第1章4節
水曜日、僕は彼女に電話して、図書委員の選本に来るかを聞いた。彼女は、折角の初めての電話が事務連絡なのはさあ、と少し落ち込んだが、行くよ、と言った。
金曜日、選本は難航した。選本には僕と彼女、あと同級生二人以外に誰も来なかった。司書は書類作業で忙しいからと職員室に逃げ、仕方なく僕達は四人で本を選んだ。しかし同級生の二人は途中で自分のクラスの準備があるからと言ってまた逃げ、一九時になっても選本は終わらなかった。飛鳥はもう泊まろうよと提案し、僕は司書にダメ元で許可を取りに行った。司書はあっさりと認め、僕は落胆した。まさか本当に泊まることになるとは思わなかったからだ。法律とか規定とかどうなんですか、と僕が聞くと、図書室は治外法権だから、と司書は適当なことを言った。
二二時になって、やっと選本が終わった。僕と飛鳥は七階の防災倉庫から布団を出し、図書室で寝ることにした。
僕が読書席の背もたれに身体を倒して天井を眺めていると、飛鳥は急に僕の顔の横をがっしりと掴んで、僕の顔を上から覗いた。
「今日のさ、この雰囲気でさ、やることは決まってると思わない?なのに君は何もしない。がっかりだよ」
「だって疲れてるんです。第一、できちゃったなんちゃらが嫌だって言ったのは飛鳥じゃないですか」
僕がそう言うと、彼女は姿勢を戻して僕から手を離した。僕が立ち上がると、彼女はわざとらしくふふん、と言いながらポケットから二枚の小さな四角い袋を出した。
「用意しました」彼女は自慢げに言った。
「はあ」
「大体さあ、こういうのは女の子の仕事じゃないと思うんだけど」
「そうですね」
「なんで私が持ってるわけ?」
「知りませんよ。飛鳥の趣味でしょ」
「そうやって。期待してるくせにさ」
「はいはい」
僕はもう何もかも諦め、彼女を抱き締めた。彼女は少し驚き、やるじゃん、と笑った。彼女の体温が、直に僕に伝わった。
「シャワー浴びたいんですけど」僕が言った。
「そんなのあるわけ無いじゃん。諦めろ」
僕ははあ、とため息をついて、彼女の髪をなでて、唇を合わせた。身長は僕のほうが彼女より高いから、彼女は少し背伸びをした。
九月二一日、僕は初めて彼女を抱いた。
文化祭当日の早朝、彼女が帰ると僕は東京行普通列車に乗り、川崎で降りた。僕は電車の中で多くのことを思案したが、考えれば考えるほど混乱は深まった。僕は川崎駅に降りてから少しの時間、少しと言うには長いかもしれない時間、ホームに留まった。いくつもの線路には、ひっきりなしに電車がやってくる。電車は到着すると数百人を吐き出し、同じくらいの数を飲み込む。東京行、熱海行、大船行、大宮行、すべての電車は計画通りに動いていて、人々もその計画に沿って動いている。この事実は、僕達が何を考えたところで変わらない。世界は回り続けている、当然の事を知るには十分すぎた。僕はこれを確認すると、不正乗車を疑われないようにそそくさと改札を出て、家でシャワーを浴び着替え諸々を済ませて、また登校した。
土日の文化祭が終わり、代休を挟んだ次の火曜に、彼女は図書室には来なかった。水曜日、代わりに彼女の友達が来て、先週借りた本を返しに来た。早いですねと僕が聞くと、彼女は僕に私は速読するほうなので、と教えてくれた。
金曜日、僕は隣の席の湊に、着替え方がエロいと言われた。僕は夏季の間、体育に遅れないようにポロシャツの下には体操着を、ズボンの下には短パンをそのまま着て過ごしている。だから、ポロシャツとズボンを脱げば着替えは終わる。中学の頃からの習慣なので僕は気にしていなかったが、同じ中学出身の同級生がいないこの高校では異質だったらしい。確かに、こうやって文章にすると変な習慣だなとは僕も思う。当時は何も考えていなかったが、僕はいつも授業が終わると教室で唐突にズボンのチャックを下ろして脱ぐのだから、湊がそう呟くのもわからなくもない。変なだけでエロくはないと思うが。
湊とその周りについてもう少し話すと、彼女はどこにでもよくいるそれなりに成績の良い、部活に生きる高校生だった。バスケットボールだったかハンドボールだったかを中学時代にやっていたようで、彼女曰く顧問が怖くて泣きながらやっていたそうだが、高校に入ってからはソフトボール部に入った。バスケットボール部もハンドボール部もこの高校にはあったのだが、彼女は何故かソフトボールを始めた。ソフトボールの腕もあったようで、彼女が在籍していた三年間のソフトボール部の出場実績は良かった。時々、授業中に教師の目を盗んでノートの片隅に描いたとんでもなく下手な絵を見せてくれたが、本気になって描くと、美術選択者にしても優秀なスケッチが描けた。僕と湊は教室の最後尾の窓側に近いところに席があって、僕と窓の間には若林という、弓道部で、湊と同じようにそれなりに成績の良い友人がいた。湊が中学で図書委員長をやっていたからという理由だけで、仲の良かった僕と彼女と彼の三人は共に図書委員になって、結局卒業まで僕が受付担当、二人が展示担当をやった。僕が一番成績が悪かったから、僕の苦手な数学などは二人がかりで色々教えてくれた。三人はずっと同じクラスで、今考えても、僕達はそれなりに良い友達同士だったと思う。他にも、ミサトというまるで女子のような名前の友人も居て、僕はその三人と特に仲良くしていた。ミサトなんかは、エヴァのお陰で周りから、先輩からもさん付けで呼ばれていたことをよく覚えている。しかし当の本人はミサトさんよりシンジくんの真似のほうが上手かった。
その日は事故か何かのせいでいつもの東京行の列車が運休していて、各駅停車に乗って時間をかけて川崎へ帰った。青帯のステンレス車の中は異様なほどの混雑だったが、それ以外に何もなく、こうして、一週間は終わった。
日曜日の午後に僕は初めて飛鳥に電話をかけた。彼女は、土曜日にあの光の差したビルを見に行ったと言った。
「そんな、わざわざどうして」
「気になったからだよ。定期があるからお金はかからないしね」
それでどうなったんですか、と聞くと、彼女は何もなかった、と答えた。
「まるで最後に会ったあとの僕ですね」
「なにそれ、へんなの」
ちょっと上手く言ったつもりだったが、それは伝わらなかった。
僕はそれから、飛鳥の友達が本を返しに来たことと、僕の友達のことを話した。彼女は相槌を打ちながら、静かに僕の話を聞いた。君もそうだけど君の友達も面白いね、と彼女は感想を言った。それから、彼女は次の火曜は行くよ、今週はごめんね、と言って電話を終えた。
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