優しすぎる主君

 牽車の日除け布を持ち上げると、土の匂いのする風が吹きこみ、さらに白い光が差しこんでいく。さらに布を上げきって括れば、中に座る若者と目が合った。色白の肌に整った顔立ち。さっと煮詰めた蜜のような濃い金の髪を風にそよがせ、快晴の空の色をした目を昼の陽射しに細めている。

「サラファス様、視察のご準備のほどはいかがですか」

 布を上げた男性はしっかりとした声で尋ねる。四十近い歳の彼は、ロギエラ王国には珍しい、南方の血をうかがわせる焦げ茶色の髪と目をしていた。実直そうな顔にあまり上手くない微笑みを浮かべている。

「問題ない。降りるから手を貸してくれるか、ログナー」

 若者――フィアダーマ家当主の息子、サラファス・フィアダーマは、そう言って実に人の好さそうな微笑みを返した。護衛であるログナーが差し出した手を取って外へと足を踏み出す。長く座っていたために折れた衣のすそを少し直し、また顔を上げて辺りを見渡した。

「ここがナーズ村ですか……とっても広い畑ですね」

 ログナーと同じ髪と目の色の少年が、目を丸くしながら辺りを見渡す。よく熟した穀物の穂がさらさらと風になびき、畑一面に広がる金色の波のようだ。テトロマの異称、金の穀倉の由来でもある光景はごく美しいものだったが、一方でサラファスの表情は暗い。

「やはり、今年は育ちが良くないな」

「え、あんなに綺麗なのに育ちが悪いんですか?」

 ミロン、と強い口調でログナーは少年をたしなめた。ミロンはログナーの甥で、護衛見習いとして彼に仕えている。つまりミロンにとってサラファスは主のまた主、間違っても馴れ馴れしく話しかけて良い相手ではない。

 しかしサラファスはこだわりなく笑う。

「構わない。あれこれ訊いてくれる者がいると頭が冷える」

 ログナーは小さく一礼して引き下がったが、内心は複雑な思いを抱えていた。幼い頃から仕えている彼を、サラファスが心から信頼しているらしいことは分かる。姉の他にきょうだいのいない彼がミロンを弟のように思っていることも知っている。しかしあまりミロンに甘いのでは、今ここにいる他の護衛たちに示しがつかないのではないか。

 彼の心配をよそに、サラファスは畑に寄っていく。護衛たちが無言でそれに従った。ログナーにとっては部下にあたる彼らは、幸いにして不服そうな顔はしていない。心配しすぎたか。溜め息をついたログナーの視線の先で、サラファスは畑のすぐそばに立つ。

「ミロン、今お前が見ている穀物は決して育ちが悪いのではない。いつもほどには良くないというだけだ。いつもなら草は私の腰ほどの高さになる。今年の夏は陽射しが足りなかったから、草丈が伸びなかったのだ。道中の農地もそうだったな、ログナー」

「左様でございますね」

 サラファスは手で草丈を示して語り、最後にログナーへ話を振った。布越しに道中の様子を確認していたらしい。へぇ、とミロンが間の抜けた声をらす。甥の態度が苦々しくはあったが、一連のやり取りは喜ばしくもあった。農地の様子から気候に思い至るばかりか、道中の様子を把握することも忘れない。そんな主の聡明さがただただ嬉しい。

 護衛の一人が村の入口の方を向いた。何があったかとそちらを見ると、このナーズ村の村長を務める老爺が歩いてきている。

「サラファス様、我らがナーズ村へようこそおいでなさいました」

 彼はサラファスの前に進み出ると、すでに曲がった腰をさらに折った。

「村長殿。やはり今年は厳しかったようですね」

 サラファスはねぎらうように言うが、村長は恐縮するばかりだ。

「ええ……ご指示いただいたように花芋を多く育てましたので村の者は飢えずに済みましたが、穀物の収穫は豊作の年の半分ほどです」

「村が無事なら何よりです。難しい選択を、良く判断してくれました」

「しかし、貴方様のお家にお納めする分が……」

「我々のことなら気にしないでいただきたい」

 食い下がる村長に、サラファスはきっぱりと言い切った。

「初めからこの年は領民が飢えねば構わなかったのです。外の民を養うに足りない分は蓄えを割けば良い。父上にはお許しを頂いていますし、それこそがこの夏の涼しさを私にお告げになった神王様のおぼし召しでしょう」

 ログナーはじっと様子をうかがう。村長は孫くらいの歳でしかないサラファスに気圧されている。貴族の子息に神まで持ち出されては無理も無い。

 神王とはロギエラ王国を挙げて信仰されている神格で、魔族の王から人族の独立を勝ち取った英雄にして王国の起源とされる初代聖王がその死後に神格化された存在だ。時に人族へ啓示を与え、以降それを受けた者の祈りに応えて託宣や癒しの奇跡を下すのだという。広義にはそうした人族を神官と呼び、ロギエラ王国において彼らは一般的に尊敬の対象だ。

 もっとも、幼い頃に最初の啓示を受け、神の声を聴けることが当たり前であったサラファスに、そのことで他者を動かす気はない。そういうところが彼の優しさであり危うさだとログナーは思う。

「神王様のお言葉によれば、幸い次の年は天の気に恵まれるようです。この年の分と言ってはなんですが、大いに励んでください」

 ごく柔らかな微笑み。労いでも励ましでも、語気を強めての主張ですら、彼にとってはすべての言葉が民を思う本心からのものなのだ。だからこそというべきか、村長はほとんど倒れこむような勢いで頭を下げた。

「承知いたしました、来年こそは大豊作をご報告させていただきます!」

「期待しています。では村長殿、村を案内していただけますか?」

 村長を先頭に、一行は視察のため村を巡る。ログナーは二人の護衛をサラファスの左右につけ、自らはミロンと後ろに回った。この甥がまた何か言い出してはかなわない。そしてその懸念は当たっていた。

「ものすごい歓迎ですね、叔父上。たくさんの人が見に来てますよ」

 ミロンが耳打ちしたとおり、決して大きくはない村のどこにこれだけの数がいるのかと思われるほどの人々が、やや遠巻きに一行を見つめていた。中には物珍しさからそうしている者もいるだろうが、彼らの様子はごく好意的だ。それはそれとしてログナーはミロンを小突く。

「そうだな。だが『叔父上』と呼ぶなといつも言っているだろう。もし我々のせいで『サラファス様は一介の護衛を贔屓ひいきするようなお人だ』というような噂が立ってしまったら申し訳が立たない」

 一般に、護衛を志す少年は身内ではない護衛のもとで見習いをする。ミロンがログナーについているのは、本人の希望と、それを受けたミロンの父――ログナーの兄の一歩も譲らない主張、そして何よりもサラファスの許しがあったからだ。ログナー自身ミロンが心配でないわけではないが、有難いというよりは不安が勝る。サラファスには自分の立場を軽く見る癖がある。

「あ……申し訳ありません、叔父……ご主人様。そうですよね……やっぱりサラファス様にご迷惑をおかけしてはいけませんから……」

 しょんぼりとうなれるミロンから、話は終わったとばかり視線をらすと、五歳ほどの少女が一行に向かって走ってくるのが見える。

「こら、待ちなさい。そんなに走ったら危ないでしょ!」

「だってサラファス様が来たんだよ! サラファス様にはすっごい力があるんでしょ? お母さんだけ見たことあるのずるい、わたしも見たい!」

 止めようとする母親を振り返った彼女は、足元の石に気づかなかった。ああこれは転ぶな、とログナーが思った次の瞬間、やはり少女は盛大に転ぶ。なんとか自力で起き上がるが、両目にはいっぱいに涙を溜めていた。

「サラファス様」

 ログナーと村長と護衛の一人が同時に声を上げた。サラファスは視察の道程を外れ、綺麗な靴や長衣のすそに泥がつくのにも構わず、まっすぐにその少女の方へ歩いていく。村人たちがざわついた。こうなった主は止められないとよく知っているログナーは、ただ万が一の事態に備えて警戒を強める。

 護衛の心配をよそに、サラファスは泣きそうな少女のそばでかがみ、りむいた両ひざに両手をかざして隠した。そのまま目を閉じて小さな声で祈る。祈りを終えて手をどけると、傷はほとんど治っていた。

「怖がることはない、神王様の奇跡だ。……見たかったのだろう?」

 泣き止んで目を丸くする少女に、サラファスは目の高さを合わせたまま問いかける。少女はこくりと頷いた。その直後、少女の母親が顔を真っ青にして少女の手を引く。跳ねるような勢いで何度も頭を下げる彼女に、サラファスはただ微笑んで視察に戻ろうとした。

 ログナーはそんな主に寄っていき、小声でいさめる。

「サラファス様のお優しさは承知の上で、あえて申し上げますが」

 早口で、しかし有無を言わさぬ調子を心がける。

「あまり軽々しく奇跡をお示しなさいませんよう。慈悲も過ぎれば世の中が立ち行かなくなってしまいます。なにより神王様のお力は人の身には余るものなのでしょう? お体にさわっては大変です」

「私はそこまで悪いことをしたか、ログナー……?」

 サラファスは快晴の青い眼に懇願の色を浮かべる。それは彼の背丈がログナーの腰くらいまでしかなかった頃からの癖だ。そして、幼い頃から護衛であるため半ば目付役のようになっているログナーでも、サラファスのこの眼差しにだけは逆らえないのだった。

「悪くはありませんが、度が過ぎてはならないと申し上げているのです」

 ログナーは気まずくなって視線を逸らす。もう背丈もほとんど自分と変わらないのに、なぜこの主はいまだに上目遣いができるのだろう? 分かった、と安心したように笑う主をそれ以上見ていられず、ログナーは早々に話を切り上げる。

 幸いなことに、視察はそれ以上には何事もなく終わった。

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