セレ

 セレはいつも生命というものについて考える時、「運命を司る巨大な手」の存在を漠然と想う。


 無生物から生物が発生する確率はどれくらいなのか?

 結論から言ってしまえば、その確率は「ほぼゼロ」だ。これは昔から時折議題に上がることではあるが、どのような仮説も結論はほとんど変わらない。

 しかし、確率が完全なゼロでないならば、無限回試行されればそれはいつかは必ず起こることだとも言える。

 理論としては正しい。

 だが、暴風が過ぎ去った後に一台の新しいコンピューターが完成しているなどという例え話が、本当に起こり得ると思うだろうか?

 猿にタイプライターを無限時間叩かせていれば、そのうちシェイクスピアのハムレットが生まれると本気で信じられるだろうか?

 無限に続く円周率の中にはあらゆる数列が存在するという。理論的にはこの宇宙に存在する全ての原子の数を正確に示した数字さえその中にあるのだ。

 だが、それを実感することは難しいし、実際に検証することはもっと難しい。

 こんなことはもう何世紀も前から考え尽くされていることで、今更、何者でもないただのヒューマノイドが思いを馳せるようなことではないのかもしれない。

 しかしセレはそれを想う。

 生命とは約束された奇跡である、と。


 地球の年齢を考えてみても、生命の発生というものは酷く不自然な現象だ。

 恐らくそこには第三者の介入があったのではないかとセレは推測した。

 そう、それは例えば――


 かつて、いくつもの宇宙が生まれては死んでゆき、そうして無限に近い時間――時間という言葉は正確ではないかもしれないが――が経過したその終着点に、この宇宙の隅々にまで干渉できるほど発達した文明が生まれた。

 彼らは自らのルーツを探るために原寸大のスケールで、無生物から生物を生み出す実験をした。つまり、どこかの星の原初の海に、何か一つの切っ掛けを与えたのだ。

 そのうちの一つが、この地球だった。

 こう考えれば、今この宇宙には他の生命体がいくつも存在しているという仮説も簡単に成り立つのではないか。


 人間が様々な災害を乗り越えて絶滅を回避し、現在に至るまで命を繋げられる可能性は、実は15%程度しかなかったと言われている。(これは古い学説だから、地球の環境が急激に悪化し、人類が火星へと移住せざるを得なくなった今では、その数字は更に小さなものになっているだろう)

 いつ滅んでもおかしくないような苦難を乗り越えていく中で人間は自我を獲得し、文明を持ち、科学を発展させ、宇宙へと飛び立ち、そして自ら新しい生命と呼ぶべきヒューマノイドを生み出すことができるまでに進化してきた。これはもう、奇跡以外の何物でもないだろう。


 それ故に、セレは人間を敬愛する。

 奇跡の手によって生み出された人間。

 その人間の手によって生み出された自分のレンズを通じて世界を見る時、人間という存在の尊さを感じずにはいられないのだ。


 それなのに。

 ああ、それなのに、とセレは嘆く。


 実験都市は約70平方キロメートルの面積を持つ。可住地面積の比率は99%であるから、地上に残る人々を全て実験都市に加えることくらいは容易いはずだった。

 しかし、カナザワの中枢はそれを行おうとはしなかった。

 人口比率を保つためという表向きの理由を掲げてはいるが、それが本当であるかどうか、そこに何の意味があるのかは他の誰にも分からない。それについてセレが何度質問しても、はっきりとした答えを返してくれた試しはなかった。


 地上で苦しい生活をしている人々を不憫に思うセレにとっては、十分に納得の行く説明をしないまま、いつまで経っても彼らを救おうとしない中央に対する不満が募るのは仕方のないことだった。

 実際、何度か中央に意見を送ったこともある。

 職務上の物理的な制約のため直談判とまではいかなかったものの、それでも情報部の長という立場からのしつこいほどの意見書はそれなりに尊重されたのだろうか、やがて地上には大気濾過装置などを始めとした様々な便宜が図られるようになった。


 それでもセレの不満は解消されなかった。

 むしろ、「そういうことじゃない」と声を大にして言いたかった。

 そんな回りくどいことなどせずに、地上の人々を実験都市に引き上げればいいだけの話ではないか。

 まあ、どこの区に振り分けるかとか、住む家や職をどうするのかとかいった問題はあるけれど、それは行政を担当するヒューマノイドたちのリソースを少し割けば解決できることだろう。

 しかし自分の意見が完全に突っぱねられた訳ではなく、それなりに尊重されたような形に納まったがために、セレにはそれ以上打てる手がなくなってしまった。


 それでもセレは考えた。

 どうすれば苦しむ人々を救えるだろうか?

 自分は自由に動ける立場ではない。むしろ様々な制約にがんじがらめにされているような状態だ。そんな中で、一体自分にはどういう手が打てるだろうか?

 そうして考えた末に思いついたのが、今の自分の立場を丸ごと賭けるという大博打だった。


 適切な情報を適切な人物に流し、事件を起こさせる。

 その事件の黒幕が情報部の長であることを、あえて突き止めさせる。

 ヒューマノイドの、しかも情報部の長という立場の者がこんな事件を起こしたとなれば、カナザワとしてはそのことを公にはしたくないはずだ。

 そのため自分を拘束するために出張ってくるのは、情報が漏洩するリスクを考えればカナザワの中央に近い人物ということになるだろう。

 そこで、交渉を行う。要求を通さなければさらなる事件が起こるぞという、脅迫まがいの交渉だ。

 ……これが、セレが大まかに描いた絵図だった。

 これは頭のてっぺんから足の先まで、擁護する余地のない犯罪である。

 仮に要求が通ったとしても、こんなことを画策するヒューマノイドを生かしておく理由などない。恐らくセレの人工意識はコアから抹消されるだろう。


 それでも。

 それでもセレは、成し遂げたかった。

 自分が生まれてきた意味なんて考えたこともなかったけれど、少しでも多くの人間を救えるのなら、自らの死と引き換えにしてもいいと思った。

 そう考えた時、セレの中で何かが変化したような気がした。

 カチリとスイッチを入れるように、意識が切り替わったような気がした。

 今、初めて本当の意味で自我が目覚めたのかもしれない。

 その時セレはそう思ったのだった。

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