菓子を焼いたのは

 次に向かった調理場はまだ忙しいというほどの時間ではなかった。ここの主である料理長は、かっぷくの良い、赤い髪をした五十近くの男性で、主に指示を出していた家政婦長とは違いもっぱら自分で作業をしている。

「料理長殿、お時間よろしいですか?」

「貴方は……ああ、サラファス様の。手短にお願いできますかな?」

 ログナーが寄って行くと、料理長は魚をさばく手を止めた。

「ええ、では簡潔に尋ねましょう。昨日貴方が作った菓子について聞かせてほしいのです。女使用人の話では菓子が二つあったそうですが」

 料理長は手を拭きつつ眉をひそめる。

「二つ? 昨日私が作ったお菓子は一つなんですがね」

「それはどのようなものでしたか?」

 料理長は、今度は得意げに鼻を鳴らした。

「あれは自信作でしたよ。柔らかく焼き上げた生地にたっぷりの乳脂クリームと果物を挟み、美しく飾ったものです。女性は甘いものと綺麗なものが大好きですからね。サラファス様が甘いものをお好きでなくなった今、私が存分に腕を振るえる相手は彼女たちだけなのですよ」

 つまり女使用人は菓子を取り違えたのだ。料理長は使用人たちを相手に全力を振るっていた。例の菓子に焼きむらがあったのは、使用人用だからではなく料理長でない人物が作ったからだった。そこまで考えたところで、ログナーは改めて先の発言に疑問を抱く。

「サラファス様が、甘いものは好きではないと仰ったのですか?」

 確かに今のサラファスはあまり甘いものを食べない。だが、好きではないと言われると違和感があった。ログナーの記憶では、サラファスも小さい頃は甘いものが好きだった。

「おや、護衛の方でも覚えていないのですか。あの方が『もうお菓子は食べない』と仰ったあの日は、今思い出しても寂しいのですがねえ。そうそう、寂しいといえば、昨日のお菓子もそうですよ。いつまで経っても取りに来なかったので、私……と料理人たちで食べてしまいました」

「そのことなんですけど、お掃除係の人たちは、もう一つ置いてあった乳酪チーズのお菓子を持っていってしまったみたいなんです」

 ミロンの問いに、料理長は大げさに肩をすくめる。

「変ですねえ。少なくとも私は、そういうお菓子は作りませんよ。私のお菓子は素材の新鮮さが大事なんです。乳酪ととは……」

 ログナーがかすかに目を見張った。言葉が切れたところで声を上げる。

「なるほど、分かりました。ありがとうございます」

 話を遮られた料理長だが、もともと忙しかったこともあるのだろう。特に気分を害した様子もなく、はいはい、と返してまた魚を捌きはじめた。

 足早にその場を歩き去るログナーをミロンが追う。

「次はどうします? 料理長様が作っていないと仰るなら、他の方が作ったかもしれませんからよね。他の方にもお話を聞きますか?」

「よくやった、ミロン」

 いきなり褒められて顔を輝かせたミロンは、すぐにげんな顔をする。

「あの、ご主人様、そっちは調理場の出口ですよ?」

「次は貯蔵庫へ行く。料理長殿は何か知っていて隠しているんだ。例の菓子について、お前は『乳酪と紅玉果』としか言っていないのに、あの方は『乳酪と糖蜜漬け』と言った。……だが、料理長の立場は俺より上だ。サラファス様にご迷惑をかけないためには、事は構えられない」

 ミロンはかたを呑みつつ頷く。

 しかしその緊張はそう長く保たない。石造りの階段を降りていく頃には、ミロンはすっかりいつもの調子で、きょろきょろと辺りを見渡していた。

「大きい倉庫ですね……ここに外の街のための蓄えがあるんですか?」

「不作の年のための備蓄があるのは、フィアダーマ邸とは別の建物だ。ここにはこの家の者が食べる物しか置かれていない」

 ええ、とミロンが声を上げる。すると応えるように、通路の向こうから足音と聞き覚えのある声がした。

「そこにいるのは誰です? 夕食の材料なら別の場所ですよ」

「サラファス様付きの護衛、ログナー・ドゥルゼです。こちらは私の見習いでミロン。経理係殿、もしよろしければお話を伺えますか?」

 姿を現した声の主は、フィアダーマ邸の経理係だ。くすんだ青の髪をいい加減に切り揃えた小柄なその男性は、目が悪いのだろう、片眼鏡を指先で持ち上げながらログナーの顔を覗きこむ。

「それは構いませんが、護衛の方がここに何のご用でしょう?」

「後で必ず説明しますので、その前に一つ質問させてください。最近、紅玉果の糖蜜漬けを持ち出した者をご存知ではありませんか?」

 紅玉果、と口の中で繰り返しながら、経理係は手にした帳簿をめくる。しばらくして手を止めると、今度は文字を指で追う。

「ここ数日で紅玉果の糖蜜漬けを持ち出したのは、メルリーゼ様お一人だけですね。今年の夏、この屋敷で作られたものです。なんでも『遊学先で友人と一緒に作ったお菓子を作る』とか。他には穀物粉と卵と砂糖、あとは乳酪も持ち出されていましたね」

 メルリーゼ。およそ出てくるはずの無い主の姉の名に、さしものログナーも驚き、経理係をまじまじと見た。だが確かに令嬢らしからぬ彼女なら菓子を作っても不思議ではない。それに遊学先のルイミーユは湖上の街、料理長の言う「新鮮ではない素材」とも符号が合う。

 背後でミロンが後ずさる気配がしたが、経理係は気にしなかったようだ。

「それで、糖蜜漬けがどうかしたのですか?」

「実は昨日、使用人が菓子を食べたすぐ後に倒れるということがありましてね。我々はサラファス様のご命令で事情を調べているのです。そしてどうやら、くだんの菓子には紅玉果の糖蜜漬けが使われていたようで……」

 なるほど、と経理係はあくまで冷静にあいづちを打つ。

「しかしメルリーゼ様を疑われるのはまだ早いでしょう。悪いものが混じっていた材料を、気づかず使ってしまわれたのかもしれません」

「そうであれば良いと思います。サラファス様のご命令は、この家の者の無実を証明することですから。いえ、私としては、サラファス様のご命令と切り離して考えても、その可能性が高いと考えているほどです。倒れた使用人は吐き気と目眩を訴えていたといいます。そしてメルリーゼ様も昨日、目眩のために自室へ下がられたのです。菓子を味見したためだと考えれば納得がいく」

 自分に疑いがかからないよう少し食べたという可能性は否定できないが、ミロンもいるので口には出さない。

「ふむ。そういうことなら、貯蔵庫を管理する立場としては見過ごせませんね。材料に原因があるという可能性、僕の方でも調べておきましょう。あまり高価なものでないと良いのですが」

 値段とは経理係らしい懸念だ。

「何かわかったらお知らせしていただけますか?」

「もちろんです。貴方はお菓子のことを教えてくれたのですからね」

 癖なのだろうか、経理係は片眼鏡に手をやりつつ笑みの形に口を歪める。また話を聞くべき人物も出てきたことだ、ここは任せよう。ログナーは硬直しているミロンの背中を軽く叩いて貯蔵庫を後にした。

「叔父……ご主人様、えっと、質問が終わったら帰りますけど、その、次はメルリーゼ様のところへ向かわれるのですか?」

 石造りの階段を登りながら、ミロンは何度もつっかえながら言う。そういえば「叔父上」と言ったら帰ると約束させていた。

「探りを入れに行く必要はあるな。お前は連れて行くには心配だからちょうど良い。せっかくだ、先にサラファス様にご報告していろ」

 頼んだぞ、と軽く肩を叩いてやると、少しだけ表情が明るくなる。

「はい。……あの、叔父上、お気をつけて」

 叔父上という呼び方は、今のところは咎めないことにしよう。

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