第17話
2年前、中学2年の夏に、アタシは15年の人生で一度だけ海外旅行をしたことがあった。
パパがいてママがいて、お姉ちゃんとアタシと妹と、それからハーちゃんとヒーもいっしょで、家族全員で旅行をしたのはそれが最後のことだった。
一足早く大人になってしまったお姉ちゃんはたぶんもう、彼氏と旅行にでかけることはあっても、家族旅行には参加しないと思う。
行き先は韓国だった。
ハワイとかグアムとかプーケットとか、いろいろな国のリゾート地が候補に上がったけれど、韓国に決まったのは韓流ドラマにハマっていたママとハーちゃんのおかげ。
有名な韓流ドラマのロケ地をまわるツアーにアタシたち一家は参加した。
ママもお姉ちゃんもアタシも妹も、それからパパとヒーも初めての海外旅行だった。
アタシたちはまるで修学旅行ではじめて東京にやってきた地方の中学生みたいで、何度も海外旅行をしたことがあるハーちゃんがバスガイドさんか担任の先生みたいにアタシたちを引率してくれた。
夜、ハーちゃんに誘われて、ママとお姉ちゃんと妹とアタシの五人は、パパとヒーをホテルに残して、韓国式のマッサージをしてもらいに街に出かけた。
アタシをマッサージしてくれたのは、流暢な日本語を話すまだ若い女の人で、一通りマッサージをしてくれた後でアタシに言った。
「あなた、少し、心臓が悪いね」
どきりとした。
「どうしてわかるの?」
それは家族以外は誰も知らないことだった。
日常生活に何か支障があるわけでも、運動ができないわけでもないし、病院に定期的に通っているわけでもなかった。
別に人に話すようなことでもなかったから誰にも話したことなんてなかったけれど、だからきっとメイも知らないだろうけれど、アタシは生まれつき心臓に少し欠陥がある。
「わたし、いろんな人の体見てきた。触ればどこが悪いかすぐにわかる」
けれど、アタシの心臓はフツーと少しだけ違っていて、不完全な作りをしていた。
生まれつき弱く出来ていた。
「右手の人指し指に金の指輪をするといいよ」
と、その人は言った。
「本当?」
その人は、本当、と言った。
「きっとよくなる」
だからと言って、その人はそれから悪徳商法のように金の指輪をアタシに売りつけたりはしなかった。
善意でアタシにそう教えてくれていた。
だからアタシはその言葉を信じることにした。
「わかった。ありがとう。
今はまだアタシこどもだし、指輪なんて買えないけど、いつか買えるようになったら言う通りにしてみるね」
アタシがそう言うと、その人はにっこりと笑った。
すると、隣でアタシたちの話を聞いていたハーちゃんが、
「じゃあ、麻衣にこれあげる」
右手の薬指にしていた金の指輪をはずすと、アタシにくれた。
何万円もするような高価な指輪だった。
それはハーちゃんが大学を卒業して働きはじめて、初任給で自分へのご褒美に買った宝物なのだと聞いていた。
「こんな高価なものもらえないよ」
アタシは言った。
「じゃあ、貸してあげる。
いつか自分で買えるようになったら返してくれたらいいよ」
ハーちゃんはそう言って笑った。
ハーちゃんの薬指につけられていたその指輪は、アタシの人指し指にぴったりの大きさだった。
「ありがとう。大切にするね」
それ以来その金の指輪はアタシの右手の人指し指にある。
アタシのお守りのようなものだった。
アタシはこの夏休みに、大切にしていたいろんなものを失ったけれど、指輪はまだアタシの人指し指にあった。
どうしてアタシがそんなことを思い出していたかと言えば、今日も泊まってることにしてとメールしたハーちゃんから、
「今度キルフェボンのタルトをおごるべし」
と、絵文字つきのメールがさっき届いたばかりだから、というわけじゃなくて、シャワーのある漫画喫茶の個室で、もう小一時間も十和がアタシの手をとって、まじまじとアタシの指や爪を見つめていたからだった。
一応マニキュアは塗ってあったけれど、もう何日もお手入れしていなくて、剥がれかけたところをじっと見つめられると恥ずかしかった。
「麻衣の爪、細長くてきれいだね」
だけど十和はアタシにそう言った。
「そうかな」
脚が長いとか、痩せてるとかみたいに他人と比べたりしないから、アタシは自分の爪の形しか知らなかったけれど、十和にそう言われるとなぜだかとてもうれしかった。
流行りの少女漫画をふたりで交互に読んでいた途中で、十和がなぜアタシの爪にそんなに興味を示したのかはよくわからなかったけれど、
「こんな風に女の子の手を見るのははじめて。いつも男ばかり相手にしてるから」
まじまじとこどものようにアタシの爪をいろんな角度から見る十和がすごくかわいらしくて、アタシは十和の手を握り返してあげたくなった。
ピアニストみたいに細く長い指をした彼の手を優しく両手で包んであげたくなった。
「今月13日、歌手として俳優として活躍するタレント、sinさんが横浜市内のホテルで何者かに刺された強盗殺人未遂事件で、神奈川県警捜査本部は――」
今日、街の電気屋さんを通りかかったとき、まだ我が家には一台もない地デジのテレビが、そんなニュースを流していた。
アタシの手をひいて歩いていた十和が足を止めて、そのニュースを食い入るように見つめていた。
「一命をとりとめたものの意識不明の重体の状態が続いていたsinさんが本日未明、意識をとりもどしました。
神奈川県警はsinさんの容態の回復を待って、事情を聞き捜査を進める方針を明らかにしました」
アタシと十和がはじめて会った日、彼を買ったのがそのsinというタレントだった。
「この人、刺されたんだ?」
アタシはその事件のことを知らなかった。
もう何日もテレビなんて見てなかったし、だから新聞なんて番組覧さえ見ていなかった。
「そうみたいだね」
十和はどこか上の空でそう言った。
「もうあんまり時間がないみたいだな」
十和は空を見上げながら寂しそうに言った。
何が? とアタシが尋ねると、
「もうすぐ夏が終わってしまうね。
ほら、雲があんなにも早く空を流れてる」
と十和は言った。
アタシも空を見上げた。
灰色の大きな雨雲が、雨を降らせたり降らせなかったり、この数日、アタシの好きなあの夏の大きな雲は空になかった。
アタシはそうだねと返した。
もうすぐ夏は終わってしまう。
「明日さ。晴れたら、いっしょに海に行かないか?
麻衣といっしょに海が見たい。
はじめて見る海は麻衣といっしょがいい」
十和はアタシの手を握った。
アタシはその手を強く握り返した。
「アタシも十和といっしょに海が見たい」
アタシにとってこの夏は、あまりいい夏じゃなかった。
だから十和といっしょに海を見たら、それはきっと素敵な思い出になると思った。
アタシたちはその日も公園の遊具で寝た。
遠足の前の夜のこどもみたいにアタシたちはなかなか寝つけなくて、そして朝早くに目を覚ました。
どしゃぶりの雨を見ながら、
「海はまた今度だね」
と、十和は言った。
「そうだね、また今度行こうね」
アタシはそんな風に笑ったけれど、その今度は二度とアタシたちには訪れないような気がしていた。
三日目の朝、アタシと十和は秋葉原行きの電車に揺られていた。
アタシたちは手を繋いで並んで座って、十和は頭をアタシの肩にもたれかけて、寝不足のせいでうつらうつらしていた。
アタシは立場が何だか逆だなと思って、それがおかしくて笑いをこらえるのに必死だった。
同じ車両に乗っていた人たちもアタシと同じ気持ちだったらしく、そんなアタシたちの姿を微笑ましく見ているような気がした。
もう二日もふたりきりで夜を明かしたのに、十和はアタシの体に触れてはこなかった。
ただ優しくキスをしてくれるだけだった。
彼は男の人に体を売ってはいるけれど、だからといってゲイじゃなかった。
「好きだよ、女の子は」
彼はフツーの男の子だった。
だけど彼はアタシを抱かない。
メイからたった5日間だけもらえた本当の意味でのアタシの夏休みは今日がもう折り返しの日だった。
夏休みはまだ続くけれど、アタシの夏休みは今日を除いたらあと2日しかなかった。
だからもう十和とは海には行けないなと思った。
男の人にはもう抱かれたくないという気持ちと、十和に抱かれたいという気持ちの間でアタシは揺れていた。
凛からメールが届いたのは、十時すぎのことで、アタシたちがちょうどガストでモーニングを食べ終えた頃のことだった。
「これから秋葉原にお兄ちゃんと遊びに行くんだけど、麻衣ちゃんもどう?」
アタシは凛からのメールを開いたケータイの画面を十和に見せた。
いっしょにどう? という意味のつもりだった。
凛はアタシの唯一の友達だ。
だから凛には十和を紹介しておきたいなと思った。
「この子だろ、兄貴のこども妊娠したっていうの」
だけど十和はそう言った。
「この子は産みたがってるけど、麻衣はこの子のために体売らされて中絶費用稼がされてたんだろ。あのメイとかいう子にさ」
十和は眉をしかめてそう言った。
「中絶のお金、メイって子が管理してるんだよな。
いくらかかるか知らないけど、そろそろそれくらいのお金なら貯まってるんじゃないのか?」
そう言われて、ケータイの電卓機能を使って、アタシはそのときようやく、とっくに凛の中絶費用が貯まっていることに気付いた。
ウリを再開してから、アタシは緑南高校の教師たちに毎日かわるがわる一週間抱かれたし、その後にはメイに裸の写メや動画をとられたりもしたけれど、最初の3.4人でアタシはもうそれくらいのお金は稼いでいた。
どうして気付かなかったんだろう。
メイはとっくに気付いていたはずで、その上で美嘉の復讐のつもりだったのかどうかはわからないけれど、アタシにあんな恥ずかしい思いをさせたのだ。
そんなことを考えていて、メイが美嘉の復讐なんて考えるわけがないと思った。
あの子はたぶん、美嘉にも凛にもアタシにも興味がない。
凛から産婦人科にかかって妊娠しているかどうか検査を受けたという話は聞いていなかったから、たぶんまだ凛は検査をしていない。
だけどこの10日前、丸2ヶ月生理が来ていなかった凛から、その後生理が来たという連絡もなかった。
だから妊娠しているのは間違いなかった。
妊娠したのは早ければ2ヶ月前になるんだろうけれど、確か妊娠9週までの中絶にかかる費用が11万5500円、10週から11週までが12万6000円だった。
たぶんぎりぎり9週までにあてばまるか、もしかしたらその次の段階に入ってしまっているかもしれなかったけれど、第二段階までの中絶費用をアタシはもうとっくに稼いでいた。
ただこのまま放っておいて、凛のお腹が目立ち始めるような12週以降の段階に入ってしまうと、中絶にかかる費用は44万1000円になってしまう。
アタシは中絶にかかる費用を簡単に十和に説明した。
「最後のは、ぼくが欲しい時計と同じ値段だね」
十和が言った。
本当だった。
十和の欲しがっている、オメガSEAマスターという時計とそれは同じ値段だった。
不思議な偶然があるものだなとアタシは思った。
「ぼくにはよくわからないけど、麻衣は中絶させた方がいいって思ってるんだろ」
アタシは、うんとうなづいた。
「だったら一日でも早く説得した方がいい。父親がいっしょにいるなら尚更だ」
十和は言った。
「付き合うよ、ぼくも秋葉原」
アタシたちが秋葉原に着いたのは、11時すぎのことだった。
秋葉原駅の改札のすぐそばには凛とツムギがいて、そしてそこにはメイがいた。
アタシと十和に最初に気付いたのはメイだった。
アタシたちに手を振るメイは、レッドストリングスの秋物の新作で帽子から靴まで全身を包んでいた。
お店に飾られているマネキンがそのまま街に出てきたような、そんな風に見えた。
レッドストリングスは、アタシが好きなサマークラウドや凛の好きなif you...と同じハイティーンの女の子向けのブランドだけれど、いつだったか街で出会った結衣っていう女の子が着ていたハニードロップと同じくらい高価なブランドだった。
全身をレッドストリングスで身を包むと、それぞれのアイテムに入った赤い刺繍が繋がってひとつの絵になるように、ひとつひとつのアイテムはデザインされていた。
雑誌やお店の外でその絵を見るのはアタシははじめてだった。
「どうしたの? その服」
アタシは、秋葉原駅にいるはずのない彼女が、凛やツムギといっしょにそこにいたことにはもう驚かなかった。
凛もツムギも十和もとても驚いていて、凛はおびえたような顔をしていた。
もうあの硲とかいう探偵はアタシを尾行してはいなかったけれど、メイにアタシの行動が把握されていることは、アタシにとって当たり前のことのように感じていた。
だから凛に優しい言葉をかけるよりも、アタシはメイにそんな言葉を投げかけたくなってしまった。
「かわいいでしょ。まだ早いかなって思ったんだけど、夏が終わるの待ってられなくて着てきちゃった」
そういうこと聞いたわけじゃなかった。
全身で20万円はかかる、そんなお金をどうしたのか、アタシは知りたかった。
考えたくはなかったけど、ひょっとしたらそのお金はアタシが凛の中絶費用のために体を売って集めたお金かもしれない、一度そんな風に考えてしまうと、アタシにはそれを振り払うことはできなかった。
「ひょっとしてお金のこと? 話してもいいけど、凛に知られちゃってもいいの?」
そして、アタシが考えていた通りの答えが返ってきた。
アタシは首を横に振った。
「凛には言わないで。お願いだから」
アタシはもう諦めていた。
「麻衣ちゃん、何のこと?」
凛は何が何だかわからないといった顔で聞いた。
「凛には関係ないことだよ」
そんな言葉を返したアタシは少し凛に冷たかったかもしれなかった。
「あ、うん、ごめんなさい……」
凛はおびえたような顔を一瞬だけアタシにも向けて、うつむいてしまった。
メイははじめから、凛のことなんて考えてはいなかったのだ。
「何しに来たの?」
答えのわかりきっていた質問をアタシはメイにぶつけた。
メイはただ、アタシにウリを続けさせるためだけに、凛の妊娠を利用しただけだったのだ。
だからアタシの目の前に今、アタシが体を売って集めたお金で買った服を着て、姿を現したのだ。
「凛、この子ね」
「メイ! 言わないでって言ったでしょう!」
アタシは声を荒げた。
駅構内を行き交う人たちが一斉にアタシたちに顔を向けて、そして怪訝そうな表情を浮かべて足早に去っていった。
「あんた、美嘉があんなことになって、麻衣がウリから解放されたって思ってるんでしょ」
メイはアタシの言葉など耳に入っていなかった。
「ど、どういう意味?」
凛の顔が一瞬で駅の外の空のように曇った。
「やめて、メイ、言わないで、お願いだから」
アタシはメイの肩を揺さぶりながら懇願した。
「この子、あんたの中絶費用稼ぐために、あれからもずっと体売ってたんだよ」
メイからその言葉が発せられた瞬間、凛の顔が途端に青ざめた。
「嘘……。だって麻衣ちゃん、わたしが赤ちゃん産みたいって言ったとき、凛がそう決めたならそれが一番いいよって……」
青ざめた顔をしていたのは凛だけじゃなかった。
凛の肩にツムギは手を置いた。
「中絶ってどういうことだよ。何の話だ。
凛、お前妊娠してるのか?」
凛がたぶんツムギに妊娠したことを話していないだろうということはわかっていた。
だからアタシと十和は今日、そのことを凛の許可を得てツムギに話し、赤ちゃんを産みたがっている凛をツムギと三人で説得するつもりだった。
こんな風に、凛の妊娠をツムギに知らせるつもりじゃなかった。
「最悪のパターンだな」
アタシの隣で、十和が言った。
全部メイのせいだった。
「まさか俺の子じゃないよな?」
そして、ツムギは最悪の言葉を口にした。
ツムギの言葉に、たぶんメイを除いたアタシたちは全員、耳を疑った。
凛は大きな両の瞳に涙をためていた。
ツムギの言葉が信じられなかったのはアタシも同じだった。
何を言ってるんだろうと思った。
だけどそのときアタシは気が動転してしまっていて何も言えなかった。
「俺の子じゃないよなって何だよ」
そんなアタシや凛のかわりに、十和がツムギの襟首を掴んだ。
「誰だよ、お前」
ツムギはこんなときだったけれど、当然の疑問を口にした。
アタシはまだ十和を凛たちに紹介していなかった。
「人殺しよ」
と、メイが言った。
「ね? 水島、十和くん、だっけ」
メイの言葉の意味をアタシはわかりかねたけれど、彼女は十和の名前を知っていた。
たぶんあの硲とかいう探偵か、別の探偵に調べさせたのだろうと思った。
メイの言葉に、十和は何も返さなかった。
ただ、
「麻衣の男だよ」
とだけツムギに自己紹介した。
「だから、この子が中学生のときから、あんたがこの子に、自分の妹に、手を出してたことくらい知ってるんだよ」
十和は言った。
「麻衣ちゃんはおしゃべりだなぁ」
ツムギは笑いながらアタシを見て言った。
「俺が凛に手を出した、っていう表現にはちょっと語弊があるな」
俺たちはお互い合意の上だもんな、とツムギはもう一度だけ笑って凛に話しかけた。
「お前から誘ってきたこともあるもんな」
だけどその目は笑ってはいなかった。
「ふざけるなよ。俺の子じゃないよなって何だって聞いてんだよ」
十和はツムギの襟首を掴んだのとは反対の手を肌の色が変わってしまうくらいに固く握りしめて拳を作っていた。
ツムギの返答次第では、彼はきっとツムギを殴るだろうと思った。
「さすが殺人犯は喧嘩っ早いね」
メイが言った。
「ねー、場所変えない? なんかさっきからあたしたち、めちゃくちゃ注目されてるみたいなんだけど」
メイがそう言って、アタシたちは我にかえった。
いつの間にかアタシたちの周りは、バンダナにリュックサックのA―BOYたちにとりかこまれていた。
十和がツムギの襟首をつかんでいた手を離して、アタシたちは少しだけ頭を冷やした。
「俺は帰るよ、もう。襟首を掴まれたのなんて生まれてはじめてだ。気分が悪い」
ツムギはそう言って、踵を返すと、駅の改札に消えていった。
「待てよ、おい」
十和はその背中を追い掛けていった。
「絶対あいつ連れ戻してくるから。麻衣は場所を変えるならどこに変えたかメールして。すぐに連れて帰る」
十和はそう言って改札の向こうに消えた。
その場所に、凛とメイとアタシ、三人だけが残された。
「お兄ちゃんね、きっと戻ってこないよ」
アタシたちは駅を出て、線路ぞいの人気のないガード下に場所を移すことにした。
「メイちゃん、どうしてわたしが妊娠してること知ってるの?」
凛はガードレールに腰を下ろしながら言った。
「友達だからだよ」
いつものようにメイは言った。
だけどそんな言葉で納得なんてできるわけがなかった。
「麻衣ちゃんが話したんじゃないよね?」
凛はアタシの顔を涙目で覗き込んだ。
少し、疑心暗鬼になっていた。
アタシしか知らないはずのことをメイが知っていたのだ。
無理もなかった。
「探偵、雇ってたの」
アタシはぽつり、ぽつりと答えた。
「探偵?」
オウム返しに凛がアタシに尋ねた。
「メイは、夏休みが始まる少し前から、探偵を雇ってアタシを尾行させてたの。
アタシがそのことに気付いたのはついこの間のことだったんだけど。
美嘉をそそのかしてアタシにウリをさせてたのもメイだったんだ。
だからメイはアタシのことも、凛のことも、何でもお見通しなんだ。
そうだよね、メイ?」
メイはアタシの問いに答える気なんてないらしく、そっぽを向いていた。
「どうしてそんなこと……」
だけど凛のそんな問いには、
「おもしろかったから」
メイは答えた。
「何にもおもしろくなんてないよ」
凛は泣いていた。
「何にもおもしろくないよ! 人の人生めちゃくちゃにして、一体何が楽しいの?」
泣きじゃくる凛を、アタシとメイはただ見ていた。
アタシは凛と同じ気持ちだったけれど、メイはきっと泣きじゃくる凛の姿さえも楽しんでいるのだ。
メイが怖かった。
「さっき、お兄ちゃんは戻ってこないって、凛言ったよね。あれ、どういう意味?」
凛のお兄さん、今日の主役だから帰ってきてくれないとあたし困るんだけど、とメイは言った。
「たぶんkikiさんのところに行っちゃったんだと思う」
kikiという名前の女の子のことをアタシはそのときはじめて聞いた。
「お兄ちゃんね、彼女がいるんだ」
凛はそう言った。
ツムギのその彼女がkikiというあだ名なのだそうだ。
「わたしは物心ついたときからずっとお兄ちゃんが好きだったんだ。
だけどお兄ちゃんのことが好きだっていうのはフツーじゃないみたいだし、わたしがいくらお兄ちゃんのことが好きでも、お兄ちゃんがわたしのこと好きとは限らなかったから、ずっとお兄ちゃんに言えなくて。
中学のときにね、お兄ちゃんに言われたんだ。
高校で彼女が出来たって。kikiっていう名前のすごくかわいい子だって。
お兄ちゃん、kikiさんの写真を見せてくれたの。
本当にかわいい女の子だった。
わたしなんかじゃ一生かなわないと思ったんだ。
わたし、そのときすごくショックで、お兄ちゃんを他の女の子にとられちゃうくらいならって思ったの。
お兄ちゃんの前で裸になったの。
泣きながら抱いてってお願いしたんだ」
凛は、涙に濡れた声でそう話した。
「そしたら、お兄ちゃん、わたしを抱いてくれたの。
わたし、すごくうれしかった。
はじめてのときはすごく痛かったけど、そんなの忘れちゃうくらいにすごく幸せな気持ちでいっぱいになって、お兄ちゃんがわたしの中に入ってきたとき、うれしくていっぱい泣いちゃった。
お兄ちゃんにやっとわたしの気持ちを伝えることができたって、わたしうれしくてしかたがなかったの。
お兄ちゃんもわたしのこと好きでいてくれたんだって、そんな風に思えてうれしくてしかたなかったの。
だけど、お兄ちゃんは、kikiさんとは別れてくれなかった。
わたしを抱いてくれたのは、kikiさんとエッチをする、kikiさんとするときに失敗しないように、その予行演習だったんだって、後から気付いたんだ。
わたしはお兄ちゃんの一番になりたかったけど、なれないみたいだった。
だけどそれでもお兄ちゃんに求められるのが嬉しくて、わたしお兄ちゃんといっぱいいっぱいエッチしたんだ。
お兄ちゃんが、たぶんkikiさんとはできないこと、生でさせてあげたりとか中出しさせてあげたりとか、お尻の穴だって、お兄ちゃんが望むことは、わたし何でもしてあげた。
そしたらいつか、お兄ちゃんがわたしだけを見てくれる気がしてたんだ。
でも、なかなかお兄ちゃんはわたしだけを見てくれなかった。
だからね、わたし、お兄ちゃんの赤ちゃんができて、すっごくすっごくうれしかったの。
これでやっとお兄ちゃんがわたしだけを見てくれると思ったんだ。
だけど違ってた。
お兄ちゃん、わたしに赤ちゃんが出来ても、わたしを置いてkikiさんのところに行っちゃうの。
やっぱりkikiさんが一番なんだ」
アタシは、凛がそんな悩みを抱えていたことに気付いてあげられなかった自分に、絶望していた。
アタシがウリをやめると言えば次は凛がさせられるかもしれない、凛がツムギのこどもを生もうとしていることを知って、それが間違いだとメイに教えられて、アタシは凛のためにもう一度ウリをして、中絶にかかる費用を集めようと思った。
アタシはウリがいけないことだと知っていたのに、凛のためだからと、凛のせいにして、いけないことをしている自分をずっと正当化していただけだった。
アタシも凛の友達なんかじゃなかった。
凛を利用していただけだった。
そのことに気付くと、胸が、心が、痛かった。
「お兄ちゃんね、たぶん、妹のわたしと近親相姦して、人としての禁忌に触れてみたかっただけなんだ。
そういうことしてる自分が、自分は他の人たちとは違うんだって、優越感を得たかっただけなの。
アイコラ職人やってることだって、美嘉ちゃんに仕返しするためにいろんなこと頼んだときだって、お兄ちゃんはそういうフツーの人がしないようなことをして、楽しんでるだけだって、わたしわかってたんだ。
わたしや麻衣ちゃんのこと、親身になって考えてくれてるわけじゃないってことわかってた。
わかってたはずなのに、わたしが妊娠してることを知ったら、お兄ちゃんがどういう行動に出るかくらい、わかってたのに、その通りになると、やっぱりつらいね。
覚悟してたけど、やっぱりつらいね」
凛は大粒の涙をこぼしてそう言った。
アタシは凛にかけてあげる言葉が見付からなかった。
「ねぇ、凛」
メイは凛にかける言葉を見付けていた。
「美嘉がね、前に言ってたこと、覚えてる?
もし麻衣が妊娠しちゃったらって話をしてたときのこと」
メイの言葉に、凛は涙を溢しながら、うんと答えた。
「安定期に入るまでは流産しやすいから、麻衣が妊娠してもお客さんをとって、セックスさせて流産もできたら一石二鳥だって、あの子言ってたよね」
凛はもう一度、うん、とうなづいた。
「あたしね、もっと簡単な方法知ってるんだ。
凛さ、もう早く楽になりたいよね? こんな苦しいの、もういやだよね?」
メイの言葉を、凛はただうなづいて聞いていた。
「あたしたち友達だもんね」
そして、メイは言った。
「お金なんかいらないの。
今、凛を楽にしてあげるからね」
その瞬間、メイの脚が高く上がった。
次の瞬間、鈍い音がガード下に響いて、ヒールを履いたメイの足が、凛のお腹にめりこんでいた。
凛は何が起きたのかわからないという顔をしていた。
アタシにも何が起きているのかわからなかった。
凛のお腹に激痛が走ったのはそれからほんのすこし時間が過ぎてからのことだった。
ガード下のアスファルトの上に倒れこんでうめく凛のお腹にもう一度、メイのヒールがめりこんだ。
もう一度。
もう一度。
もう一度。
アタシはただその光景を見ていることしかできなかった。
八度目の鈍い音がガード下に響いたとき、道路をのたうちまわる凛のパンティが血で赤く染まっているのが見えた。
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