第18話(最終話)

 十和がツムギを連れて、アタシたちがいたガード下にやってきたとき、凛はもうアタシが呼んだ救急車に乗せられて、病院に搬送されようとしていたところだった。


「何があった?」


 十和に肩を捕まれたアタシは、凛が凛が、と呟くだけで、とても話ができる状態じゃなかったそうだ。


「流産しちゃったみたい、あの子。まだわからないけど」


 と、メイが十和とツムギに他人事のように言ったらしい。


 その言葉で十和は、自分がいない間に一体何が起きたのか、アタシが説明しなくても悟ったそうだ。


 アタシが体を売って稼いだ凛の中絶費用だったはずのお金で、レッドストリングスの服を買ったメイが、凛に何をしたのか、十和には自分がいなかった間に何が起きたのか簡単に想像がついたそうだった。


 ツムギはほっと胸を撫で下ろした顔をしていたらしい。


「もう殴る気も起きなかった」


 十和は後でアタシにそう言った。


 そうだとか、らしいとか、そんな風にしかアタシがこのときのことを話せないのは、アタシはこのときのことをまるで覚えていないからだった。


 凛の下着が血で真っ赤に濡れて、ケータイで救急車を呼んだところまでは覚えていた。


 それからのことは、アタシはその場にいてすべてを見ていたはずなのに、すべてアタシの記憶から抜け落ちていた。


 それから先の記憶は、秋葉原駅からそう遠くない場所にある病院で、手術中を示す赤いランプをぼんやりと眺めているところからしかなかった。


 アタシや十和は、凛といっしょに救急車に乗せられてその病院に運ばれたようだった。


 病院にメイやツムギの姿はなかった。


 赤いランプが消えて、


「山汐凛さんのお友達の方ですか?」


 手術室から出てきたお医者さんが、すぐそばのベンチに座っていたアタシたちにそう尋ねた。


 十和が、はい、とはっきり答えたことは今でも覚えている。


「大変申し上げにくいのですが……」


 その後のお医者さんの言葉も。


 窓に叩き付けられる、どしゃぶりの雨の音も。




 凛は流産した。


 それだけじゃなかった。


「詳しく検査してみないとわかりませんが、おそらく凛さんはもう二度と妊娠できないでしょう」


 お医者さんはそう言った。


 手術室からベッドに寝かされたまま出てきた凛に、アタシはかける言葉が見付からなかった。


 凛を載せたベッドは、看護師さんにどこかの病室へ運ばれていった。


 アタシはそれをただじっと眺めていた。


「何か言葉をかけてやらないのか」


 十和にそう言われたけれど、アタシにはこんなときにかけてあげられる言葉が見付からなかった。


 ただ、いつか凛が美嘉のことを言った、因果応報という言葉をアタシは思い出していた。


 アタシたちはその晩、薬で眠らされている凛の病室で眠れないまま夜を明かした。


「お兄ちゃん……」


 凛が寝言に、アタシの心が痛かった。


 翌朝、凛が目を覚ますより早くアタシたちは病室を出た。



 アタシたちは、乗客のまばらな始発の電車に乗って横浜へと帰った。


 アタシは十和にどうしても確認しておきたいことがあった。


「メイが十和のこと、殺人犯だって言ってたよね。あれ、どういう意味?」


 十和があの硲という探偵につきつけたバタフライナイフには赤黒い血がこびりついていた。


 あのナイフを十和は使ったことがあるのだ。


 アタシはずっとそのことを考えないようにしていたけれど、気にしないでいることはもうできそうになかった。


「あの子、頭がおかしいんだよ」


 麻衣を混乱させるようなことを言って楽しんでるだけだよ、十和はそう言って笑った。


 アタシはそれを聞いて、少しだけほっとした。


 それからしばらくして、電車が横浜に着く頃、十和は電車の中吊り広告を見ていた。


 それは女性週刊誌の広告で、


「人気バンド『エンドケイプ』のボーカル、俳優としても活躍するタレントsinに一体何が?

 強盗殺人未遂事件の真相に迫る!」


 大きな見出しでそう書かれていた。



「ぼくが刺したんだ」


 十和はそう言った。


 彼はもう笑ってはいなかった。



 電車を降りたアタシたちは、いつもの公園の遊具で眠ることにした。


 昨日はいろんなことが起こりすぎて、アタシたちはひどく疲れていた。


 疲れているのに、寝つけなかった。


 十和があのsinという男の人を刺した。


 いくら疲れているからと言って、そんなことを聞かされて眠れるほど、アタシの心は頑丈に出来てはいなかった。


 十和も同じだったらしく、遊具の狭い天井をぼんやりと見つめていた。


「自首、しないの?」


 アタシはその横顔に聞いた。


「麻衣にはじめて会った日だよ」


 十和は返事のかわりにぽつりぽつりと話し始めた。


「あのsinって奴がぼくを抱きながら言ったんだ。

 君、お兄さんいない? って。

 君のお兄さんを知ってるよ、って。

 君のお兄さん、東大の院生だよね? って。

 どうしてあいつが兄貴のこと知ってるか、ぼくにはわからなかった」


 アタシは黙って、十和の語る言葉を聞いていた。


「兄貴さ、ゲイだったんだ」


 十和はそう続けた。


「兄貴も体、売ってたんだって。

 あいつは兄貴を買ったことがあったらしいんだ。

 そのときにぼくのことを聞いたらしかった。


 たぶん、兄貴のことだから、年の離れたできそこないの弟がいるとか言ったんだと思う。

 あいつは、兄貴とぼくの顔がそっくりだったから一目見ただけで、ぼくが兄貴の弟だって、わかったらしかった。


 あの出来のいい、いつもすました顔をしてる兄貴も、俺といっしょで男に体を売ってるって知って、それも俺みたいな家に帰りたくないとか金がほしいとかそんな理由じゃなくてさ、本物のゲイだとわかって、男に抱かれたくてしかたがないって知って、俺はあいつに抱かれながらこみあげてくる笑いをこらえるのに必死だった」


 十和はそう言いながら、笑うことはなかった。


「だけどあいつ、俺を抱いた後で言ったんだ。

 君はお兄さんと比べたら、頭だけじゃなくて、体もあんまりよくないんだね、って。


 そのとき、こどもの頃からずっと兄貴と比べられてきて、父さんや母さんが兄貴ばかりかわいがって、自慢して、俺を一度も褒めてくれたり頭を撫でてくれたりしたことがなかったのを思い出したんだ。


 ずっと考えないように、俺は兄貴にはかなわないから、思い出さないようにしてたのに。


 頭に血がのぼって、何も考えられなくなった。


 父さんや母さんにできそこないだと罵られる声が聞こえた。

 兄貴の、いつも俺を馬鹿にする笑い声が聞こえてた。


 気が付いたら、ナイフをあいつの腹に刺していた。

 一度刺したら、恐くなって何度も刺した。


 あいつが動かなくなるまで刺した。

 ぼくはあいつの財布からもらうはずだったお金を抜きとって、ホテルを出たんだ」


 それが、まだ誰も知らない、人気タレントの強盗殺人未遂事件の真相だった。


「自首、しないの?」


 アタシはもう一度だけ、十和に尋ねた。


「自首するのもわるくないかもしれないね」


 十和は笑った。


「俺が自首して、警察の取り調べでウリやってたこととか、兄貴もあいつに体売ってたこと話せば、官僚やってる父さんのキャリアに傷をつけられるし、将来有望な兄貴の未来もめちゃくちゃにしてやれる」


 十和は優しい人だったけれど、悲しい人だなとアタシはそのとき思った。


 彼は、そんなことになったらお父さんやお兄さんがどうなってしまうのかはわかっても、きっと自分がどうなってしまうのかわからないんだと思った。


「でもその前に、時計を買って、それをつけて麻衣といっしょに海を見に行きたいんだ。

 広い海で、映画の中のジャック・マイヨールみたいにはうまくは潜れないだろけれど、潜水夫の真似事みたいなことでいいから一度してみたいんだ」


 アタシたちは手をつないで、その手が簡単にはなれてしまわないように指をからめた。


「そろそろ寝よう」


 アタシたちは余程疲れていたのか、次の日の朝まで眠り続けた。



 夢の中でアタシは何台ものパトカーのサイレンを聞いた。


「麻衣、起きて」


 メイの声が聞こえた気がした。


 目を覚ますと、やっぱり外は雨が降っていて、赤い長靴と黄色い傘のメイが、遊具の中のアタシたちを覗きこんでいた。


「楽しい夏休みは今日で終わりだよ、麻衣。

 あんたのひと夏の恋もこれでおしまい」


 メイはそう言って、アタシにも外が見えるように、体を遊具の前から退かした。

 何台ものパトカーが、公園の入り口に見えた。



 十和はアタシの目の前で逮捕された。


 彼は特に抵抗することもなく、とても穏やかな顔をして、パトカーに自分から乗り込んだ。


「十和、十和」


 アタシはパトカーにすがりついて、窓の中に見える彼の名前を何度も呼んだ。


 彼はそんなアタシに笑いかけた。


「だいじょうぶ」


 声は聞こえなかったけれど、十和がそう言ったのが口の動きでわかった。


 麻衣はいい子だから。ぼくなんかいなくてもきっとしあわせになれるよ。


「そんなことない。そんなことないよ、十和。

 十和がいなくなったらアタシ、どうしたらいいのかわからないよ。


 ずっといっしょにいようって約束したじゃない。いつか海のきれいなところで海の家いっしょにやろうって約束したじゃない。

 アタシ、十和がいなくちゃひとりじゃ何にもできない。何にも決められないよ」


 十和はまた、


「だいじょうぶ」


 と言って笑った。


 それが、アタシと十和の別離(わかれ)だった。




 パトカーがゆっくりと動き出すと、その場にはアタシとメイだけが残された。


「どうして……?」


 アタシは呟いた。


「メイはyoshiのことがずっと好きだったんでしょう?


 だからアタシとyoshiを別れさせるために美嘉をけしかけて、アタシにウリをさせて、アタシがウリをしてたことyoshiに話して、アタシのことも美嘉のことも凛のことも、みんなみんなめちゃくちゃにして、yoshiを自分のものにして満足でしょ?


 どうしてまたアタシから幸せを奪うの?


 アタシ、メイに何かした?

 何もしてないよね?」


 アタシはメイに詰め寄った。


 メイはアタシの襟首をつかんだ。


「あんたがフツーの女の子でいるのが、最初から気に入らなかったんだよ」


 そう言った。


「まぬけづらして、フツーの服着て、フツーの顔して、フツーの家族に囲まれて、フツーの恋愛して、あんただけがフツーなのが一番気に入らなかったんだよ」


 メイはアタシの襟首をつかんでいた手を離すと、ヒールのかかとでアタシを蹴り飛ばした。


「だからね、ずっと、殺してやりたいくらい憎かったんだよ」


 メイはそう言うと、アタシに拳銃を向けた。


 アタシは目を疑った。


「これね、凛のお兄さんがナナセに作ってあげたようなモデルガンじゃないよ。本物だよ」


 メイはアタシの足元に向かって、拳銃の引金をひいた。

 ぱん、と乾いた音がして、あたしの足元で土ぼこりが舞った。


「どうして? どうしてメイがそんなもの持ってるの?」


 メイは答えなかった。


 そのかわりに、


「ねぇ知ってる? あたしたちの中でね、フツーの家の子ってあんただけなんだよ」


 そう言った。


「yoshiは母子家庭。

 美嘉は内縁の妻のこども。

 凛は幼い頃に両親が離婚してる。

 ナナセはお父さんがゲイで、ご両親は偽装結婚なんだって。知ってた?」


 知らなかった。


「さっきの十和だっけ。あの人も官僚のお父さんが出来のいいお兄さんばかりかわいがって、お父さんから愛してもらえなかった。だから男に体売ってたんでしょ?」


 どうしてメイがそのことを知ってるんだろう。


「フツーの家の子って、あんただけなんだよ」


 アタシはずっと不思議だった。


 みんな確かにアタシと違ってフツーの家の子じゃなかったかもしれない。


 だけどみんなそれでも家族の話をアタシにしてくれた。


 メイだけが家族のことをアタシに語らなかった。



「メイの家もフツーじゃないの?」


 アタシは尋ねた。


「そうね、たぶん一番フツーじゃないわね。

 あたしがどうして今、拳銃なんか持ってると思う?」


 フツーの女の子に拳銃なんて手に入れられるわけがなかった。


「まだわからないんだ?

 じゃあ、これならどうかな?

 バスケ部にクスリを流したの誰だと思う?」


「メイ……なの?」


 嘘だと思いたかった。


 だけどメイは、


「うん、あたし」


 そう答えた。


 アタシは目の前が真っ暗になった。


 クスリさえなかったら、ナナセは凛にそそのかされても美嘉をレイプなんてしなかったかもしれなかった。


 クスリさえなかったらバスケ部はインターハイに行けたかもしれなかった。廃部になんてならなくてもすんだかもしれなかった。


 yoshiも退学になんかならずに、早く実業団に入ってお母さんに楽をさせてあげたい、そんな夢を叶えることができたはずだった。


「アタシの家ね、暴力団なの。

 だから、拳銃とかクスリとか、いくらでも手に入るんだ」


 メイは言った。


「麻衣さ、あんた、yoshiがあたしのこと選んだって思ってるでしょ」


「違うの?」


「あいつ、クスリが欲しいからあたしのそばにいるだけなんだ。

 まぁでも、あたしはyoshiのこと気に入ってるし、クスリなんかやってたらあたしのお婿さんにはもういらないけど、組の鉄砲玉くらいには使えるかもね」


「何それ」


「麻衣は本当にフツーの女の子なんだね。何にも知らないんだね。

 鉄砲玉っていうのはね、たったひとりで敵対する暴力団の頭を暗殺しにいく仕事だよ」


 とメイは言った。


「100パー返り討ちにあっちゃうんだけど。頭殺せなかったら無駄死にだしね。

 パパがね、ずっと潰したがってる組があるんだけど、誰も鉄砲玉なんてやりたがらないし、困ってるんだ」


 メイは笑った。


「麻衣さ、あたしあんたのこと、死ぬほど気に入らないから、今ここで殺しちゃって、あんたが海の家をやりたがってたきれいな海にコンクリ詰めにして棄ててやってもいいんだけど、このままずっとあたしの下でウリやらせるのもいいかなって、あたし思ってるんだけど、どっちがいいかなぁ?」


「どっちも嫌に決まってるでしょ」


 アタシはいつかツムギがくれたスタンガンをメイに向けた。


「何それ。インスタントカメラ? いまどきそんなの持ってるなんてめずら」


 笑うメイの言葉を、アタシがシャッターボタンを押すと同時にバチバチと飛んだ火花が遮った。


「そう。それもナナセのモデルガンと同じで、凛のお兄さんに作ってもらってたってわけ?

 でもそんなちゃっちいスタンガンと拳銃、どっちが有利かくらい、いくら馬鹿なあんたでもわかるわよね?」


 メイに言われなくてもわかっていた。

 アタシに勝ち目はなかった。


「あんたさ、アタシに逆らってもいいけど、家潰しちゃうよ?

 あんたの大事な大事なフツーの家族、ユーちゃんにシーちゃんに、アイにミイ、それからハーちゃんにヒーだっけ。あとマインって犬もいたっけ。

 みーんなあんたといっしょにコンクリ詰めにしてきれいな海に棄てちゃうよ?

 ま、その前にお姉さんと妹にはあんたの代わりにいっぱいウリをしてもらってお金稼いでもらうことになると思うけど」


 あはは、はははは、って、メイは心から楽しそうに、笑った。


 アタシはスタンガンを握り締めていた手をはなした。


 それは土の上に小さな音を立てて落ちた。


「それ、こっちに寄越してくれない? あんたがヤケ起こしたりしたら面倒なことになるからさ」


 面倒なことというのはきっと、アタシを殺さなくちゃいけなくなるって意味だった。


 アタシは言われた通り、それをメイの足元に向かって蹴った。


 インスタントカメラを改造したそれは、メイがヒールで踏み潰すと簡単に壊れてしまった。


「これからもアタシの下で働いてくれるってことでいいんだよね?」


 メイは、


「あたしの言う通りにしてくれたら、悪いようにはしないからさ」


 メイは本当に、アタシのことが憎くてたまらないのだ。


「あんたが悪いんだよ、麻衣。あたしがどうやっても手に入れられないフツーってやつをあんたいっぱい持ってたんだもん」


 アタシが逆らったら、メイは本当にアタシの家を潰すくらいのことはするだろう。


 お姉ちゃんや妹にウリをさせるだろう。


 アタシはメイが怖かった。


 だから、メイに従うことにした。



 十和が逮捕されて一週間が過ぎた。


 いつの間にかアタシの誕生日は過ぎていて、16歳になっていた。


 もうすぐ夏休みも終わろうとしていた。


 アタシは勉強机の上に何ひとつ手をつけていない夏休みの宿題を積み上げたまま、一日の大半を部屋でひとりベッドの上で寝て過ごしていた。


 窓の外をぼんやりと見上げていた。


 十和はもういない。

 考えないようにしても、十和のことばかり考えてしまって、その度に涙が出た。今ではもう、涙は枯れてしまっていた。


 つらいときも見上げればいつも大きな夏の雲があって、アタシはそれに向かって歩いてきた。


 だけど、今のアタシにはもう、窓の外に見える夏の終わりの雲に向かって歩いていくことはできなくなっていた。


 心の中がいつもざわざわしていた。ひとりでいると今まで感じたことのない不安がやってきて、アタシを何度も押し潰そうとした。


 その度にアタシは悲鳴を上げた。


「お姉ちゃん、どうしたの?」


 心配して顔を覗かせた妹を、アタシは抱き締めた。


「お姉ちゃん?」


 妹はびっくりしてアタシから逃れようとしたけれど、


「ごめんね、実衣。少しの間こうさせてくれたら落ち着くと思うから」


 すすり泣くアタシに、いいよ、と妹は言った。


「何かこわい夢見ちゃったんだよね」


 妹は何も知らない。


「いっしょにいてあげる。

 ねぇ、ひさしぶりにいっしょに寝よっか?

 実衣ね、ちっちゃいころお姉ちゃんがわたしと手をつないで寝てくれるのが、すごく気持ちが落ち着いて大好きだったの。

 だから今日は一日、わたしがお姉ちゃんのそばにいてあげるね。手をつないで眠ってあげるね」


 アタシは妹に手をつないでいっしょに眠ってもらった。

 そうすると少しだけ気持ちが楽になった。



 枕元に置いたケータイにメイからメールが届くと、アタシは目をさました。


 シャワーを浴びて服に着替えて、化粧をして髪を整えた。


 妹はアタシのベッドで幸せそうな寝顔で寝息を立てていた。


 メールには相変わらず、お客さんとの待ち合わせ場所と、お客さんの簡単な特徴、お客さんがお望みのコース、それからメイにお金の受け渡す場所と時間などが書かれていた。


 アタシはそのメイからの指示に従って、お客さんと待ち合わせると、学校のすぐそばにあるラブホテルで抱かれた。


 お客さんのお望みのコースは日に日にエスカレートしていて、三日前にアタシはアナルのバージンを奪われて、その次の日にはスカトロをはじめて経験した。


 お客さんはアタシのおしっこをのみたがり、バスルームにアタシを立たせ、あそこの下に顔をもってきては、おしっこを顔にかけるように言った。


 お客さんはとても満足そうな顔をしていた。

 アタシにはまるで理解できない性癖だったけれど、世の中にはいろんな性癖を持った男の人がいるということがわかった。


 ゴムなしの中出しにオプションがついて、日によっては五万円近くもらえることもあったけれど、もちろんアタシの取り分なんてなかったし、体を売って手に入れたお金で何かを買ったとしても、いつか買ったサマークラウドのワンピースのように手に入れた後に虚しさを感じるだけだということはわかっていた。


 だからメイにお金を巻き上げられることに抵抗はなかった。


 アタシはただメイの言いなりになって、メイのご機嫌を損ねないように男の人たちに抱かれ続けた。


 わたしの体はもう、男の人に気持ちいいことをされても何も感じない体になっていた。



 部屋にずっと引き込もっていたアタシを外に連れだしてくれたのは、ハーちゃんと実衣だった。


 ハーちゃんの運転で、実衣と三人で国道沿いのTSUTAYAに出かけた。


「ガッキーと三浦春馬くんの映画が観たい」


 店に入るなり実衣はそう言って、話題の映画コーナーに消えていった。


「麻衣は? 何か観たい映画ないの?」


 店の入り口でぼんやりしていたアタシにハーちゃんが訊いた。


「ハーちゃん、グラン・ブルーっていう映画観たことある?」


 アタシは聞いた。


「あるよ。昔彼氏と観に行ったから」


 ハーちゃんは答えた。


「十和がね、その映画すごく好きだって言ってたの」


 十和のことをアタシはハーちゃんに話したことはなかった。


「海に行ったこともないくせに、ジャック・マイヨールさんと同じ時計を買うんだって言ってお金貯めてて」


 だけどハーちゃんはアタシの話を黙って聞いてくれた。


「あれはいい映画だからね」


 そう言ってくれた。


「十和は映画はその映画しか観ないって言ってたの。その映画ばっかり、繰り返し何度も何度も観てるんだって」


 ハーちゃんはアタシの手をひいて、外国の古い映画のコーナーに連れていってくれた。


「これだよ、麻衣」


 ハーちゃんがアタシにグラン・ブルーを差し出した。

 海の写真がとてもきれいなパッケージの映画だった。


「帰ったら実衣と三人で観よっか。実衣が借りたがってるのとこれ借りて、もう帰ろっか」


 ハーちゃんの優しさが痛かった。


 アタシはまっすぐ立っていることもままならないほどひどく疲れていた。


 ハーちゃんに全部話して、楽になりたいと思った。


「ハーちゃん、あのね」


 全部話して楽になろうと思ったアタシの頭に、メイの顔が浮かんだ。


「ううん、何でもない」


 話したところで、ハーちゃんにつらい思いをさせるだけだと思った。


 家族を危険にさらしてしまうだけだと思った。


 アタシには何も話せない。




 家に帰ったアタシたちは、三人でグラン・ブルーを観た。


 海がとてもきれいな映画だった。


「十和くんて子はね、たぶん今ここにいるんだよ」


 ジャック・マイヨールがどこまでも深く深く潜る海を見ながら、ハーちゃんが言った。


「麻衣はカナヅチだから今すぐにはここに行くことはできないけど、いつか泳げるようになったら行けるよ」


 ハーちゃんはそう言った。


 だけど十和はそんなところにはいない。


 十和はきっとまだ警察の取り調べを受けていて、薄暗い留置場の独房かどこかに閉じ込められているはずだった。


 ハーちゃんが言ったみたいに、そんな風に考えることができたらどれだけ楽だろうなとアタシは思った。


 映画を見終わった後でアタシはハーちゃんに訊いた。


「ジャック・マイヨールって人、今何してるの?」


 ハーちゃんはとても言いづらそうな顔をした。


「自殺しちゃったんだ、何年か前に」


 遺体のそばのテーブルの上に、「グラン・ブルー」のビデオが置いてあったそうだ。


「自殺か……」


 それも悪くないかもしれない、とアタシは思った。




 その日もセックスをした後で男の人にお金をもらって、それを財布に入れたとき、


「何か落ちたよ」


 男の人が何かを拾って、途端に真っ青な顔をしてアタシに差し出すと、「ごめん、俺、先帰るから」そう言って部屋を出ていった。


 それは名刺だった。


「神奈川県警少年捜査課、安田呉羽警部補」


 そう書かれていた。


 アタシはそれを握り締めて、部屋を出た。



 どうやってそこまで辿り着いたのかまったく覚えがなかったけれど、気が付くとアタシはその名刺に書かれた住所に立っていた。


 目の前には大きな警察署があって、駐車場には何台ものパトカーが停まっていた。


 十和を乗せて行ったパトカーがあるかもしれない、とアタシは思った。


 記憶を辿って、あのパトカーのナンバーを思い出したアタシは、一台一台ナンバープレートを確認した。


 十和を乗せて行ったパトカーはすぐに見付かった。


 アタシは、そのパトカーにあのときのようにしがみついて泣いた。


 そのあとは警察署の入り口のそばで、ぼんやりと誰かが出てくるのを待っていた。


 そして、


「よぉ」


 と、アタシは声をかけられた。


 顔を上げると、そこには安田がいた。


 安田はとても優しげな表情を浮かべていた。


 その顔を見ていたら、アタシは何もしゃべれなかった。


 安田は、アタシの顔をじっと見つめた。


 そして、


「もう限界か?」


 と、アタシに訊いた。


 アタシはこくりと人形のようにうなづいた。


 そんなアタシを安田は抱き締めた。


 アタシの体は震えていた。


「よく、がんばったな」


 アタシの頭を撫でてくれた。


 枯れてしまったと思っていた涙が、あふれた。




 そして、アタシの夏が、終わった。



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