第1章2節
水曜日。図書室は普段と同じ雰囲気だった。入口の外に無造作に置いてある座席は食事を摂る三年生で満席だったが、いざ入るとそこには数人が参考書を片手に勉強しているくらいで、一人二人はノートを枕に眠りについていた。僕は受付カウンターに入って新型のパソコンを起動すると、持ってきた文庫本を開き付箋を探した。
数ページ読み進めたころ、誰かが受付に来ることに気がついた。僕は焦って付箋を挟み、立ち上がって、はい受付です、と言った。そこに居たのは、飛鳥だった。
「ああ、飛鳥さん。こんにちは」
「飛鳥ね。呼び捨てにしてって言ったじゃん。教室に居ないからどこ行ったのかと思ったけど、そういえば君図書委員だったね」
「はあ」
「私達さ、次にいつ会おうかとも言ってなかったじゃん。一応連絡先はあげたけど、私はケータイそんなに好きじゃないし。だいいち、君の連絡先を知らないんだから、送れないじゃんね」
「だから僕の連絡先を渡せと」
「違うよ。私は君の名前も知らないし、知っても無視する。なのに連絡先だけ持ってるなんて不自然じゃん?」
「それはそうですね」
「だから、私達が一週間に一度だけ会う日を決めたいの。その日以外は基本会わないし、会っても話さない。それでいいでしょ」
「はあ」
僕が気の抜けた返事をすると後ろから、少し背の低い女子が小さな声で「あの」と言って僕に目を合わせた。僕は飛鳥にどいて、と言って彼女の身体を片手で横にずらし、すみません、と言って受付をした。受付が終わると、飛鳥は腕を組んで僕を見つめた。
「私に対しては荒いなあ、君。それでさ、いつが暇?水曜日はダメだよね、君が仕事してるんだもん」
「そうですね、小テストとか諸々を考えれば、火曜日なら暇ですけど」
「じゃあ火曜日。火曜日の放課後、ここでね」
「放課後ですか」
「うん。私は部活入ってないし。君もどうせそんなところでしょ」
「よくわかりますね」
「わかっちゃった」
彼女は少し笑った。
「本当に付き合うんですね、僕達」僕は小声でそう言った。
「当たり前じゃん。理由はもう言ったでしょ?」
「はあ」
「じゃあ、また火曜日、ここでね」
帰ろうとした飛鳥は、あ、そうだ、と言って戻ってきた。
「君さ、直子と緑、どっちが好き」
「難しい質問ですね」
「もしかして、レイコとか?ハツミはなしね」
「いやいや。緑が好きですよ。定番過ぎますけど」
「そっか。私も緑は好きだよ。ピース」
「ピース」
言われたとおり、僕は約束の日、約束の時間に図書室で待っていた。前日の雨のおかげで空気はとても澄んでいて、窓からは富士山がくっきりと見えた。放課後ともなると本を読みに来る生徒はおらず、勉強しに来た数人と司書以外誰もいなかった。司書は受付の時以外の大半は準備室に籠もっているので、僕は少し奥の方の、前と同じ席に座って文庫本を開いた。暇潰しの本は顔が良くて背の高い担任が世界史の授業中に熱く勧めてきたアーサー・C・クラークの『二〇〇一年宇宙の旅』で、まだ読み始めてすぐなのでフロイド博士が登場しやっと現代にやって来たくらいのものだった。
「や、ちゃんと居たね」
飛鳥はいつの間にか入ってきていた。
「どうも」
僕は本から彼女に視線を移動させながら挨拶した。
「あれ、ノルウェイの森じゃないの」
「違いますよ。ノルウェイの森ばっかり読んでたら頭がおかしくなります」
「そうかなあ」
彼女は首を傾げながら僕の向かいに座った。
「へえ、アーサー・C・クラークか。映画だけ見たけど、意味がわからなくて。君はSFも読むんだね」
「スター・ウォーズとか好きなので。というか、村上春樹が僕の中では異質なだけです」
「日本作品だと銀英伝とかか」
「ええ」
ふーん、と言いながら彼女は窓の外の富士山を眺めていた。飛鳥がこの話に興味が無いと思った僕は、話を景色のことに転換した。
「今日は富士山が綺麗ですね」
「なにそれ、夏目漱石のパクり?」
「自意識過剰ですよ。元々僕はここから見る富士山が好きなんです」
「私と同じくらい」彼女は僕の目を見てそう言った。
「僕は村上春樹じゃないんです。そんな曲がりくねった表現はしませんよ」
「そっか。でも私のこともそれなりに好きでしょ」
「なんでそう思うんです」
「視線を感じる」
そう言うと、飛鳥は下を向いた。僕は無意識のうちに、窓の外でも、彼女の顔ではないところを見ていた。
「ごめんなさい、無意識で」
「だから、少なくとも視覚的には君はここから眺める富士山と同じくらい私のことが好きってことだ。それとも好きなのは胸だけ?」
僕は何も言い返せず、ただ上を向くしかなかった。
「ごめんって、ちょっと意地悪したくなっただけ」
「悪いのは僕です。飛鳥さんが謝ることはないですよ」僕がそう言うと彼女は、飛鳥でいいのに、と小声で呟いた。
「飛鳥、って呼び捨てにすると僕がシンジくんにでもなった気になってなんだか変に感じるんですよね」
「いいじゃんそれでも」
「わかりましたよ、アスカ」
「それでいいよ。ちょっと変だけど」
飛鳥は少し笑顔になって、でさあ、と続けた。
「文化祭、あるじゃん」
「ありますね」
「私さ、文化祭あってもやる事ないんだよね。せいぜいクラスの出店くらいだけど、それも準備はそういうのが好きな人が全部やっちゃうし」
「はあ」
「図書委員は何かやるんでしょ」
「古本を安く売るくらいですね。選本作業が大変らしいので、僕はやることありますね」
「だからさ、そこに混ぜてよ」
「まあ別に、協力してくれるのは嬉しいですけど」
「じゃあ決定ね。選本はいつよ」
彼女は手帳を取り出して、九月のページを開いた。細長い紅色をしたシステムタイプの手帳で、たくさんの付箋が几帳面に貼ってあった。
「二一日です」
「前日?」飛鳥は少し驚いてみせた。
「ええ。直前まで借りる人が来ないか待つそうで。今年借りられた本は売らないって司書さんが」
「なるほどね」
「下手したら泊まりになるかもしれないです。選本に参加する委員は少なそうなので」
「でも君は参加するんだ」
「僕も暇なんですよ」
「ふうん」
無反応を装うような反応だったが、僕からは彼女が安心したように見えた。
飛鳥はわかりやすい。少なくとも僕は関わりはじめて四日目でそう思うに至ったのだから、多分他人が見てもそうなのだろう。
「何考えてんの」
「なんでも」
「あと、君に言い忘れていたことが一つあったね」
飛鳥は、急に真剣な顔をして僕の目を見た。僕がなんです、と聞くとそして少しため息をついて彼女は口を開いた。
「私達、あくまで一本の小説で出来た仲じゃない。直球に言えば、私達の子供が、私達が『ノルウェイの森』で繋がった関係だって知ったらどうする?あの極端にセクシャルな描写が多い村上春樹の小説で知り合ったってことを良い意味で捉えられると思う?もしだよ、もし私達の子供が『ノルウェイの森』を読んで、私達の関係を一度でも見直したらどうなる?とっかえひっかえに女の子を選んだり二股したり挙げ句の果てにはオバサンを抱くようなのが主人公の小説だよ?しかもそのワタナベ君の彼女はまだ付き合ってもいない男の子とそういう映画を見に行って一人で被虐妄想するような子よ。そんな男女の小説を好きな男女が自分を産んだなんて私が子供なら信じたくない。だけど、私達が万が一できちゃった結婚でもしたらそれが現実になるんだよ。だからね、私は大学までのあと一年半だけ君と付き合う。それから大学を卒業するまで君からは離れて、それでも私が君のことを気になっていたら私は君と結婚してあげるよ」
「随分と計画的ですね。僕と出会ってから付き合えって言うまでのあの短い間に結婚することまでも考えてたんですか」
彼女は、あのねえ、と言って先程とは打って変わった深いため息をついてからこう言った。
「私はね、『知らない子だと思った』とか言ったけどね、君のことは『ノルウェイの森』を知る前からそれなりに気になってたの。それこそ結婚を考えるくらいね。私は緑と違って自慰をするの。君のことを知ってからよ。誰でしてるとかは言わなくてもわかるよね。だから君との結婚の妄想くらい軽いものなの。わかる?」
「はあ」
「私の妄想の君と現実の君との唯一の違いはね、君が事あるごとに『はあ』でお茶を濁すことだよ。それ以外は私の想像通り」
想像通り、飛鳥は自慢げにそう言った。それから彼女は何かを思い出したように、私は明日忙しいからこれで、と言って席を立った。
「そうですか。じゃあ、また来週」僕が声をかけた。
「明日も図書室には来るよ。君とは話さないけど」
「はあ」
「じゃね」
彼女はそのまま、図書室を出ていってしまった。話に集中していたからか、僕のクラスの国語科教科担当が司書と雑談していたことなど気付かなかった。彼は神奈川の塾で数年間塾講師をしてからそれを辞めて教員になった、それなりに異色な教師で、比喩の授業で引用したのが『羊』なくらいにはハルキストだった。当の本人は隠れハルキストだと言っていたが、僕には彼が本当に隠れているつもりなのか疑問だった。
僕はというと飛鳥が行ってしまってはもうやることがないので、机の上に置いてあった宇宙の旅を鞄にしまい、そのまま帰宅した。電車に乗っている間に降り始めた雨は徐々に強さを増し、川崎に着いた頃には大雨になっていた。僕は鞄に常備している折りたたみ傘を開き、ロータリーを歩いた。雨はいつも僕を憂鬱にさせたが、今日のことはそれが雨のせいなのか、今日の飛鳥との話のせいなのかは自分でも分からなかった。帰ってからは宿題を少し進めただけで、ニュースなど見ずにそのまま寝ることにした。
世界貿易センターが崩落したその日、僕と、そして飛鳥は、一生覆せない約束をしてしまった。
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