶を淹れよう。ふとそう思い立って水を汲みに行こうとしたとき、ピアニーが起きる気配がする。あれからルピスは、気づかれないように少しずつ、ピアニーの世話を焼くのを控えはじめていた。朝のお茶も淹れたり淹れなかったりで、はじめは寝坊をしてしまっていたピアニーだが、今ではおおむね自分で起きられている。

「おはよう、ピアニー。早速だけど、ちょっとクエロ先生のところへ相談に行ってくるね」

「うん……おはようルゥちゃん。行ってらっしゃい」

 まだ眠いのかぼんやりしているピアニーを置いて部屋を後にする。もうすっかり歩き慣れた構内を歩き、クエロの研究室の扉を叩いた。

「先生、ルピスです。お時間いいですか?」

 どうぞ、といつものように微笑んでルピスを迎え入れたクエロだが、その笑顔はルピスを一目見るなり消える。

「研究についてではないわね」

 クエロは質問とも確認ともつかない調子で尋ねた。彼女の察しが良いのか、ルピスの態度がわかりやすいのか、いずれにせよルピスの答えは変わらない。

「はい、実は……助手を、辞めさせていただきたいんです」

 頭を下げ、返ってくる言葉を待つ。ところがクエロはしばらくしても何も言ってこなかった。何かを動かす、ことりという物音がする。思わず顔を上げると、彼女の術具である棒杖ワンドを手にしたクエロと目が合った。

「事情を読ませてもらっても、構わないかしら?」

 ルピスは反射的に首を横に振る。事情を「読む」というのは、つまり読心の魔術を彼女に行使するということだ。拒んでしまってから失礼だったと青ざめるルピス。しかしクエロはむしろ予想通りといった様子で、そう、とだけ呟く。

「自分の心を読まれたくない精神干渉魔術師が、その知識を活かした仕事に就くことは難しい、ということは知ってる?」

 ルピスが頷き、クエロは宙をあおいだ。

「そこまで覚悟してのことなら、私には引き留めようがないわね。私にできることは、心を読まれない精神魔術師としての働き口を一つ、紹介してあげることだけ。分野としては治療になるけれど……どうする?」

「差し支えなければ、お願いしたいです」

 再び深く頭を下げる。即座に追い出されても文句は言えないと思っていただけに、クエロの申し出は心にみた。確かにルピスの志望は意思伝達に関わる分野だったが、そもそもそれはピアニーに思いを伝えたかったがためのもので、つまりはもう無意味なのだ。

「ええ、教え子の将来のためなら、私は喜んで力を貸すわ。そうね……ただ、一つ、昔の話を聞いてもらおうかしら」

 少しばかり唐突に感じつつも、促されるまま座るルピス。クエロは自ら二人分のお茶を淹れると、片方をルピスに勧めながら自身も座る。

「学院に来る前、まだ若かった頃、私には同じ書物の民ベルディアの教え子がいたの。彼は、当時今よりずっと風当たりの強かった精神干渉魔術に、全く悪い感情を持っていなかった。あまりにも不可解すぎて、私ですら一度、ひそかに心を読んでしまったくらい」

 ルピスは耳を疑った。助手を辞めると言った自分に対しても無理には心を読もうとしなかったクエロが、ひそかに誰かの心を読んだなどとは。

 そんな相手の動揺を知ってか知らずか、クエロは少しだけお茶をすすって先を続けた。

「知っていると思うけれど、私は、本人の同意を得ない限り、絶対に心を読まないと決めている。それは学院に勤める前、精神干渉魔術師の世界に嫌気が差したからなの」

 淡々と語りつづける声が、しかしどこか自嘲するような響きを帯びた。

「心を扱う精神干渉魔術師は、だからこそ、心というものがどれほど不確かかをよく知っている。知っているから不安になって、弟子すら信用できず、事あるごとに心を読む。そして少しでも怪しいところがあると、そのまま精神支配の魔術を使ってしまうことすらある……そんなことをしてもやっぱり心は不確かで、かえっていたずらに不安と恐怖ばかりを生んでしまうのに」

 心を読まれ、挙句には支配されてしまうかもしれない。それがどれほど恐ろしいことか、それは精神干渉魔術師らしいあり方を拒んでいるクエロにすらろくに助手がつかないことからも明らかだ。今さらになってルピスの良心が痛む。ようやく得た二人の助手の片方が辞めてしまうクエロの気持ちを、彼女は考えてもみなかった。

 一方で、クエロの語りはそこでにわかに明るくなる。

「そんな精神干渉魔術師を志していながら、彼は純粋だった。純粋すぎて、まだ青かった私の思想に共鳴してしまったの」

 話題は昔の教え子のことに戻り、そしてルピスにも関係のあることへと繋がっていく。

「同意なしには心を読みも読ませもしない、そんな精神干渉魔術師には、魔術官としても研究者としてもろくな仕事がないし、学院のような働き口を見つけてあげることも、若輩だった私にはできなかった。とある人族の貴族が、慈善事業としての施療院に彼を雇い入れるまで、彼は魔術とは何ら関係のない仕事で食いつないでいたの」

 施療院と聞いたルピスは、はっとしてクエロの顔を覗きこんだ。そんなルピスの推測を肯定するように、彼女はルピスを見つめ返す。

「そう、その施療院が、貴方に紹介すると言った働き口よ。心を読ませない貴方が、心を読まない彼のもとで働くというのなら、それもきっと一つの縁なのでしょう。ただ、私は……私の意地が、優秀な教え子の可能性を狭めてしまっていることが悲しいんだわ」

 何か言わなければ。ルピスは焦った。

「先生は悪くありません。これは、私のわがままです」

「彼と同じことを言うのね」

 クエロは寂しげに笑い、空になったカップを机に置く。そのかすかな物音が合図であるかのように、すっと真剣な表情を作った。

「わかりました。それなら私は、かつての教え子と連絡を取りましょう。大丈夫、彼自身は院長になってからなかなか治療ができないそうだし、人手不足に悩んでもいたから、きっと貴方を雇ってくれるでしょう。返事があったら知らせます。……それで、構いませんね?」

 講義のときのように丁寧な言葉遣いは、これでルピスが他人になってしまったという意味などではないだろう。むしろ、言わなくて良いことまで言ってしまわないよう、意識して距離を取っているといった雰囲気だった。

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