第1章3節

 民間人を意図的に狙った同時多発テロ攻撃は、アメリカだけでなく日本までも騒がせた。学校でもニュースを見たか、サリンの次はアメリカか、などと、この話題で持ち切りだった。でも、そんなことは僕に関係がなかった。大体、アメリカでそんなことが起きても世界は回っているし、東京発沼津行の普通列車は定時に走っている。僕にはそれで良かった。川崎駅に到着した普通列車は車体を橙と緑で塗りつぶされた古い型の電車だったが、混雑する東京行と違い、僕の通学ルートは通勤ラッシュからは逆方向なので比較的空いていて、運が良ければ進行方向に向いた座席にも座れた。煩わしいモーターの音は不愉快だが、周囲と自分を隔絶してくれる唯一の音でもあった。横浜までの一〇分という時間は長くもあり短くもあり、青帯の京浜東北線を抜かしながら京急電車とレースするだけの代わり映えしない退屈な車窓を眺めながら、僕は昨日の彼女との会話を振り返った。


 水曜日の三限は世界史だった。あの新任で高身長の高い僕達の担任は、授業の大半をドラえもんの話に費やした。ドラえもんの他にもロボットアニメだったり、SF好きの彼は僕と通じるところがあったので、授業もそれなりに楽しめた。三限を終えると、僕はいつものように昼食を済ませ、七階の図書室へ向かった。

 その日、彼女は友達を連れてきた。彼女の友達は、彼女と同じくらいの身長でメガネをかけていて、どこか理性的な印象を受けた。そんな彼女の友達は、どこかの教授が書いた語学についての少し胡散臭い本を選び、僕にこれを借りますと言ってきた。はい、了解しましたと言いながら僕は所定の手続きを進め、裏表紙の裏のポケットに入っている貸出カードにスタンプを押した。彼女の友達が満足して本を丁重に抱きしめながら図書室を出るとき、飛鳥は一瞬僕に目を合わせてウインクした。僕は、彼女のそういった小さな仕草が好きだった。彼女が友達を追いかけて出ていったのは、昼休みの終わりを知らせるチャイムが鳴ったのと同じタイミングだった。ああ、これからまた退屈な一週間が続くのか。僕はまた少し憂鬱になった。

 それからの一週間は、本当に何も無かった。国際情勢が急激な変動を見せる中、僕は、飛鳥に出会う前のような退屈な学生生活を続けた。一週間の退屈な学生生活は僕に、僕がもう飛鳥の影響を無視できなくなってしまったことをいやがうえにも思い知らさせた。彼女に電話をすることも考えたが、彼女はケータイ嫌いだと言っていたから、火曜日には会えると自分に言い聞かせて電話はしなかった。


 次に彼女に会ったのは、予定通り火曜日の放課後だった。僕は教室の掃除で少し遅れて図書室に行ったが、彼女はいつもの席で待ってくれていた。曇りで、富士山は見えなかった。彼女は頬杖をつきながら、そんな窓の外を眺めていた。

「遅いよ」

「すみません、掃除で」

「そっか」

飛鳥はあまり気にしているようには見えなかった。それ以上に気になっていることがある様子だった。

「君さあ。今週一つも電話くれなかったよね。どういうこと?」

僕は困惑しながら弁明した。

「飛鳥がケータイが好きじゃない、って言ったんじゃないですか。だから僕は電話しなかったんですよ」

「それとこれとは別でしょ、彼女に電話の一本もくれないなんて、そこらへんの女の子は落ち込んで学校来なくなっちゃうよ」

「はあ。でも、僕だって電話したかったですよ。一週間会わないだけで電話したくなりました」

「そう?」

一転、彼女から怒りの表情が消えた。僕は安心した。そして、彼女がまた話を切り出した。

「まあそんなことを話に来たんじゃないよ。水曜日のさ、帰りにわたしがウインクしたときの君の顔。忘れられないね」

「そんな顔してました?」

「なんかね、ちょっと驚いてからへらーって笑顔になったの。可愛いとこあんじゃん、って思ったね」

「そんなこと」

「可愛かったよ」

彼女は誇るようにそう言った。

「やめてくださいよ」

「じゃあやめる」

「はあ」

「話が続かないね」

「一週間ぶりに会って気持ちが先行してるんですよ」

「そういう君は冷静だね」

「冷静を装ってるだけです」

「そっか」

 それから僕達は自分の一週間の学校生活を互いに交換した。飛鳥はメガネをかけた彼女の友達のことを詳しく話してくれた。彼女は美術部で、かなり下手らしい。頭が良さそうに見えてそこまで良くなくて、追試を受けるために部活を休むこともしばしばあるとかそういう話をした。話を一通り終えると、雲間から光線が射し込んだ。光線はなんの変哲もないビルの屋上だけを照らしていて、僕達はそれに見惚れ続けた。

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