第22話

 城戸女学園に通い、夏目の娘を殺せ。


 じいさんのそんな命令にあたしは従うつもりはなかった。


 あたしには夏目の娘を殺さなければいけない理由なんてなかったからだ。


 だけど、ナオからの報告を受けて、


「おかげで理由ができたよ」


 あたしは部屋でひとり呟いた。


 復讐を、始めよう。


 と、思った。




 翌日、あたしは保土ヶ谷の駅前にある病院を訪ねていた。


「友達のお見舞いに来たんです。内藤美嘉さんの」


 受付でそう言うと、きれいな女の人が病室を教えてくれた。


 あたしが知っているのは内藤美嘉という名前と、緑南高校の生徒だということくらいで、何か問い返されたらきっと言葉に詰まってしまったと思うけれど、何も訊かれずに済んでほっとした。


「エレベーターで八階に上がって、病室がわからなかったらナースステーションで聞いてね」


 あたしは親切に教えてくれた彼女にお辞儀をすると、エレベーターに乗った。


 ニュースでは、女子高生が友達のケータイの番号を男友達に教えてしまったことがきっかけで売春を強要されることになったと伝えていた。


 麻衣もあたしにそう言っていた。


 正確には、男友達ではなくて彼氏の(あのときにはもう元カレの)友達だった。


 その友達に麻衣がケータイ番号を教えてしまった友達というのがたぶん内藤美嘉なのだろう。


 内藤美嘉は事件の最中、レイプされて精神を病んだという話だった。


 内藤美嘉は8階の精神科病棟に入院していた。


 エレベーターが8階に着いた。


 ここに来るのは何年ぶりになるだろう。


 もう二度と来ることはないと思っていた。


 病室を探す途中で顔見知りに会ったら気まずいから、あたしはエレベーターを降りてすぐのところにあったナースステーションで顔見知りではない看護士を捕まえて病室の場所を尋ねることにした。


「友達のお見舞いに来たんです。内藤美嘉さんの」


 あたしはリカちゃんの電話のように受付で言ったのと同じ言葉をつむいだ。


「あら、美嘉ちゃんのお友達がお見舞いに来てくれるなんて何ヵ月ぶりかしら」


 看護士は噂話が好きそうな中年の太ったおばさんで、


「最後にお友達がお見舞いに来たのは8月のなかばだったかしら。

 あの頃は、美嘉ちゃん一番大変な時期で、目を覚ますと暴れたり自分の体を傷つけたりしてたから、ベッドに縛りつけなくちゃいけなくて大変だったのよ」


 と言い、なかなか病室へ案内してくれそうになく、あたしは訊く相手を間違えたと少し後悔した。


「今、お母さんはちょっと出かけてらっしゃるんだけど、担任の先生がみえてるのよ」


 そう言った。


「棗先生とおっしゃったかしら。毎日のようにお見舞いにいらっしゃって……。あら、そう言えば」


 看護士は何かに気付いたのか神妙な顔をした。


 どうかしたのかと尋ねると、


「いえね、そう言えば、あの先生がお見舞いにいらっしゃるときはいつもお母さんがいらっしゃらないときだなと思って。偶然よね」


 看護士はそう言った。


 看護士はそれから、内藤美嘉の両親は結婚しておらず、母親は内縁の妻であることや、「千のコスモの会」というこの街のはずれに小さな教会がある新興宗教の熱心な信者であり、母親は美嘉の世話もそこそこに熱心に布教活動に出かけているのだということを聞いてもいないのに教えてくれた。


 病室の場所をようやく案内してもらえたのはナースステーションを訪ねてから小一時間が過ぎた頃だった。


 内藤美嘉が入院する815号室は個室の病室だった。


 ドアの前に立ち、ノックをしようとすると、中には内藤美嘉とは別の気配がもうひとりあり、見舞いに来ているという担任の教師がまだいるのだとわかった。


 エレベーターから病室まではナースステーションを通る以外に道はなく、いくら看護士が噂話に夢中になっていたからと言っても、内藤美嘉の母親が戻ってきたなら噂話をやめたはずだった。


 だから母親が戻ってきているということはなかった。


 同様に担任のその棗とかいう教師が見舞いを終えて、ナースステーションの前を通り過ぎていたなら、看護士はあたしにそれを告げていただろう。


 病室の中からは、ぎしぎしとベッドが軋む音がしていた。


 大人の男の、荒い呼吸のような音もドアの僅かな隙間から漏れていた。


 あたしには中で今何が行われているのか想像できてしまった。


 ドアを開けると、案の定の光景がそこには広がっていた。




 内藤美嘉は、ぼんやりと天井を見つめていた。


 目は開いてはいたけれど、その顔は無表情で、まるで何も感じていない人形のようだった。


 随分着古したらしい"Chaco"という名前のくまのマスコットがプリントされたパジャマがめくりあげられ、乳房があらわになっていた。


 下半身は下着まで脱がされて、全部脱がされているわけではなく、左足にかかっていた。


 棗という名前らしい、アルマーニのスーツを着た教師が、内藤美嘉に覆いかぶさり、腰を振っていた。


 棗は荒い息で何度も内藤美嘉の名前を呼んでいた。


 あたしが病室に入ったことにすら彼は気付いていない様子で、内藤美嘉の中で果てると、そのまま彼女の体に全身を預けた。


 そして彼はようやくあたしに気付いた。


 さして驚いたような様子はなく、ただあたしの顔を濁った目で見つめていた。


「知らない顔だな。ぼくの教え子じゃあなさそうだ」


 と言った。


「彼女の友達か?」


 そう尋ねられて、あたしは首を横に振った。


「加藤麻衣の友達」


 と、あたしは言った。


「そうか」


 と、棗は言った。


「棗先生、でしたっけ。

 その美嘉って子の担任だってさっきおしゃべりな看護士の人から聞いたけど、麻衣の担任の先生でもあったのかな」


 棗は、薄く笑みを浮かべて、そうだよ、と言った。


「加藤麻衣の友達ということは、彼女が売春をこの子たちに強要されていたことは知ってるんだろう?

 ぼくは彼女を買ったこともある。

 この子じゃなく、夏目メイという子に紹介されてね」


 そう言った。


「ぼくはひとりの人間として男として、それから教師としても、人生に絶望していてね、彼女がぼくのことを好いていてくれていたのは知っていたから、だからぼくは彼女と心中しようとした。

 だけど彼女にはふられてしまってね」


 それ以来、ぼくはこの生きているのか死んでいるのかわからない子を抱いて、ぼく自身をこの世界に繋ぎとめている。


 棗はそう言った。


「彼女は、夏にレイプされたんだ。それも一番毛嫌いしていた男にね。

 それは彼女が加藤麻衣に売春を強要し続けたことに腹を立てた山汐凛という子が、彼女をそうしむけたのが夏目メイという少女だということに気付かず試みたささやかな報復だった」


 山汐凛のささやかな報復は、内藤美嘉がレイプされる映像をインターネットで全世界に配信したという。


「彼女は違法に改造を施したモデルガンで女の子の一番大切な場所を何発も撃たれて、こどもをうめない体にされた。

 今もこの通り、ただセックスをしただけでそのときの傷が開いてしまう」


 内藤美嘉の丸見えになったままの下半身は真っ赤な血で濡れていた。


「以来、彼女は心が壊れてしまって、自傷行為を繰り返すようになってしまった。そのため一時期は拘束具で全身を縛りつけられ、薬でずっと眠らされていたこともある」


 今ではもう自傷行為すら出来ないほどに内藤美嘉の心は壊れてしまっているのだと棗は言った。


「さっき、ぼくはこの子のことを生きているのか死んでいるのかわからないと言ったね。

 ぼくもまた、自分が生きているのか死んでいるのか、もうわからなくなってしまっているんだ。

 教師の仕事をルーチンとしてただこなすだけの毎日。

 他の教師たちと違って、ぼくには生徒たちと喜びや悲しみを共有することができない。

 ぼくは彼らになんの興味も持っていやしないから」


 棗は内藤美嘉の手を握りながら饒舌にそう語った。


「だけど彼女だけは特別だ。

 今となっては彼女だけがぼくの心のよりどころだ。

 君は一体何をしに、ここへ来たんだ?

 ぼくと美嘉だけの、誰も立ち入ることのなかった世界を邪魔しに来たのか?」


 あたしの目の前にいる教師は、正常じゃなかった。


 狂っていた。


「あたし、今度夏目メイが編入した城戸女学園に転入するの」


 あたしは言った。


 棗はあたしの言葉の意味をしばらく考えたあとで、


「つまり君は美嘉に夏目メイについて尋ねようと思ってここにやってきたわけだ」


 そう言った。


 狂ってはいてもさすがは教師だ。よく頭が働く。


「だが彼女はこんな有り様だ。

 その質問には彼女のかわりにぼくが答えよう。

 ぼくも彼女も、夏目メイの近くにいながら、残念ながらあの少女のことを何ひとつ理解できていない」


 棗はそう言った。


「君が何のために夏目メイのことを知りたがっているのかは知らない。

 だけど、ひとつだけ、君に助言できる言葉をぼくたちは持っている」


 そして棗はこう言った。


「夏目メイに近付くな」


 あの子ほど恐ろしい人間を、ぼくは見たことがない。


 棗という教師はそう言って、泣き崩れた。




「山汐凛は母親が再婚し引っ越しこそしたものの、再婚相手も横浜市内の男性だったようで、引っ越し先も市内でした」


 病院からの帰り道、あたしはナオから報告を受けていた。


 山汐凛の引っ越し先は横須賀だという話だった。


「これから横須賀、行くんですか?」


 ナオにそう尋ねられるまであたしは内藤美嘉の次は山汐凛を訪ねるつもりでいた。


「わたしはただ探偵から報告を受けた内容をお嬢様にご報告しているだけですが、たぶん山汐凛は……」


 ナオが言わんとしていることはわかっていた。


 麻衣はあの日、今は友達の中絶費用を集めるためにウリをしていると言っていたし、山汐凛は、事件の最中に流産していた。


 たぶん麻衣が言っていた友達とは山汐凛のことだった。


 これはあくまであたしの想像でしかないけれど、逮捕された三人の中で山汐凛だけは麻衣の本当の友達だったんじゃないだろうか。


 麻衣がウリを強要されることになった理由は、とても些細なことだった。


 麻衣はいつでも内藤美嘉や夏目メイの強要を拒否できたはずだった。


 それでも麻衣がウリを続けた理由は、自分がやめると言えば次は山汐凛がウリをさせられる、とそう考えたからかもしれない。


 事件はもう終わってしまったことかもしれないけれど、山汐凛は事件のことを気に病み続けているに違いなかった。


 幸か不幸か山汐凛は母親が再婚して新しい生活を始めている。


 母親の再婚相手がどんな男かはわからないけれど、山汐凛は事件のことをようやく忘れられるかもしれないでいる。


 そんなときに山汐凛を訪ねていくなんてことはあたしには出来そうもなかった。


 ひょっとしたら加藤麻衣は山汐凛にだけは行方を知らせているかもしれなかった。


 けれど、彼女が麻衣が大切に思っていた友達であるのなら、もう内藤美嘉や夏目メイのことを思い出させるようなことはしたくなかった。


「加藤麻衣の行方についてはまだわかりません。また何かわかり次第ご報告します」


 ナオはそう言うと電話を切った。


 あたしは歩道橋の上で大きく伸びをして空を見上げた。


 そこにはもう、やっぱり夏の大きな雲はなかった。


 秋になってから、じいさんはあたしにヤクザをあてがうことがなくなった。


 それなのに、あたしの胸には大きな穴が空いてしまったかのような感じがしていた。


 それはきっと夏が終わってしまったからで、あたしにはじいさんの言う通りにヤクザ相手に体を売るような毎日の方がきっと性にあっているのだと思った。


 だから、あたしはもう一度だけ、それは楽な方向に逃げるだけのことなのかもしれないけれど、じいさんの言う通りにしてみようと思った。


 夏目メイを殺そうと思った。


 あたしにはそのために必要な武器と、そして理由があった。

 そんな風に考えると、あたしのぽっかり穴の空いた小さな胸は、そこに何かがかちりとはまる気がした。


 だけど、本当に夏目メイを殺してしまったら?


 あたしの胸にはまた穴が空いてしまうだろう。


 それから先もじいさんの命令に従い続けていくか、それまでにあたしが何かを見つけるか、あたしには二通りの未来があった。


 何を見付ければいいのか今はまだ何もわからないけれど、それはきっとあたしがヤクザの孫だということを忘れられるものだった。


 あたしは城戸女学園でそれを見つけようと思った。


 そんなことを考えていると、何故だか霧消にハルに会いたくなった。


 ハルの屈託のない笑顔を見たくなった。


 あたしは、ハルのことが好きだった。



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