第1章5節

 その火曜日、僕は彼女に一緒に喫茶店にでも行かないかと誘われた。僕に断る理由もないので、土曜日の昼間に横浜駅で集合することにした。それから彼女は、金曜日は良かったね、また楽しみにしてるから、今度は君が用意するんだよ、と言って、それだけ話して僕達は解散した。


 次の土曜日、僕は彼女に誘われるまま桜木町の喫茶店に行った。駅から少し歩いたところにある歩道から一段下がった、雑居ビルの一階に小さく居を構える個人経営のカフェだ。店内の壁はレンガ調で、ところどころに絵画が飾ってある。絵画と言ってもカラフルな色の兎が草原で何匹かこちらを向いているだけだったりでこれといった特徴は無かったが、路地側のガラス張りの入口もあって少し明るめの雰囲気だった。店内に人は少なく、僕達は路地の景色が目に入る入口横の席に座って、コーヒーを注文した。二人ともブラックコーヒーだった。

「君さ、『羊』は読んだ?」

「一応」

「コーヒーが冷めるまで本を読んで、コーヒー代を払ってくれる人が来るのか実験したいんだけど」

「今の時代そんな人居るんですか?第一、コーヒー代を払うイコールその夜持っていかれるって事ですよ」

「わかってるよ」

「彼女が持っていかれるシチュエーションを本人の前で見せるんですか」

「だから君がコーヒー代を払えばいいんだよ」

「そういう魂胆でしたか。払いますよ、四百円くらい」

「ってことは持っていってくれるんだ」

「はあ?」

「そういう映画を二人で見に行くかこの実験をするか相当悩んだんだけど、流石にこっちでしょ」

「なんでその二択なんですか。飛鳥が痛いハルキストの塊になってがっかりですよ」

「そういう君だって私に初対面で『ノルウェイの森』の感想聞いてきたんだよ、十分ハルキストだって」

「僕はハルキストじゃないです。ハルキストは周囲の人間に春樹ワールドの生活をぶつけてくる人の事を言うんですよ。飛鳥みたいな」

「私達は傍から見たら村上春樹の小説で付き合い始めた最も痛いタイプのハルキスト二人組なのは事実だけどね」

「それはそうかもしれないですね」

 僕達はコーヒー一杯で昼からずっとその喫茶店に居続けた。『ノルウェイの森』とか『羊』とかの村上春樹について意見を交換しただけだったが、それだけで数時間を潰せた。もちろんコーヒーは冷め、夕方になって僕は二人分のコーヒー代を支払い、僕は彼女を持っていかずに帰った。僕が何かを言う前に、彼女が今日はいいから、と断ったからだった。結局僕達はそのまま桜木町の駅に戻った。

 桜木町のホームで、彼女はこれが向かいのホームだね、と言った。山崎まさよしですか、と聞くと、うん、と答えた。

 横浜駅で僕達は解散して、彼女は地下鉄に、僕はJRに乗った。いつもの緑と橙の普通列車が、僕を迎えてくれた。

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