隣の論過

 研究室へ戻ったクエロはルピスたちを座らせ、自分はカップと茶葉を取ってくる。お茶を淹れようとしているのだと気づいたルピスは自分が代わろうと立ち上がるが、やんわりとクエロに制止された。

「構わないわ。三年ぶりの新しい助手だもの、歓迎させて」

 助手はおおむね三年ほどで学院を去り、魔術を使う他の仕事に就く。前の助手はルピスたちと入れ違いに辞めた。ルピスがおとなしく座ると、クエロは発火の術がこめられた魔符で火を起こし、汲み置きの水を沸かす。

 ルピスはその手つきを複雑な思いで眺める。五年前後で学院を卒業した生徒たちは、その一部が望んで教師の助手となり研究に関わる。どの教師につくかはほぼ希望制で、その上でクエロにつこうとする生徒は、彼女の実力を考えるとかなり少ないといっていい。原因は書物の民ベルディアへの恐怖というより、むしろ精神魔術への恐怖だ。心を読み、時には操ってしまう精神魔術は、多くの生徒と、いくらかの教師にすら恐れられている。実際は、ルピスのような助手程度の実力では、はっきりと浮かんだ思考や感情を読むのがせいぜいなのだが。

 そうこうしているうちに、クエロはお茶をカップに注いでいた。ルピスの聞くところによれば、彼女は精神魔術師としては極めて珍しく、本人の同意なしには誰の心も読まないと自身に誓っているという。お茶はルピスがいつもピアニーに淹れているものより色が濃く、華やかで重厚な香りがした。促されるまま口に含むと少し渋い。

「それで、題材というのは」

 一息ついたルピスが話を切り出した。

「ええ。私の専門――集団行動についての範囲内で、なるべく二人の関心に近いものを選んだつもりなのだけど。まず、ピアニーは心の傷を治療する方面へ進みたいのよね?」

 初めて来た研究室に完全に気圧されていたピアニーはあわてて頷き、クエロに書類を渡されてさらに恐縮した。書類の表書きには「小集団内における心的体験共有の効果」とある。首をかしげるピアニーに、クエロはやさしい言葉で説明する。

「辛いことや悲しいことがあったとき、誰かに話したら楽になった、ということがない? これは三人から五人くらいの集団でそんなふうに話しあったらいったいどうなるかを調べる研究ね。その結果からひとの精神の仕組みを推測して、術式の改良に繋げていくの。……どう、できそう?」

「が、頑張ります!」

 答えた声は明らかに上ずっていて、ルピスとクエロは思わず笑ってしまう。

「ええ、期待してるわ。それで、ルピスは意思伝達の方に興味があるそうだから……」

 そう言ってクエロが手渡した書類には「閉鎖集団によるろんの助長」と表書きがしてある。ピアニーが横からそれをのぞきこんだ。

「論過……って、何?」

「無意識的にする間違った推測のこと……でしたよね。相手を騙したりやりこめたりしようとするべんとは区別される」

 ルピスは冷静に定義を述べる。精神魔術の専門用語というわけではないが、さりとて一般的でもない単語だ。

「その通りよ。これは閉鎖的で均質な集団の中で、それぞれがどのように事実と違う判断をしてしまうかを見る研究。ほら、職業組合なんかにいる人って、同じことについても私たちからは考えもつかないような捉え方をするでしょう? もちろん彼らは大事な技術や文化を守っているのだけれど、それと同じ力が誤解や偏見を増幅してしまうこともあるでしょう」

 ええ、と内心の思いを押し隠して答えるルピス。例えばこの国にも田舎の方には、魔族――人族語で書物の民ベルディアのこと――のすること成すことすべてを悪意に捉える魔族排斥派の人族たちがいるという。いや、彼らほどでなくとも、小さな論過はありふれている。密かにピアニーの様子を窺うと、彼女はルピスたちのやり取りに感心しているようだった。そう、ここにも。

 クエロは二人に渡した紙束を示して告げる。

「参考になる資料についてはそれにまとめておいたけれど、それで不足があるときや、他にも何かあったときは遠慮なくここへ来てちょうだい。それじゃあ、頑張ってね」

「はい、ありがとうございました。……失礼します」

 ルピスたちはまたそろって頭を下げると、研究室を後にした。研究室のある区画を離れ、廊下を歩く生徒たちの外套に深緑が多くなってきた頃、ピアニーがほっと溜め息をつく。

「やっぱりすごいね、クエロ先生って」

 もらった資料を腕に抱いて彼女は呟いた。ルピスはそうだね、と答える。生徒の関心とおそらくは実力とを把握して課題を出してくれるというのは、自分の研究を優先しがちな学院教師としては、確かにかなり面倒見の良い方だと思う。

「研究、頑張らなきゃなぁ……」

 上の空のピアニーは、つい一般学生の寮へ向かおうとする。ルピスがぐいと彼女の手を引いた。

「私たちの部屋はそっちじゃないよ」

 あ、と声をらして頬を赤らめるピアニー。私たちの、を強調したルピスは彼女の前へと出る。ついうっかりと、うまく指を絡めて手をつないでしまった。ピアニーに負けないくらい赤面した自分の表情を見られたくなくて前に出る。

「ねぇルゥちゃん、ちょっと速いよ。待って」

 そんなふうに言われたらよけいに照れてしまう。結局二人はそのまま、彼女らの部屋へ足早に歩いていった。

 両思いでなくとも、今は今でそれなりに幸せだと思うルピスである。

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