救済計画

 もうすぐ雨期が来る、とマリィ博士は予言した。


 人類が大規模な火星への移住を開始してから30年余り。雨の量は年々少なくなり、大地は乾き、世界中で砂漠化が進行した。

 これを全世界規模の長い乾期と捉えるならば、次に同じくらい長い雨期が来たとしても不思議ではないだろう。

 マリィ博士によれば、長く見積もっても今から10年の間には雨期に入り、これまで誰も経験したことがないほど強力な台風が、猛毒の雨を撒き散らしながら断続的に訪れるのだという。


 実験都市は、宇宙にある衛星都市のように物理的に空間を密閉している訳ではないが、反重力を応用したシステムによって、ある程度外気を遮断している。雨や風も少量であれば実験都市内部に侵入することはない。

 しかし世界滅亡の願いによる未曾有の台風が来るとなれば、話は別だ。恐らく街は完全に毒の嵐に曝されるだろう。

 予想される懸念はそれだけではない。空に浮かんでいるという特性上、実験都市は強風に対して脆弱性を抱えている。約70平方キロメートルもの面積を持つその巨大さ故に、よほどの風でなければ揺るぐこともないが、キャパシティを上回る風が吹き荒れれば最悪の場合は墜落する可能性もある。

 地震という災害に対して完璧なアドバンテージを誇る実験都市も、規格外の台風には対処しきれないだろうというのがマリィ博士らの見解だった。

 つまり、本当にこれから地球全体規模の雨期が来るとすれば……実験都市はもはやどこへ移動しようとも、安全ではなくなるということだ。


 小手先の技術ではどうにもならないスケールの災害により、人間を始めとした全生物が生き残る余地がなくなる。

 世界が終わるというのはつまり、そういうことなのだろう。


 そもそも災害のことを考えるならば、最初から火星に実験都市を作ればよかったのだろうが、しかしそこには地球でなくてはならない理由がいくつかあった。

 まず大前提として、コアは地球でしか産出されない。コアの研究をする以上、事実上無制限に研究対象を確保できる地球を離れるという選択肢は取りにくい。

 そして、コアの研究を爆発的に加速させるためにはヒューマノイドの開発が必要不可欠だった。ヒューマノイドを生み出すためには、既存の倫理観が障害となる。火星に研究の場を移せば当然、地球から移住してくる他の人間たちに付き添うようにして、この倫理観も一緒に火星の地を踏むことになる。目標に向けて全力で研究を進めるためには、独立を宣言して地球に残る以外に選択肢はなかったのだ。


 全てはたった一つの研究のため。

 そのためにたくさんの人々を巻き込み、滅びゆく地球に縛り付けた。

 研究が終りを迎えつつある今こそ、彼らを解放し安全な場所へと送るべきだろう。

 そう、マリィ博士は判断したのだった。


 救済計画の具体的な方法は、至ってシンプルだ。

 火星と地球を往復する宇宙船に人々を詰め込み、運んでもらう。それだけだ。

 ただしそのためには、一度実験都市の人間を地上に降ろす必要があった。これは実験都市が独立を宣言した際に、火星連邦政府より様々な制限を科されたためだった。


 実験都市から地球外に脱出を希望する人間は、一時的にD5と呼ばれる衛星都市の一つに収容され、様々な検査と審査を経なければ火星に移住することができない――と規定されている。

 そしてその収容期間には、上限が定められていないのだ。

 これは言ってみれば、火星連邦政府による実質的な隔離措置だった。

 人命を重んじるという建前を掲げて地球からの脱出を推奨しつつも、人間と同等の意思を持つヒューマノイドなどというものを作り出すような人倫に反する者たちは火星から離れた場所に封じ込めたい、という相反する意識の現れとも言えた。

 無論、収容された人々のうち、何割かは実際に火星へと移住できるだろう。

 しかし少なくとも研究者やそれに準ずる者たち、その家族などは、一生を衛星都市の中で過ごすことになる。

 D5と呼ばれる衛星都市は、かつての地球で終身刑などの重い刑罰を科された犯罪者を収容するための場所なのだ。その住環境は推して知るべしといったところで、少なくとも実験都市よりも良い環境だということはないだろう。


 そのような不当な扱いを回避するために、マリィ博士らは長年に渡って火星における日本政府と秘密裏に交渉を進めてきた。

 日本政府としては、自国民の保護を第一に考えたい。しかし連邦政府への建前というものもある。

 そこで、実験都市の人間をいったん地上に追放し降ろし、地上で暮らす者たちと合流させることで彼らの所属を実験都市市民から地球残留民へと書き換え、そこから正当なルートで火星日本へと移住させるという方法が密かに確約されたのだ。

 このため、地上で暮らす人々がどれほど過酷な生活を送っていようとも、その全員を実験都市にて保護することはできなくなってしまった。

 地上で暮らしているはずの地球残留民がいなくなれば、連邦政府に対する建前が成立しなくなるからだ。


 30年前の火星移住の際に使用された移民船を改修したものならば、コールドスリープ技術を併用することで一度に最大5万人ほどの人間を運ぶことができる。

 実際はそこに家財などの荷物も加わるため、一度に運べる人数はもう少し減るが、それでも4ヶ月に一度のペースで運べば2年もかからずに全市民を火星へと移動させられる計算になる。

 予算の問題で年に一度しか貨物輸送船を出せなかった日本政府も、かかる費用の大半をカナザワグループが負担するという条件を付け加えたことで、移民船を増発することにあっさりと同意してくれた。


 後は、この大脱出計画をどのように実験都市の人々に納得させるかという点が問題だった。

 目に見えるような危機が迫っている訳ではない状況でこの計画を発表したとしても、今の生活を放り出してまで即座に行動しようという者はごく少数だろう。

「まだ大丈夫」

「今の自分には関係ない」

「危なくなったら動けばいい」

 そういった正常性バイアスも加わることで計画に大幅な遅れが生じ、やがて雨期が到来して脱出の機会を逃すことになるのは目に見えていた。

 また、短い期間でも地上の劣悪な環境に移動することは、現在の快適な環境に慣れきった住民にとっては行動を躊躇う大きな要因になるだろうと予測された。そもそも地上への追放というのは実験都市における死刑のようなもので、心理的な抵抗があって当然なのだから。


 言葉を尽くして説明し、時間をかけて説得し、人々が自主的に動いてもらうのを待っていたのでは手遅れになる。

 では武力をもって強制的に動かせばいいかと言えば、それもまた悪手だろう。

 カナザワに対して不満を持っている者たちはそれなりに存在する。最近は特に、民主政治への回帰を望む声が都市全体に広がりつつある状況だ。この計画のために大々的に武力行使に出れば、そういった者たちの反感を買い、不満を爆発させることに繋がりかねない。大規模なデモやテロが起こり、都市全体にパニックが広がれば、もはや計画を実行するどころではなくなってしまう。


 そこでヒューマノイドの代表である最初の子供たちこと、アイ・ツバキ・ドリーの三姉妹が考案したのが、情報のすり替えだった。

 実験都市の人々が火星のネットワークに接続できているのは、実験都市が保有する人工衛星がその中継ポイントを担っているからに他ならない。

 これを利用して、一時的に火星のネットワークから実験都市を切り離し、ほとんど区別がつかないほど精巧に再現した疑似ネットワークへと接続させる。そうして今回の計画に都合の良い偽の情報を流すのだ。

 具体的には、「火星連邦政府は実験都市の研究施設を破壊するために戦略衛星からのミサイル攻撃を決定した」「住民が脱出するまでの猶予期間として3年を設ける」などの情報を、火星連邦政府の公式メッセージとして発信する。そうして適度に危機感を煽りつつ、しかし即座に住民がパニックに陥ることのないように、速やかに実験都市の中央からも地球からの脱出計画を発表するという流れだ。

 この計画によって無事火星に送られた者たちは、遅かれ早かれ自分たちが偽の情報に踊らされていたことに気がつくだろうが、それを実験都市に残っている住民に伝える術はない。住民全員が移動完了するまで、実験都市と火星とを繋ぐネットワークは遮断されているのだから。


 この計画の鍵は、ネットワークがすり替えられていることをいかにして住民に悟られないようにするか、という点にあった。

 移動が全て完了するまでのおよそ2年間、偽装を続けるためには相当な演算能力が必要となる。他の研究を阻害せずにそれを可能とするためには、情報部が権限を持つ中枢コンピューターの一つをフル稼働させるしかない。

 つまりこの計画は、情報部の協力なくしては成し得ないものなのだった。

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