迫り迫られる

 一方その頃、調理場で、料理を補助する女使用人が一人、良心の呵責かしゃくに震えていた。その原因は彼女のいわば上司の上司――料理長だ。

「では料理長、貴方はお菓子を一つ、それも女使用人たちが食べたものとは別の方しか作っていないというわけですか。そしてもう一つのお菓子にも心当たりはまったく無いと」

「そうですよ。あの、そろそろ調理に戻らせてもらえませんかね」

 料理長は当主の間諜たちの質問に、いかにも迷惑そうに答えている。彼は大変な過ちを犯していた。少し前に出て行った護衛たちも今ここにいる間諜たちも、例のお菓子を食べて人が倒れたことに触れていないから、料理長たちは屋敷で何が起きたのかを知らない。料理補助の彼女だけが、雑用中に偶然、廊下で掃除係の使用人の噂話を聞いてしまっていた。

 このままでは料理長は、お菓子に悪いものを入れた犯人をかばったことになってしまうかもしれない。料理長を尊敬する彼女にとって、そうなることはなんとしてでも避けたいことだった。だから彼女は、聞きこみを記録していた間諜の一人を、そっと服の裾を引っ張って呼んだ。

「どうかしましたか?」

 さすがに相手は本職、密告を察知してか声をひそめ、料理補助の彼女をさりげなく調理場の隅へ連れて行く。後には引けない。胸がずきずきと痛む。しぼり出した声は自然とか細くなっていた。

「あの……実は昨日、メルリーゼ様が調理場を借りにいらしたんです。メルリーゼ様は遊学をしていらしたじゃないですか。そこでお友達に教えてもらったお菓子を作りたいと仰ったみたいで……」

 間諜の眼差しが鋭くなる。このままではいけない、料理長は事情を知らないだけなのに。料理補助の彼女は思わず相手にすがりつく。

「でも、料理長様はそのお菓子で人が倒れたことを知らないんです……! 皆さんにメルリーゼ様のことを隠しているのも……私たちに口止めをしていたのも、ご自分でお菓子を作っていることがお館様に知られたら、メルリーゼ様が怒られてしまうと思ったからだと思います……」

 間諜は戸惑ったように彼女を見つめていたが、やがて、ごく丁寧に言う。

「お話は分かりました。貴方のご協力に感謝します」

「あの、料理長様は……料理長様はどうなるんですか?」

 相手の微笑みはごく薄い。

「安心してください。貴方の証言のためにあの方が不利になることはありません。あの方が問われる責任は、今のところ、調査を妨害したことによるものだけです。――メルリーゼ様が万が一の行いに出ていなければ」

 公正ではあったが冷淡な一言に、背筋が凍る思いがする。間諜は軽く一礼すると仲間の方へ向かっていった。彼女が教えたことを早速役に立てたのだろう、何かを問われた料理長が肩を落とす様子が遠目に見える。

 でも、これであの方は、犯人に協力した罪を問われることはきっと無い。そう思おうとしたが、うまくいかなかった。


 さて、間諜たちの捜査線上にメルリーゼが浮上したその頃、ミロンと別れたログナーは、一足先に彼女の寝室へ向かっていた。例の菓子を味見したのなら、メルリーゼはまだ寝こんでいるかもしれない。もちろん侍医は呼んだだろうが、薬はすぐには効かないものだ。

 案の定、寝室の扉の前には、イェソドが腕を組んで立っていた。ログナーが扉に近づいていくと紫色の眼で思いきりにらんでくる。

「主様はあの時からご気分が優れないでいらっしゃる。故にここを通って良いのは侍医と世話役だけだ。帰れ」

 用件も聞かれないまま突っぱねられた。ひとまず、あの時というのはメルリーゼが目眩を訴えてイェソドに運ばれたときのことだろう。ならば彼女は例の菓子を口にした可能性は高い。しかしその先について探りを入れようにも、門番がこれでは仕方がない。

「そうは行かない。こちらもサラファス様のご命令でメルリーゼ様のご様子を伺いに参ったのだ。それに『帰れ』とは酷いだろう」

 ログナーとイェソドは共に当主の子の護衛の、事実上の長であり、どちらが跡継ぎと決まっていない現状、両者の立場はほぼ同格だ。いくらなんでも帰れとまで言われる理由は無い。

「うるさい。お前が弟君を『サラファス様』と呼ぶのは聞きたくない」

 しかし今のイェソドはかたくなだった。主であるメルリーゼがこの場にいないためでもあるのだろう。なぜだか――嫌な予感がする。

「お前は、弟君がお前に臣下への信頼以上のものを抱くさまを、主様がどのような思いでご覧になっていたかわかるか? 己が姉弟という関係ゆえに諦め、忘れるために郷里を離れてなお忘れられなかった恋の相手が、あろうことか同性の臣下にかれていくのだぞ?」

 ログナーは言葉を失った。嫌な予感は当たっていた。きっとメルリーゼが何度も悩みを打ち明けていたのだろう、イェソドの語りはごく早口だ。そして早口であるにもかかわらずすんなりと理解できた。

 溜め息をつき、ログナーはきびすを返す。

「分かった、今日のところは帰ろう。お前も無理はしない方が良い。あってはならないことを言うお前も、その意味をすぐに理解できてしまった俺も、きっと疲れているだけだろう」

 しかしイェソドは食い下がってきた。ログナーの正面へ瞬時に回り、流れるように追い詰めてくる。メルリーゼの部屋の扉にかかとが当たった。逃げ場を失ったログナーの顔の左横を何かがかすめる。

「それがお前の言い訳か」

 イェソドが扉に手をついたのだった。紫の眼が近い。

「そうやって弟君の慕情ぼじょうを否定し、甥のしょうけいまでも否定するのか? 道ならず愛した弟君がお前をしたう心をこれまたお前に憧れる甥を想って押し殺す、その様子をただ見ていなければならない主様のお気持ちがお前にちりほどでもわかるか? 主様は……我が、主は……」

 怒りに任せた語りが、ここで急速に冷めていく。イェソドは扉についた手に軽く体重を預け、溜め息をついて項垂れる。

「ああ――生命の樹よ。……これだからこの世界の者は始末に負えない。天使も悪魔も知らず、神ですら前身は人に過ぎないこの世界でなければ、この俺とて人の如き感情を知ることなど無かっただろうに」

 ちょうど人族が神に嘆くように、生命の樹よ、と彼は嘆いた。

「やはりお前は、疲れているんだ」

 ログナーは静かに告げる。イェソドからの返答は無い。

 代わりに二人は、弾かれたように廊下の先を見た。妙に揃った複数の硬い足音。その主は、フィアダーマ家の当主が遣わした間諜たちだ。

「おや、ログナー殿にイェソド殿。メルリーゼ様付きのイェソド殿はともかく、ログナー殿はここで何をしているのです?」

 間諜の一人が前に進み出た。本心の読めないいんぎんな口調だ。

「表向きには、今日は非番です。ただ実は、イェソド以外の護衛をお連れにならないメルリーゼ様に、せめてお体の調子が優れない今だけでもサラファス様付きの護衛から人を回せないか、相談しに来ました」

 ログナーは滑らかに嘘をつく。つい先程まで扉の際に追い詰められていた位置取りでは説得力は無いが、相手の用件は他にあるはずだ。

「そのわりには距離が近いようですがね。まあ、良いでしょう。その相談は必要ありません。ここからは我々がメルリーゼ様のお部屋をお守りさせていただきます。イェソド殿はお疲れでしょうから、お部屋をご用意いたしました。そちらで休んでいただきたく」

「待て。状況が読めない」

「メルリーゼ様がお作りになったお菓子で使用人が倒れたのですよ。その日料理長が作ったお菓子との取り違えがなければ誰が倒れていたか、いまだに分かっておりません。もちろん我々もメルリーゼ様がわざとそのようにしたとは思いませんが、それを証明するための方法の一つが、メルリーゼ様にお部屋から出ないでいただくことなのです」

 隣でイェソドが奥歯を噛みしめたのがわかった。要するに間諜たちはメルリーゼとイェソドとを引き離した上で軟禁しようとしているのだ。同じ護衛として、彼の悔しさは察するに余りある。

「あの菓子は主様も味見なさったのだぞ? 現に主様は今ご気分が優れずにいらっしゃる。毒を入れた菓子を自ら口になさるのか?」

「疑いを逃れるために、わざと少量を口にするということもありえます」

 イェソドが目を見張った。間諜の言い分はログナーでも考えつく程度のことだ、驚きはおそらく当主の娘を疑うことについてだろう。

「俺を主様から引き離す理由は?」

 それでも彼は諦めない。すると、間諜は拳を前に出した。

「一つ、メルリーゼ様を思うあまりに証拠を処分されては困ります。二つ、護衛である貴方なら、メルリーゼ様が手ずから作られたお菓子に毒を入れることなど容易です。三つ、そもそも我々は、いくら新式とはいえ契約召喚魔術でばれた貴方を完全に信用することができません。まだまだありますが、この辺りで納得していただけませんか」

 指を一本ずつ伸ばしながら理由を挙げていく。イェソドがわらった。

「四つ目は無駄に終わるな。もし仮に主様が毒を使われていたとして、俺が主様を密告することは絶対に無い。契約召喚とはそういうものだ。そうでなければ、俺はこの場の全員と戦ってでも主様をお救いする」

 可能な限り抵抗した上での肯定だった。契約により、彼は主の指示なくこの世界の者を傷つけられない。ログナーは内心で感謝する。同じ護衛という身分でも、特別な訓練の一つも受けていない彼が異界の英霊に敵うはずがない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る