糖蜜漬けの壺の底

 調理場に着いたログナーはまず料理長を探す。昨日会ったときに隠しごとをしてきた彼の出方はもう一度確認しておきたかった。ところが、調理場をいくら見渡しても、あの目立つ赤い髪の男性の姿は無い。

「すまない、料理長がどこにいるか知らないか?」

 ログナーは調理台を布巾でいている女性に声をかける。

「ああ、昨日の。料理長は……すみません、きんしんなさっております」

 女性は作業の手を止めてうつむく。謹慎、とログナーが訊き返すと、さらに暗い表情をして頷いた。

「昨日、貴方の後に、お館様のお使いの方がいらしたのですが……料理長はメルリーゼ様が調理場を借りてお菓子をお作りになったことをわざと黙っていたんです。そのお菓子で人が倒れたことを知らなかったから、単に、令嬢でありながらお菓子を作られたあの方を庇うつもりだったのだと思います。あの方は、当主様のご家族で唯一お菓子を召し上がるメルリーゼ様を、ずいぶんと贔屓していらしたから」

 昨日、料理長が隠していたのはメルリーゼが菓子を作ったことらしい。符号は合うが、ここでもやはりサラファスが菓子を好まないように語られているのはどうしたことだろうか。

「謹慎しているということは、それがお館様のお使いに知れたのか?」

 それでもログナーは何気なく相槌を打ったつもりだった。しかし相手にとってはそうでなかったのか、顔を両手で覆ってしまう。

「それは……私が、このままでは料理長が、お菓子に悪いものを入れた人を庇ったことになってしまうんじゃないかって、思って……」

 消え入りそうな声からは後悔がにじみ出ていた。料理補助の女性がそこから先を口にすることはなかったが、どうやら一足先に事情を知った彼女が料理長を思って密告したらしい。

「落ちついてくれ。おそらく、あの菓子に悪いものを入れた者など存在しない」

「……そうなんですか?」

 女性は顔を上げ、ログナーの顔を覗きこむ。

「そうだ。だが、そうと確かめるためには、今年この糖蜜漬けを作った者に話を聞く必要がある。料理長にお会いて、それが誰か尋ねようと思っていたのだが……」

「あの……そういうことなら私、誰が作ったか知ってます」

 おずおずと彼女は言った。本当か、とログナー。

「はい、私も作った使用人のうちの一人ですから。ええと、今年は私と、そこで付け合わせを用意しているあの子と……あともう一人、今は辞めちゃった子とで作りました。ひとまず、彼女を呼びますね」

 料理補助の女性は、もう一人、野菜と香草を下ごしらえしていた同僚に声をかける。呼ばれた同僚は早足に歩いてきた。

「なあに? 私、今けっこう忙しいんだけど……」

「護衛の人が、夏の糖蜜漬けを作った人に話を聞きたいんですって」

 女性にそう紹介され、ログナーは軽く会釈した。それでようやくログナーを認識したらしい同僚は、子供のような歓声を上げる。

「わあ、よく見たらサラファス様の護衛の方じゃないですか。どうせ来るならサラファス様と一緒に来てくださいよー。お二人がご一緒に歩いているだけでも、ここの女の子の間じゃちょっとした噂になるんですよ」

「ちょっと、そんなことを言うものじゃないでしょう?」

 同僚の軽口に、それまでずっと暗い表情だった女性が小さく笑う。確かにサラファスは同性から見ても整った容姿をしているから、口さがない女使用人たちの間で妙な噂をされても不思議はない。軽口をそう理解したログナーは特に動じる様子を見せなかった。軽口の主が意外そうに目を見開き、すぐにつまらなさそうな顔になる。

「良いじゃないの、細かいことは。それに糖蜜漬けを作った子ってもう一人いたでしょ? ほらあの、下の埃を掃除しようとして水瓶を倒したり、卵をこんがり焼こうとして黒焦げにしたり、庭木を綺麗に丸くせんていしようと切りすぎて枯らしたりして辞めさせられちゃった子」

 糖蜜漬けを作った使用人の一人は、熱意をことごとく空回りさせる人物だったらしい。その過去の行いを語る彼女の、見てられなかったわ、とでも言うかのような表情がすべてを物語っていた。

 ふいに、ログナーの頭の中で何かがひらめく。

「叔父……じゃなかった、ご主人様――!」

 しかしそれが何かを吟味しようとすることは、聞き慣れた叫び声に邪魔された。ミロンが駆け寄ってくる。待機を命じたのになぜここにいるのか問いただそうとしたログナーだが、その必要は無かった。

「ご主人様、すぐに戻るから残れって仰ったでしょう。でもすぐにはお戻りにならなかったので、お菓子の悪いものの心当たりを思い出したからって、サラファス様にお願いして来ちゃいました。大変だったんですよ、経理係の方にお会いして、ご主人様の行き先もお訊きして」

 そこでミロンはログナーが抱えている糖蜜漬けの壺に目を留める。

「やっぱり紅玉果だったんですね。その壺、貸していただけませんか?」

 どうやらサラファスに話した心当たりは当たっていたらしい。ログナーは壺をミロンに渡す。彼はためらわずに壺を開け、手を入れて中を探った。紅玉果の爽やかな匂いが漏れ出てくる。

 ありました、と言いながら壺から出した手には、子供の握りこぶしほどの紅玉果に対して三回りほど小さなまだ青い実が握られていた。

「小さいから底の方に行っちゃってましたけれど、これがその、悪いものだと思います。あの、ご主人様、見習いになった年の夏、僕がいきなり倒れたのは覚えていますよね?」

 ログナーは頷く。ちょうど一昨日そのことについて話したばかりだ。いつも元気だったミロンが原因もわからず倒れたということで、サラファスなどはずいぶん取り乱したものだ。

 ミロンは言いにくそうに、落ち着きなく体を揺すった。

「怒らないで聞いてくださいね。……あのとき僕は、中庭の紅玉果のまだ青みの残っていた実を、こっそりつまみ食いしてたんです。その後すぐに気分が悪くなって……でも、つまみ食いでお腹を壊したりなんかしたってご主人様に知られたら、お傍にいられなくなると思って、黙ってました」

 ミロンが顔色を窺ってきたので、ログナーは無言で先を促す。

 未熟な果実が毒をもつ果樹は多い。植物からすれば、種が熟さないうちに実を食べられることが減って都合が良いからだ。そしてそういう実はやはり、未熟であるほど毒性は強い。青みが残る程度なら寝こむだけで済んでも、ミロンが取り出したような完全に未熟な実なら、漬けこんだ糖蜜まで汚染することもあるかもしれない。

「でも、ご主人様が経理係の方に呼ばれたまま帰ってこなくて、悪いものが入っていたのはやっぱり材料だったんだって思ったら、どうしても、原因は紅玉果なんじゃないかとしか思えなくて。僕はお腹が空いていたから青い実を食べちゃっただけですけど、今年は夏が寒かったですから、いつもなら収穫して良い時期でも青い実が残ってたんじゃないですか」

「だが、いくらなんでも、お前が見つけたそれは未熟すぎるだろう」

 ログナーは指摘する。ミロンの過ちが可愛く思えるほどにその実は未熟だった。未熟な紅玉果は食べるなとは、ロギエラ王国民の常識なのだが。

 そこで溜め息をついたのは、糖蜜漬けを作った女性たちだった。

「やっぱりあの子、でしょうねえ。あのとき『いっぱい食べてほしいと思ったので、たくさん採って来ちゃいました!』なんて言ってたの、もっとちゃんと怪しむべきだったわ」

「仕方ないわ。あのときあの子は入って来たばっかりで、その……良かれと思ってとんでもないことをする子だなんて、まだ誰も気づいていなかったんだもの。青い実が入っていたのだって、樹を揺すったりして実を全部落としていたからかもしれないでしょう」

 彼女たちが誰なのかわからないミロンはログナーの服の裾を引っ張る。

「その人が糖蜜漬けにこれを入れちゃったんですか?」

「そのようだ。だが、彼女はすでに使用人を辞めさせられた後らしい」

 責任を問おうにも本人がいないのではどうしようもない。一緒に糖蜜漬けを作った二人は多少咎められるかもしれないが、料理長を密告した方の女性は料理長が解放されるなら構わないと言い、その同僚はといえば叱られることには慣れているらしく平気な顔だ。

「そういうことなら、早くサラファス様にお伝えして、それからお館様にご報告申し上げましょう!」

 ミロンが今にも走り出しそうな調子に声を弾ませる。

 そうだな、と答えるログナーだったが、彼はミロンほど楽観的にもなれなかった。サラファスの護衛という立場にありながら、ログナーは儀礼のときを除いて当主に会ったことがない。サラファスが当主に会いに行くとき、彼付きの護衛たちは部屋の外の警備に回されるからだ。そして儀礼のときは、当主はあくまで決まった言葉を述べているにすぎない。親子としてサラファスと言葉を交わすわけではないのだ。

 何を考えているか分からない――それがログナーにとっての、フィアダーマ家当主の印象だった。

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