第20話 第二部「秋雨」 プロローグ
苦しいときも、いつも見上げれば大っきな夏の雲があって、あたしはそれに向かって歩いていくんだって思ってた。
だけど夏が終わりに近付くにつれて、あたしはもし夏が終わってしまったら、と考えるようになっていた。
地球温暖化が進んで、今年も夏は記録的な猛暑の日が何日も続いていたけれど、だからと言ってこの国には四季があって夏は永遠には続いてくれない。
いつか終わりがやってくる。
秋がきてしまう。
秋が来てしまったら、もう空を見上げてもそこにはきっと夏の大きな雲はない。
そのかわりに、灰色の雲があたしに冷たい雨を降り注ぐだろう。
あたしは夏のある日、そんなことを考えながら、駅のすぐそばで体育座りをして、空を眺めていた。
空は、アスファルトにたまった熱のせいで、ゆらゆらと揺れる街の景色と違って、澄みわたるきれいな青色をしていた。
海と同じ色をしていた。
その日、あたしは麻衣という女の子に出会った。
麻衣は、行き交う人やすれちがう人の顔を気付かれないように盗み見ながら歩く不思議な女の子だった。
麻衣はあたしと同じ、ウリをしている顔をしていた。
ウリをしてるくせにサマークラウドなんていう安物のブランドの服を着ていた。
あたしの顔をじっと見つめていた麻衣に、
「あんたも客待ち?」
とあたしは言った。
「やっぱりわかる?」
麻衣は聞いた。
「うん。ウリをしてる子は顔を見ればわかるよ」
あたしは言った。
その言葉は麻衣がマクドナルドで偶然知り合った男の子にこの間そう言われたばかりの言葉だったそうだ。
「隣、いい?」
そう尋ねられて、あたしはいいよと言って、サングラスを取って笑った。
麻衣はあたしの隣に、同じように体育座りで座った。
「年、いくつ?」
そう聞くと、
「もうすぐ十六」
と麻衣は答えた。
「じゃあ、あたしとおんなじだね」
あたしは言った。
あたしたちはいっしょに夏の空の大きな雲を眺めた。
「あたし、夏の雲、好きなんだ」
あたしは言った。
「苦しいときもいつも見上げれば大っきな雲があってさ、あたしはそれに向かって歩いていくだって、いつも自分を励ましてるんだ」
あたしがそう言うと、麻衣が笑ったので、あたしは一瞬馬鹿にされたのかなと思った。
「アタシも同じこと考えながらいつも空を見上げるんだ」
麻衣は怪訝そうな顔をするあたしにそう言った。
あたしたちはとてもよく似ていた。
「あのね……」
と、麻衣はあたしに何か聞こうとして、やめた。
なんでウリしてるの?
だけど、麻衣の顔にはそう書いてあった。
「なんでウリしてるの? って今聞こうとしたんだよね」
じいさんにさせられてるんだ。
あたしは言った。
「あたしのじいさん、ヤクザでさ、組のためだって言ってさ、孫のあたしにあちこちのヤクザの相手をいろいろさせてるんだ」
そう言った。
「でもそのおかげでこんな高い服着たりできてるんだけどさ」
あんたは? と尋ねると、
「アタシは、友達のケータイ番号を彼氏に頼まれて、……今はもう元カレだけどね、彼の友達に教えたのがきっかけでウリをさせられることになったんだ」
今は別の友達が妊娠しちゃって、その中絶費用のためにしてるんだ、と麻衣は言った。
ふうん、とあたしは言った。
「お互い、なんか、色々大変だね」
「そうだね」
あたしたちはそう言って、もう一度、夏の空の大きな雲を見上げた。
もうすぐ沈む太陽が眩しかった。
太陽は、あたしにはまぶしすぎる気がした。
あたしはサングラスをかけて立ち上がった。
「あたし、もう行かなきゃ」
そう言って、遠くを指差して、
「あそこの、趣味の悪いスーツ着て、キョロキョロしてる男がたぶん今日の相手だから」
と言った。
そこには本当に趣味の悪い紫色のスーツを着た男の人がいて、麻衣が笑いをこらえきれなかったのか噴き出してしまった。
「ちょっと、笑わないでよ。あたし、これからあの男とするんだよ?」
そう言うあたしも笑っていた。
「ね、ケータイの番号教えてよ」
あたしは言った。
「うん、いいよ」
あたしたちはケータイの赤外線受信でお互いの番号を交換した。
お互いのケータイに登録していたプロフィールの名前で、アタシたちはそのときやっとお互いの名前を知った。
加藤麻衣と鬼頭結衣。
「名前まで似てる」
あたしは笑った。
「それじゃ、あたし行くね」
あたしは麻衣に小さく手を振って歩き出した。
あたしの背中に、
「何かあったら電話してね」
と麻衣は言った。
あたしは振り返らずに、手だけを麻衣に振った。
麻衣に会ったのはそれっきりだ。
夏が終わっても、あたしは麻衣に電話をかけることはなかった。
ただ、夏の終わりのテレビのニュースで、麻衣にウリをさせていた友達が逮捕されたと聞いた。
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