フィアダーマの秘密

白沢悠

紅玉果の焼き菓子

「窓を開けたら、はたきをかけて――」

 テトロマの中心部にあるフィアダーマ家の邸宅の、住んでいる者にもいくつあるのかわからない客間の一つで、今は若い女性の歌声が聞こえる。掃除の手順に適当な節をつけたようなその歌は、この家の使用人の間で何代も歌い継がれてきた仕事歌だ。

「扉に向かって床を掃き、下から上まで窓を拭く――っと」

 使用人の女性は同じ歌を何度も繰り返し歌いながら掃除を進め、最後に窓枠をさっと拭いた。綺麗に拭かれた窓から午後の陽射しが差しこんでくる。ほこりがちらちらと光りながら舞うが、その量はごく少ない。

 外から扉を叩く音がして、女使用人はくるりとそちらへ振り向いた。毛先の跳ねた、赤みの強い下ろした茶髪が、明るい表情をふちっている。

「家政婦長様! も、もしかして聞こえていましたか?」

 彼女は扉の向こうの人物を認めて顔を赤らめた。家政婦長と呼ばれた、老年に差しかかった歳の、灰色の髪を頭の上で固くまとめている女性は、生真面目そうな顔に微笑みを浮かべる。きつい印象がそれでだいぶ和らいだ。

「ええ、ずいぶん楽しそうでしたね。もっとも……掃除はきちんとしているようですから、私からは何も言うことはありませんよ」

 女使用人はほおの赤いまま、もともと明るい表情をさらに輝かせる。

「ありがとうございます! それで、ご用は何でしょうか?」

「それが実は、今日は料理長がお菓子を作ってくれたそうなのです。私は先に控えの部屋でお茶をれていますから、なるべく早く調理場からもらってきてください。せっかくのお茶が冷める前にね」

 家政婦長はどこか楽しげに微笑ほほえんでいる。この屋敷の料理長は菓子を作ることが好きだが、当主とその息子があまり甘いものを口にしないため腕を振るう機会に恵まれないらしい。一方で女使用人たちの中には他家から行儀見習いに来ている令嬢もいくらかおり、彼女らは甘いものが大好きだ。与える側と求める側の思いの奇妙な一致は、いまや当主も認めた上で、両者にとってのたまの楽しみになっていた。

「わかりました、そういうことならすぐ行ってきます!」

 女使用人は素早く掃除の道具を片付け、まっすぐ調理場へ向かった。甘い匂いにくうをくすぐられながらその源を探すと、十数人で切り分けて食べられそうな菓子が、どういうわけだか調理台の上に二つある。

 お客様がいらっしゃるのかしら、と彼女は思った。なにしろ当主父子は甘いものを好まないらしい。しかし一方で、来客があるなら家政婦長が何か言っていても良さそうなものだ。ただそうはいっても広い屋敷のこと、使う客間は彼女の担当ではなかったのかもしれない。お客様のためのお菓子を使用人が間違って食べてしまっては大変だ。

「あの、このお菓子はどちらを持っていけば……」

 声を上げかけて、調理場に誰もいないことに気づく。そうこうしている間にも時間は過ぎていく。お茶が冷める前に戻らなくてはいけないのに。

 女使用人は悩んだ末に二つの菓子を見比べた。一つは泡立てた乳脂クリームと果物とで飾り立てられていて、白い乳脂と色鮮やかな果物が美しい。それに比べればもう一つは少しばかり地味だった。おそらくは乳酪チーズを使った黄身の強い菓子は、素人目に見ても焼き目にむらがある。

 持っていって良いのはきっと後者だ。もし間違っていたとしても、どちらかといえば出来の良くない方を持っていったのだから問題は無いだろう。それにしてもあの料理長さんがお菓子に焼きむらを作るなんて珍しい、そんなことを漠然と考えながら菓子を持ち去った。

 控えの部屋へ着いた女使用人は、時間については何も言われなかった。

「ありがとう。さあ、今度は切り分けるのを手伝ってちょうだい」

 はい、と返事をして小刀ナイフを受け取る。菓子を切り分けると断面に赤いものが現れた。糖蜜漬けにした紅玉果マラカだ。紅玉果はロギエラ王国や魔族の国の北部では夏によく食べられている果物で、例えばこの屋敷の庭にも樹が植えられている。もっぱら掃除を担当する彼女はよく知らないが、もしかするとこの菓子に使われているのも庭で採れたものかもしれない。

 切り分けた菓子を配り終え、部屋の隅の空いた席に腰を下ろした。他の女性たちはすでにお喋りに興じている。今日の話題はそれぞれが掃除している部屋と、その主のことだった。

「メルリーゼ様のお部屋はお掃除が大変なの。私には読めない本とか、他にも不思議なものがたくさんあって、うっかり触ると怒られるのよ。だから脇によけてはたきとほうきだけかけるようにしているわ」

「それが良いわ。魔術の道具なんて私たちが触ったら危ないでしょう」

「私はサラファス様のお部屋をお掃除しているけれど、姉弟でいらっしゃるのにそうも違うものなのね。あの方のお部屋はいつもお片付けの必要が無いくらいに綺麗なの」

「それはきっとログナーさんがいるからね。ほら、あの護衛の」

「あら、あの人ってそんなにうるさ型だったの?」

「ううん、そういう意味じゃないわ。……その、あの方は長いことサラファス様にお仕えしているから、ね?」

 何人かがくすくすと意味深な笑い声を上げる。誰も一向に菓子に手をつける様子が無い。根が真面目な女使用人は、せっかく急いで菓子を受け取ってきたのにまんまと茶が冷めつつあることを気にした。

 失礼して先に食べてしまおう。彼女は菓子を一口分に切って口に運ぶ。控えめな甘さと乳酪の風味、ほのかな酸味と塩味が新鮮だ。いつもの菓子はひたすら甘く、良家の出ではない彼女にはみの無い味だったが、これはどこか懐かしい味がする。どちらかといえば出来が良くないと思ったのは間違っていたかもしれない。

 ところが、異変は中に入っている紅玉果の糖蜜漬けを口にしたときに起こった。ごくかすかに、ちくりと舌を刺すような苦みが走る。紅玉果は甘酸っぱい味の果物で、さらに糖蜜漬けともあれば苦いはずは無い。

 料理長が作ったお菓子だもの、気のせいよね――女使用人は茶を一口含んで紅玉果を飲みこんだが、それ以上菓子を食べる気はしなかった。

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