セプテンバー

@G91

第1章1節


 七階。住宅地が広がる横浜の街並みにとって、七階というのは相当な高さだ。横浜駅に近いから、高層マンションやガスタンクなどの大きな建造物もあるが、西の方角には低層建築物以外の何もなく、空気が澄んでいれば富士山だって見える。横浜駅西口にとって、七階というのはそういう場所だ。

 しかし、七階の図書室を利用する生徒は少ない。階段の為だ。一度エレベーターが故障して教員が閉じ込められたとかで、生徒はエレベーターを使えない。だから、七階まで階段を登ることを強いられる。昼間の図書室に居るのは司書と、急な階段を登ってでも静かな場所を求める受験期の三学年くらいで、純粋に本が読みたくて来るのはクラスだとかなりの物好きに分類される。静かで眺めもいいし蔵書は充実している、良い場所だと思うのだが。

 僕はそんな高校で図書委員をやっていて、時々司書に変わって受付をしていた。貸し出されるのは職業や進路にまつわる色々、エッセイ、新書の小説などで、一旦文庫本になってしまった有名小説などが借りられることは少ない。おすすめの本として受付の横にポップがあるのは、映画化されて流行りになっている『ハリーポッター』とかだった。

 僕は卒業から時間が経ってからも時々、母校を訪問しては七階の図書室に足を運ぶ。司書はもう変わってしまったが、六階のガンダムのプラモデルや雑誌や鉄道関連のポスターとかがところ狭しと並んでいる冷房の効きの良い社会科準備室にはあの頃に新任だった高身長で顔の良い元担任がまだ居るし、長く通い続けたおかげで二階の職員室に居る今の面子ともそれなりに仲良くしている。少し古びた校舎は未だに趣味の悪い塗色で、幅の広い宝塚劇団のような階段も健在だ。正門の目の前にコンビニが出店してきたが、交差点の隅の和菓子屋は健在だし、今でも近くに来たときはおにぎりを買いによって昼食を摂る。横浜西口の相鉄線改札から少し歩いたところにある映画館はアクセスが良いにしては空いていて静かに観られる。昔よりも空いているかもしれなくて、僕はこの映画館がどうやって未だに経営を成り立たせているのかを支配人に聞きたいと長年思っている。

 僕の住んでいる赤羽から横浜までは、JRが直通列車を走らせている。上野で一旦降りて山手線で東京へ出ることも出来るが、一本で行けるなら少し時間がかかってもそちらのほうが良い。それに、川崎から横浜までの区間はいつでも僕に昔を思い出させ、苦しめる。図書室の、あの景色を見に行くことも僕には少し苦痛だ。でも、彼女とはじめて出会ったのが図書室なこともまた事実で、僕は彼女と出会い、そして失った、あの場所に取り憑かれ続けている。





 八月、ある女子が『ノルウェイの森』を持ってきて、借りられますか、と僕に尋ねた。ノルウェイの森を読むのか。僕は嬉しくなった。受付手続きを進めながら、僕はノルウェイの森が好きなんですよ、もしよかったら読了して返却するときに感想でも教えて下さい、と伝えた。彼女は何も言わなかった。


その一週間後、同じショートボブの髪の女子生徒が、返しにきましたと僕に声をかけた。

「どうでしたか、ノルウェイの森」僕はめげずに彼女に訊いた。

「うん。私は好きだよ、ノルウェイの森」机を眺めながら、彼女はそう答えた。

「よかった。僕も好きなんですよ」

すると、彼女は唐突にこちらのほうを向いた。僕は少しだけ作業の手を止めてしまった。

「君、これが好きなの」

「ええ」

「面白いね。クラスは?」

質問者と回答者が入れ替わり、僕は困惑した。

「えっと、一五組です」

「一年生か、どうりで知らない子だなと思った。私は二一組のシマノ。仲良くなれそうだね、よろしく」そう言い残すと、彼女は階段を降りていってしまった。


 僕に友達が居なかった訳ではないが、友達とつるむのはどうにも苦手だった。昼休みに入ると一人でさっさと昼食を済ませ、残りの数十分は好きに過ごした。特に部活にも入っていなかったから、図書室に行って暇を潰すか、溜まった宿題を消化するか、天気の良い日には窓の外を眺めるか、それぐらいだった。教室はクリーム色の壁にグリーンの扉、前には横長の黒板を二枚並べたのが設置されていて、左側に広い窓が、右側には画鋲が刺せる明るい黄緑色のボードがあった。掃除用以外のロッカーは無く、廊下に鍵付きの個人用ロッカーがあり自分はそこに教材の大半を押し込んでいた。平凡な教室だったが、五階からの眺めはそれなりに気持ちが良かった。





 九月一日の放課後、シマノさんは僕のクラスに来た。ガラガラとグリーンの重い引き戸を開け、図書委員の子いる?と近くにいた同級生に尋ねたらしい。その同級生が僕を呼び、宿題をしていた僕はそこでやっとシマノさんの存在に気づいた。ああ、シマノさん、と言って席を立つと、彼女は手招きしてから廊下に出て、目の前の階段を登って行った。

 連れて行かれたのは、いつもの図書室だった。シマノさんは入口から少し離れた端の座席に座って、君も座ってよ、と僕を促した。

「言ったと思うけど、私はシマノって言うの。シマノアスカ。サンズイに州で洲野。アスカは鳥とか船の飛鳥ね。珍しい名前でしょ。あ、あと呼び方は飛鳥でいいよ」

「箱根に居そうな名前ですね」

「エヴァね、エヴァンゲリオンの放送より私の名前が命名された方が早かったんだよ。お父さんには先見の明があったんだよね」

「へえ、まあそうですよね」

誇られてもそれくらいしか感想が出なかった。

「僕は」と自分の名前を言いかけると、飛鳥さんは待った、と言った。

「君は名前を言わなくていいの。もし私が君の名前を知ったとしても、私は君の名前を言うことはないよ」

「はあ、なんでです」

「なんでも」

変な人だな、以外の感想が浮かばなかった。

「それで、なんでここまで連れてきたんです」

「あのねえ」

飛鳥さんは呆れたように大げさな反応をした。

「女の子が男の子をわざわざ呼び出すなんて、理由は一つしかないでしょ」

「はあ」

「私達で付き合おう、って言ってるの」

「はあ?」

「君は『はあ』としか言わないね」

「そう言われればそうかもしれないですね」

「私達ね、ノルウェイの森が好きなんだよ。一緒の本が好きなの。うまく行く気がしない?」

これがハルキストってやつか。今度は僕が呆れた。

「君の答えは求めてないよ。私達が付き合う、それだけのことだよ。みんなには秘密ね」

少し溜息を漏らすと、彼女は小さな紙切れを机に置いてから、席を立って出ていこうとした。

「待って、飛鳥さん」

「飛鳥ね!」彼女は強調した。

 僕と付き合うと宣言した飛鳥は、そのまま行ってしまった。学校発行の書類を手で切り取ったような紙切れには、090で始まる携帯の番号、そしてメールアドレスがボールペンの、丸い字で書いてあった。

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