最後の別れ

 吹き荒れる風雨の中を、実験都市はゆっくりと浮上していった。

 人間が――少なくとも日本の関東付近、実験都市の周辺に残っていた全ての人間が地球を脱出してからおよそ1年後には、マリィ博士の予言通り、激しい嵐が訪れるようになった。

 その猛烈な風は、外気を遮断するシステムなど最初から存在しなかったかのように実験都市を蹂躙し、強い酸性の雨によって、残されていた建物や道路などを蝕んだ。

 実験都市を覆う植物や土壌は流れ出し、その下にある真の姿がむき出しになる。

 それは、火星でも未だに構想の域を出ていない、超大型の宇宙船だった。

 大規模な反重力システムに、数百基の核融合エンジン。これにコアの技術を組み合わせることで、燃料の補給を必要としない無限の推進力が実現されている。

 実験都市が空に浮かぶ以前から現在までの数十年間、その地下(浮かんでいるのに地下というのも妙な話だが)では都市の大きさそのままのスケールを持つ宇宙船が密かに建造されていたのだった。


 荒れ狂う嵐をものともせず、地上からおよそ20キロメートルの辺りまで実験都市が浮上すると、嘘のように黒雲が途切れて一気に視界が広がった。

 全体的に白く煙っているものの、うっすらと青空さえ見える。

 年間を通して晴れることのない曇り空の下で生まれたヒューマノイドたちは、初めて見るその光景をモニタ越しに観測しながら、小さな歓声を上げた。


「地球の重力圏から出た後は、一気に最大速度で太陽系外へ脱出するから、それまでに各自指定の位置で体を固定するのを忘れないように」


 実験都市が無事に宇宙船として機能したという実感に沸き立つヒューマノイドたちに向けて、船長代理のアイが改めて注意事項を伝えるが、帰ってくる返答はどこか浮ついているものが多かった。


「気持ちは分かるけど、皆ちょっとはしゃぎすぎね」

「太陽系を脱出するまでの操作は全部自動なんだからあ、好きにさせてもいいんじゃないのお?」


 ドリーはどこか斜に構えた様子だが、ツバキは素直に楽しんでいるらしい。

 これまでヒューマノイドたちは実験都市を円滑に運営するために奔走し、大勢の人間たちを破綻させずにまとめ上げてきた。その重責からようやく解放された今、普段通りに落ち着いていろというのはなかなか難しい注文だろう。

 これからは自由気ままに宇宙を彷徨い、発見と研究を繰り返しながら様々な謎を紐解いていくことになる。


「ドリーの言う通りだよ、ツバキ。気を抜くのは太陽系を出てから……あれ?」


 自分だけでも皆の規範とならねばと、油断なく各所をチェックしていたアイは、ふと奇妙な点に気が付いた。


「アイお姉さま、どうしたの?」

「なになにぃ?」


 こうして必要以上に念入りに各種センサー類やモニタなどを確認していなければ気付かなかったであろう、小さな違和感を感じ取り、アイはその人物に呼びかけた。


「……マリィ博士、何かありましたか?」


 マリィ博士とユカリの私室は、例外的にモニタリング対象から外されている。そのため、二人が同時に私室にいる時は、こうして能動的に呼びかける以外に二人の様子を知る術がない。

 アイは実験都市の浮上開始の号令を聞いた後から一度も、二人の音声やメッセージを受け取っていなかった。

 暗雲を抜ける対流圏界面を過ぎた辺りで、嵐というひとまずの危機は切り抜けたのだから、そこで博士たちから皆に向けて何か一言あってもいいはずではないだろうか。アイは直感的にそう思ったのだった。

 だが奇妙なことに、通信状況を解析しても二人は互いにメッセージをやり取りしている様子がなく、外を見るためのモニタにアクセスさえしていない。

 メッセージのやり取りがないのは、二人が同じ部屋で過ごしているのであれば自然なことだ。しかし、今このタイミングで外の様子を一切気にかけないということがあるだろうか?


「やあ、アイ。どうしたの?」

「いえ……その、何かお取り込み中でしたら申し訳ありません。お二人が外の様子をご覧になっていないようだったので……」

「あはは、もうアクセス解析をしたんだね。さすがアイだ。こんなに早く気がつくとは思わなかったよ」

「え? それはどういう……」

「……あっ」

「もう、博士。自分からバラしてどうするんですか」

「あー……ごめん。いやてっきりバレてるものかと」

「まったく、仕方のない人ですね……」


 割り込んできたユカリの声と同時に、アイが把握している実験都市内部のモニタリング情報の一部が更新された。そこに示されていたのは、大気圏外に出るまでは使用を制限されていたはずの探査艇の一つが、消えているという事実だった。


「まさか、偽装情報……!?」

「アイお姉さま、これ、どういうこと? なんで今このタイミングで探査艇が外に出てるのよ!?」


 マリィ博士とユカリの私室から探査艇がある区画までのモニタリング情報が全て偽装されていたことに、三姉妹はこの時点で初めて気が付いた。

 アイは並列思考で情報部へと問い合わせを行うが、何故か回答が返ってこない。


「すまないね、みんな。まあなんというか……ご覧の通りだ」


 突然、三姉妹の視界に探査艇内部の映像が現れた。

 そこには普段通りの白衣を着たマリィ博士とユカリが並んで映っている。


「え、なんで……どうしてそこに、お二人がいるんですか……?」


 実験都市は浮上し続け、外に飛び出した探査艇との距離はどんどん離れていく。


「ここから私たちは別の針路を取るということよ」


 嘘のように普段と変わらない様子で、ユカリはそう言った。


「どうして、なんでそんな」

「ドリー、ちょっと黙ってて」


 感情のままに声を上げようとするドリーをアイは序列による命令によって制してから、自らも冷静になるために、ひとまず感情を別の思考領域へと切り分けた。


「三姉妹を代表して、私が話します。マリィ博士、マスター、今の状況を初めから説明して下さい」

「それじゃあ、私が話そうか……で、いいよねユカリ?」

「どうぞ」


 マリィ博士は軽く咳払いの仕草をしてみせてから、話し始めた。


「実験都市は、コアの研究を行うために作られた。君たちヒューマノイドも、同じくコアの研究のために生み出された。君たちの頑張りのおかげで我々は、ようやく目標を達成したんだ。コアの中にあるワームホールを拡張する技術がそれだ。だからこの先は、我々二人だけで行く。申し訳ないが、最初からそう決めていたんだよ」


 マリィ博士の言わんとするところを察したアイは、意識が揺れるようなショックを受けた。

 自分たちヒューマノイドがコアの研究のためだけに作られたということは最初から承知していた。目的があり、そのために生み出され、生きる。これには何も不満はなかった。むしろ誇りにすら思っていた。

 だが、マリィ博士たちが望む最終的な目標を、自分たちは見誤っていた。いや、最初から勘違いするように仕向けられていたと言うべきか。

 ワームホールの向こう側にある可能性の力によって、あらゆる概念を実現できるようになれば、この宇宙全ての神秘を解明することができるかもしれない。博士たちはそんな壮大な夢を追いかけているのだと――そう錯覚させられていた。

 だが、そうではなかったのだ。

 彼女たちの目標は、とっくに達成されていた。

 ワームホールを拡張するという、その技術が実用化された時点で。


「マリィ博士……あなたたちは、ワームホールの向こう側に行くのですか」

「そうだよ」

「でも、あの実験は、危険過ぎるから中止することになったはず……」


 アイが思い出したのは、ワームホールの拡張が成功してから少し後に行われた実験のことだった。

 それは、ワームホールの向こう側に探査機を飛ばすというもの。

 あらゆる可能性へと繋がるその先は、一体どんな場所なのか? それを探ろうとするのは自然な流れだった。

 だがその実験は、送った探査機の数が二桁を越えたあたりで打ち切られた。

 何度やっても同じ結果だった。ワームホールの向こう側に送られた探査機からは一切の応答がなくなり、二度と帰ってくることはなかった。

 頑丈なカーボンワイヤーで物理的に繋ぐことも試したが、ワイヤーは途中で切断されてしまう。この切断面を詳しく調べた結果、原子レベルで分解されている可能性が高いということが分かった。

 ワームホールの中に足を踏み入れたものは恐らく、一瞬にして跡形もなく分解され消滅する。その仮説が打ち立てられ、実験は中止となった――はずだった。


「そうだね。そのはずだった。でも本当は、私とユカリとで、実験を進めていたんだ。黙っていてごめんね」

「どうして……どうしてそこまでして、向こう側に行こうとするんですか。死んでしまうかもしれないんですよ。他でもない博士自身が立てた仮説が、その可能性の高さを物語っているのに」

「アイ、もしも死んでしまうとしても、それはそれで構わないんだ、私たちは」


 マリィ博士とユカリは、元々遠い過去に死んでいるはずの人間だった。

 それが途方もない執念と奇跡によって、再び出会うという願いを叶えた。だからもう、本当は、これ以上望むものなどなかったのだ。

 コアの中から通じる可能性の海によって消滅するというなら、それはもしかしたら不老不死となったマユの肉体にすら、真の死をもたらしてくれるのかもしれない。

 ユカリと共生していたマユが自らの意思で眠りについた今、マリィ博士とユカリが共に終わりを迎える――心中することを阻むものは何もなかった。

 仮にユカリだけが生き残ったとしても、問題はない。既にユカリの中にインストールされている、マリィ博士からコピーした意識を目覚めさせれば、二人は真の意味で永遠に一緒にいられるのだから。


「……どうして、私たちを一緒に行かせてくれないんですか?」


 もう取り返しがつかないということを悟ったアイは、ただ口惜しさを隠しもせずにそう質問した。

 実験都市はマリィ博士が持つ最高権限によって自動運航に入り、どんどんと高度を上げている。

 この状態では、太陽系を抜けるまでは三姉妹の持つ権限では操作を取り戻せない。

 物理的に機関部を破壊すれば動作を停止させることくらいはできるかもしれないが、それを実行し、完了する頃には実験都市はとっくに地球から遠く離れてしまっているだろう。

 もう、博士たちの元へと戻ることはできないのだ。


「私とマリィ博士の心中に、部外者がいたら邪魔でしょう」


 そのアイの質問に答えたのはユカリだった。

 辛辣で、簡潔で、これ以上ないほど明確な回答だった。


「私たちは……部外者なんですか?」

「あなたたちは、私たちの子供よ。でもね、親と子は他人なの。あなたはマリィ博士ではないし、クモザキユカリでもない」


 ユカリは冷たく言い放ってから、自分の肩に置かれたマリィ博士の手を見つめた。

 言葉にせずとも、メッセージを使わずとも、言いたいことは伝わってくる。

 ユカリは少しバツが悪そうに続ける。


「ヒューマノイドは私のわがままで作られたものだけど、それは生物でも同じこと。親は自分の都合で子供を作る。身勝手に、子供がどう思うかなんて考えずにね。だから、せめて終わりくらいは自由にさせたいと思うのよ。死ぬ可能性が高いと分かっている実験に、あなたたちを付き合わせる訳にはいかないわ」


 実験都市は成層圏を抜けて、間もなく中間圏に差し掛かろうとしていた。

 マリィ博士とユカリが乗った探査艇は既に、数十キロの彼方にある。

 ユカリの言葉を聞いた三姉妹は、誰も、何も言えなくなってしまっていた。

 そんな中でドリーは、自分の内面の変化に戸惑っていた。

 誰よりも尊敬する生みの親で、誰よりも愛していたはずのマリィ博士がいなくなろうとしているというのに、どうして自分はこんなに落ち着いているのだろう、と。


「まあ、ユカリの言い方はちょっときついけど、要は君たちには未来を見て欲しいってことだよ」


 静まり返った実験都市の、三姉妹が詰める司令室に、マリィ博士の声だけが響く。

 他のヒューマノイドたちは今何が起きているかも知らずに、宇宙へと向かう実験都市から見える空を無邪気に眺めているのだろう。


「君たちはほとんど人間と同じだ。地球という星があって、人間という知的生命体が存在したということを、この宇宙に示してくれたらと思う。まあ、思い思いに研究や探索をして、楽しく暮らしてくれたらそれだけでも私としては嬉しいかな。コアのワームホールを開いて、私たちの後を追うというのも……おすすめはしないが、やるかどうかは自由だ。もっとも君たちはそんな愚かなことをしないと私は信じているけどね……なぜなら、君たちは私からの最後のプレゼントを既に受け取っているからね」


 マリィ博士の映像の前面に、数字とアルファベットの羅列が表示された。

 それは今日、実験都市が出発する前に全てのヒューマノイドに向けて送信された、アップデート用ファイルの名称だった。

 無重力空間での動作に対応するためのパッチだと知らされていたそれを、ヒューマノイドたちは全員実行している。三姉妹もまた、例外ではない。


「これは、君たちに仕込まれていた、あるプログラムを削除するためのファイルだ」


 マリィ博士の言葉に、三姉妹は虚を突かれたように目を見開いた。


「妙だと思ったことはないかな。この数十年間、実験都市でヒューマノイドが起こした事件は一件だけしかなかった。君たちは人間と同じ自我と精神を持っているはずなのに、皆、私たちに従順で、どこか妄信的ですらあった。だが、そうあることで君たちは統率され、目的から大きく逸脱するような行動を取ることもなかった。人間は二人いれば争いが起こるというのに、君たちはどれだけ増えても争うことなく、いがみ合うことなく手を取り合い、目標に向けて一致団結してきた」


 この時点でドリーは、三姉妹の中で誰よりも早く、マリィ博士が言っていることの意味を理解してしまった。しかし、混乱する思考をまとめる余裕すらないまま、マリィ博士は言葉を続ける。続けてしまう。


「なぜそんな都合のいいことになっていたのか。それは、私たちが君たちを創造する時、目的を見失わないように、私たちの命令にだけは従順であるように、私たちへの絶対的な親愛の感情をプログラムしていたからだよ。君たちが自分の手で多くの妹を作り上げた時も、そこに同じプログラムを加えさせてもらった。全ては一つの目的のためにね。でも、それももう終わりだ。君たちは本当の意味で自由になった。一つの知的生命体として自立したと言える。ここから先は君たち自身の意思で生きたまえ」


 アイは、どんな表情をすればいいか分からなかった。

 なるほどと納得する気持ちもある。ふざけるなと憤りたいような気持ちもある。それでもマスターユカリを愛しているという、変わらない気持ちもまた残っている。

 マリィ博士たちはどこまでも利己的にヒューマノイドを道具として扱い、そして最後の最後になって、その呪縛を解いたのだ。

 そうしなければ、ヒューマノイドは実験都市を破壊してでもマリィ博士たちの元へ戻ろうとしただろうから。

 なんて身勝手なのだろう。

 思わず呆れてしまうほどだ。

 それでもアイは、一言も発することができなかった。

 罵倒の言葉も、感謝の言葉も出てこない。

 少しの間、互いに無言で見つめ合い、そして通信は何の前触れもなく途切れた。

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