幕間 さよなら

 計画の準備はようやく最終段階へと進んでいた。

 突然の方針転換やトラブルがあったにもかかわらず、三姉妹たちは素晴らしい働きでリカバリーしている。

 この分なら、あと数日以内には計画を発動できるだろう。


 マリィ博士とユカリは二人のプライベートルームでそんな話をしながら、それぞれの仕事をこなしていた。

 マリィ博士は火星日本政府との最終調整を、ユカリは計画当日に起きるであろうトラブルの予測と対応策のチェックを。

 それらの仕事はお互い、頭の中で完結しているため、外から見れば二人は揃って椅子に座りながら和やかに談笑しているようにしか見えない。


 仕事が一区切りついたマリィ博士は、ふと隣のユカリに顔を向けた。

 ユカリもその視線に気付き、どうしたのかと目で問いかける。

 二人は長い間、あらゆる意味で通じ合ってきたため、簡単な感情なら一切の意思疎通をスキップして伝え合うことができるようになっていた。


「いやなに、そういえば――と思ったんだけどね」


 マリィ博士はそう言って少し口ごもる。

 ユカリはその仕草だけで、彼女が何を問いたいかを理解した。


「マユさんのことですか」

「うん。最近見ないなと思って」


 マユとユカリは一つの体を共有しているが、どういう周期でどちらが表に出てくるか、といったことは厳密に決まっている訳ではない。

 今日は自分が外に出たいなと思えば、なんとなくもう片方が譲る。かなりふんわりとした、その時その時で決めるアバウトな感覚だ。とは言え、その体は本来マユのものであるから、居候の身であるユカリは常にマユの意向に従うようにしている。

 それでも最近は、ユカリが表に出ていることが目に見えて多くなっていた。

 というより、マリィ博士の主観ではマユの姿を見ることが一切なくなっていた。

 マリィ博士が覚えている限りでは、マユを最後に見たのは危険度4の地震が起きた日が最後だった。

 あれからもう3ヶ月あまりが経過している。


 セレに代わって情報部の新しい長となったクレイドルの人工意識ACの調査は特に念入りに行われ、それが救済計画全体の遅延の原因となっていた。

 その後、ようやく彼女にも計画の概要が伝えられたことで、現在では計画は最終段階に進んでいる。

 その間、マリィ博士がマユを見かけることは一度もなかった。

 これまでも、マユが長期間顔を出さないことは何度かあった。それでも長くて2週間程度の話で、今回のように3ヶ月も姿を見せないというのは初めてのことだった。

 さすがに何かあったのではないかと思い、マリィ博士は尋ねようとしたのだが――


「マユさんは今、眠っています。しばらく起きてくることはないと思います」

「……それは、例の契約に基づく話?」

「そう……なりますね、たぶん」


 契約。

 かつてユカリがコアの中で情報生命体とでも呼ぶべき形態になっていた時、偶然そのコアに触れたマユが、自らの体にユカリの意識を同居させることを許可するに至った経緯について、マリィ博士はある程度のことは聞き及んでいた。

 お互いの利益が合致したからこそ、マユはユカリを同居させることにした。

 ユカリの利益とは言わずもがな、再び現世に顕現すること。コアの研究を進めることでマリィ博士を蘇らせ、もう一度声を聞くこと。そのためには肉体が必要だった。

 では、マユの利益とは一体何だったのか。


 それは端的に言えば、死ぬ権利を得ることだった。


 かつて死に怯え、永遠の生を願った彼女は、コアの気まぐれによって本物の不死の肉体を手に入れてしまった。

 願いが叶い、幸福に満たされて人生を謳歌できたのは最初の数十年のこと。

 浮ついていた気持ちが徐々に落ち着き、少しずつ現実について真剣に考え始めた時、マユは恐ろしい事実と向き合わなくてはならなくなった。

 それはすなわち、不死の苦痛と愚かさを謳い、有限の生を賛美する、大昔から世界中で創作されてきた物語についてだ。まさかそれが、現実の、自分自身の問題として提起されることになろうとは思いもしなかっただろう。


 コアによって与えられたこの不老不死は紛れもなく本物で、まず間違いなく宇宙の法則を無視したものだ。

 つまり、マユは永遠に生きる可能性が極めて高い。

 永遠、という言葉は昔から気軽に使われてきたが、それを現実に即して考えてみた場合、極めて過酷なものになることが推測されていた。

 まず、星には寿命がある。今から数十億年後には太陽が中心部の水素を使い果たすことで膨張し、地球やその他の惑星との距離が大きく縮まる。その結果、地球を含む惑星の表面はまさに火に炙られた焦熱地獄と化す。

 それまでに人類が進化して太陽系外へと旅立っていれば良いが、最悪の場合、それを待たずして人類は絶滅している可能性もある。あるいは、文明が後退して原始的な生活を送っているかもしれない。

 仮に人類が太陽系外に脱出し、あまねく宇宙で繁栄する未来があったとしても、マユにとってはあまり違いはない。

 どちらにせよ、マユだけは最後まで生き残る。

 仮に人類が太陽系を脱出できなかった場合、灼熱の地球か、火星や木星あたりの植民星で、マグマの海に溺れ焼き尽くされては再生するという苦行が待っている。

 もしかしたらその無限ループ状態を良しとしない不死の願いによって、熱に対する耐性を獲得することもあるかもしれない。だがそれでも、ほとんど状況は改善しないだろう。

 やがて太陽は死を迎える。その際の太陽フレアによって何もかもが吹き飛ばされ、マユはそのまま宇宙空間に放り出されることになる。

 マイナス270℃の真空に晒されたマユの肉体は急激な気圧の変化によって減圧症を起こし、体中の水分が沸騰、皮膚は醜く膨張して全身が余す所なく凍傷を負う。そして、肺の中の空気を全て失った肉体は機能を停止し――一瞬にして再生する。再生した瞬間、再び同じことが繰り返される。終わることなく、何度でも。

 ここでもあるいは、マユの体は宇宙環境に対する耐性を獲得するかもしれない。だが、そうなったとしても気休め程度にしかならないだろう。なぜなら、より最悪の未来が確実に待っているからだ。

 宇宙に見える星々は数多くあれど、人間の小さな身ひとつで漂うにはスケールが大きすぎる。つまり、宇宙を彷徨うマユがどこかの星に漂着する可能性は極めて低い。

 暗闇の中、無限に回転しながら生き続ける。それが数百兆年続く。それだけの時間宇宙を彷徨っていれば何度かは、他の恒星やブラックホールに捕まることもあるかもしれない。ブラックホールに捕捉されれば、そこから逃れることはできない。存在と時間を引き伸ばされて、いつ終わるとも知れない停滞を強いられる。

 だが、遠い未来にはそれすらもいずれ終わる。

 その未来とはつまり、宇宙の死だ。

 無限と相違ないほどの時間を経て、やがて宇宙は活動を停止する。あらゆる恒星は死に絶え、あらゆる物質は崩壊し、文字通り

 これは宇宙の外側に定義される”無”とは別物だが、そこは真の暗闇に満たされた、何一つ変化が起こらない、全ての終わりとなる。

 しかし、マユだけはその暗黒の中で生き続ける。

 色も音もない。体の感覚も定かでない。ただただ、終わってしまった無明の闇の中で一人、狂うこともできず、意識を保ち続ける。

 残念ながらこれは、終わらない。


 遠い遠い未来。しかし、無限に生きる自分はいつか必ず到達するであろうその未来を想起した時、マユはかつて自分が死を恐れていた時を遥かに超える恐怖を抱いた。

 死ぬことなく、自我を失うこともなく、健康な状態で、先のない真の終わりの中をたった一人で漂う。これ以上の恐怖などあるだろうか?

 絶望し、心を病もうとしても、不死の願いはマユの健康な精神を維持し続けた。

 それが却って、マユにとっては恐怖を増幅させた。

 救いはもうない。なぜなら、自分はもう、一度救われてしまっているのだから。


 そんな時、マユはユカリと出会った。

 それは小さな、しかしこれを逃せば二度と得ることのできない希望の光だった。

 マユがユカリに提示した条件はシンプルだった。


 自分の任意のタイミングで意識を沈めて、二度と目覚めない眠りにつくこと。

 その時肉体の主導権は完全にユカリのものとなり、再びそれをマユに譲渡することはできない。


 肉体に人格を二つ宿すことで初めて、マユはその目論見通り、中断されることのない眠りにつくことができるようになった。

 マユの肉体は不死の願いの作用により、故意に意識を消失させた場合でも強制的に再生させられる。しかし、ユカリが肉体の主人として振る舞っている間はそれが正常とみなされるのか、マユの意識は沈んだままでいることができたのだ。

 こうしてマユはユカリとの契約により、死を迎える権利を得た。

 ユカリにはやがて訪れる無間地獄を肩代わりさせるということになるのだが……それについてマユが説明しても、ユカリは平然とそれを受け入れると言った。何故ならユカリにとってもマユとの出会いは逃せば二度とないチャンスだったからだ。その結果想像を絶する責め苦を受ける未来が確定するとしても、たった一度でもマリィ博士と再会できればそれで悔いはないと、そう言い切ったのだった。

 だから自分に対して負い目を感じる必要はない。これは対等な契約なのだと。

 その時ようやく、マユの心に真の平穏が訪れたのだった。


「マユさんはもう、目覚めないのかな?」

「恐らく……私たちは記憶を共有してはいますが、お互いに何を考えているか、詳しいところまでは分からないんです。もしかしたら何十年、何百年か先にひょっこり目を覚まして、外の世界の様子を見に来る、なんてこともあるかもしれませんが……その可能性はたぶん……」

「……あの日が、最後だったなんてね。知っていれば、お別れも言えたのに」

「私も同じ気持ちです、博士。あの日マユさんはいつもと同じように眠りについて、明日か明後日にはまた、私と交代するものだと思っていました。いつもみたいに」


 人の死というのは、案外そういうものなのかもしれない、とマリィ博士は思った。

 かつて病院のベッドで眠りについた夜、きっと明日もユカリがお見舞いに来てくれるんだろうな、と信じていた。小さな体で、両手一杯に花を持って。今日あった些細な出来事や研究の成果を、努めて明るく話してくれる。それが何より嬉しくて、同時に辛かった。その記憶は今でも鮮やかに思い出すことができる。

 しかし自分はもう、次の日に目覚めることはなかった。お見舞いに来たユカリの姿を見ることは、二度とできなかった。

 死は、当たり前の日常の中にある。

 だからきっと、そういうものなのだ。

 マリィ博士はそう結論付けて自分を納得させた。


「このことは、誰にも話してないの?」

「博士にさえ話していなかったんですから」


 当然でしょう、とユカリは素っ気なく答えた。

 彼女自身、それを積極的に認めたくはなかったのかもしれない。

 ユカリにとってマユは再びこの世界に舞い戻らせてくれた恩人であり、長い時間を文字通り一緒に過ごしてきた、かけがえのない友人だった。

 だからこそ、今回のマユの長い眠りが、恐らく最後の眠りになるであろうことを直感的に理解してしまったのだ。


「……ツバキには、話しておいた方がいいんじゃないかな」


 マリィ博士に言われて、ユカリはハッとした表情を浮かべた。

 ツバキは、マユが設計から命名まで直々に手掛けたヒューマノイドだ。マユの子供と言っても過言ではない。

 親が永遠の眠りについたことを知る権利くらいは、あってもいいはずだ。


 ツバキは悲しむだろうか、とユカリは考えた。

 マリィ博士以外のことは全て些事だと割り切っていたはずの自分が、いつの間にか自分と縁がある人やヒューマノイドに対して少しだけ情を抱くようになっていたのは、もしかしたらマユの影響なのかもしれない。

 真剣にツバキのことを想うなら。やはり、話しておいた方がいいのだろう。


「博士、少し会議室を借ります」

「うん。ごゆっくり」


 マリィ博士は部屋を出ていくユカリの後ろ姿を見送りながら、小さな声で呟くように「さようなら」と言った。


「……仕事中に悪いわね。ちょっと話したいことがあるんだけど、出てこられる?」


 その日ツバキは数時間だけ、仕事を休んだ。

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