私の中のあのひと

 夏の陽射しは、窓掛けの布越しでも十分に部屋の中を照らしていた。

 一人机に向かっていたルピスはペンを置いてから、文字で埋まった紙を脇によけ、溜め息をつきつつ伸びをする。クエロから研究の課題を出されて半年ばかり、ルピスの方は実験を終え、あとは報告書を残り半分ほど執筆するだけであった。

 ふと思い立ったルピスは誤字や脱字の確認がてら、それまでに書いた分を軽く読み返す。文字は几帳面に綴られ、一見した限りでは誤字も脱字もない。

 彼女は一般学生の小さな集団に協力を仰ぎ、その閉鎖性を測ったうえで、ちょっとした政治的話題についての判断を求める実験を行った。結果はまずまずで、確かに均質な集団はそれなりに過激な意見をもつことが多いらしい、といったところだ。常識の範囲内でしかないとも思ったが、クエロ曰く、これは訓練としての研究だからむしろ常識的な結果にならなければ困るのだという。

 それまでに書いた報告書を丁寧にまとめ、新しい紙を取ってきてまた机に向かうルピス。部屋の扉が叩かれたのはそのときだった。

「ルゥちゃん、ただいま」

 外套を脱ぎつつ入ってきてすぐ寝台に腰かけ、長衣の詰め襟を精一杯広げようと頑張るピアニーは、暑さにほおを火照らせていた。その日はたまたまクエロが彼女だけを外での用事に付きあわせていたのだ。ルピスは書き損じた紙を束ねて彼女をあおいでやる。

「おかえりピアニー。汗すごいよ、大丈夫?」

「うん、ちょっと暑かったよ……全身どこもべたべたするし。確か寮の方に体を流せるところがあったよね? 行ってこようかな……」

 力の抜けた声でそんなことを言うピアニーは確かにかなり汗をかいていて、服も髪もしっとりと濡れ肌に貼りついていた。この街の白い石材は見た目には綺麗だが、夏には照り返しがきついのが難点だ。

 ルピスが微妙な表情を浮かべて腕を組む。

「そっか……ピアニーは知らないか」

 なぁに、と身を乗り出すピアニー。寮から出たことがあまりなく、出たとしても雑貨屋などがせいぜいの彼女は、本当にあの場所を知らないらしい。

「実は、学院から少し歩いたところに、大きな浴場があるんだよ。今みたいに暑い時期はお湯じゃなくて水を張ってる。そこだと体を流すだけじゃなくって、ちゃんと浴槽にかれるんだけど……」

 どう転ぶかと思いながら話しはじめたルピスだったが、きらきらと輝きを帯びていくピアニーの目を見る限り、ルピスにとっては嬉しい展開になったようだ。ルゥちゃん、と頬の赤いまま迫られれば、もはや彼女に断る理由などない。

「うん、分かったよ。一緒に行こうか」

 ぱっと顔を輝かせるピアニー。誘って良かったなとしみじみ思いながら、ルピスは手早く浴場へ行く準備をする。何しろ一緒に入浴なんて、恋人でもそうそうできないことだ。

 二人はやはりきつい照り返しに耐えて浴場を目指す。帰ってきたばかりなのにまた暑い中に出ることになるピアニーが心配だったが、これから涼しいところへ行くからなのだろう、彼女の足取りは軽かった。

「ほら、あそこがその浴場だよ」

 そう言って、前方に見えてきた大きな建物を指さす。

「あ……あの大きい建物ってお風呂だったんだ」

「何だと思ってたの?」

「え、そんなの考えたこともなかったよ……だってわたし、お外に出るときはずっと地図を見てるんだもん。そうしないと迷っちゃうから」

 その地図には浴場も書いてあったのではないだろうか。思わず笑みを漏らしたルピスは、ピアニーが恥ずかしそうにするのでさらに表情をゆるめてしまった。

「……あの、女性二人で入りたいんですが」

 浴場に着いたルピスは見張りの女性に声をかけ、小貨十数枚を支払う。帯を外して服を脱ぎかごに入れていると、ピアニーが手を止めてこちらを見つめてきていた。

「どうしたの、ピアニー。何かわからないことでもあった?」

 ううん、と首を横に振りながら、それでも彼女は視線を外そうとしない。ルピスが見つめ返そうとするが、どうやら視線はルピスの顔よりだいぶ下の方に向いている。

「ルゥちゃんって綺麗だよね……その、胸も大きいし……」

 ピアニーがしょんぼりと呟く。思わず彼女の胸に目をやると、整ってはいるものの確かにつつましやかな形がうかがえた。それにしても胸が大きいだなんて、いったいどこで覚えたのだろう。ルピスは考えるとはなしに考えながら苦笑する。

「そう? お母さんに似てるっていうのはよく言われたけど、綺麗っていうのはあんまり言われたことなかったな」

 笑って発した言葉はそれほど正確ではない。母親に似て端正な容姿をもつルピスがあまり綺麗と言われたことがないのは、彼女自身がそれを避けているからだ。ルピスはちらりと母親を思い出した。自分の思いをちゃんと伝えられなかったあの人。あの人に似ていると言われるのも綺麗だと褒められるのも同じで、正直、あまり嬉しくない。

 ただしそれがピアニーに言われたことなら例外だ。うなだれて下がっていた頭を撫でて、ルピスは心からの笑顔と共にこう付け足す。

「ピアニーはかわいいから良いんだよ。……ね?」

 はぅ、という声が漏れたのは、内容のせいなのか撫でられたせいなのか。ルピスはお構いなしにピアニーの手を引く。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る