幕間 二人の語らい

「ところで、クモザキくん」

「なんですか? 博士」


 鮮烈な朝の光が建物を照らしていた。

 西の空には濃い灰色の雲が溜まり、それが背景となって白い家々の形をくっきりと浮かび上がらせている。

 窓から見える緑色の木の葉が揺れるたびにキラキラと光を反射する。

 わずかに空気に混じる甘いミルクのような香り。

 慣れた日常となっていたはずのそれらが、今はユカリの心に深い感慨を刻む。

 記念すべき日。

 長い、長い道のりを経て、ようやく目的地へ到達したのだ。

 今や風の動き一つですら、幸福に満ち溢れているようだった。


「私が生前に残した音声データなんだが……今はどこに」

「消しませんよ?」


 マリィ博士が言わんとすることを先回りして、即座にユカリは否を突きつける。

 ここだけは譲れないという、断固たる意思を感じさせる笑顔だった。


「なぜだ……」

「なぜも何も、あれは私の宝物ですよ。博士のお願いでも、それだけは駄目です」

「し、しかし今は本物がいるじゃないか。いや、本物ではないか……だが限りなく本物に近いだろ? 声が聞きたければ私がいくらでも語りかけてあげるよ?」

「いくらでも?」


 ぴくりと物音に反応した猫のように、ユカリの目がマリィ博士の目を捉えた。

 ちなみに二人は今、密着した状態にある。

 小柄なマリィ博士の膝の上に、肉付きの良いマユの体が乗っているという少々アンバランスな体勢だが、これはユカリの要望で昨晩からずっと続いているものだ。


「ああ、好きなセリフをリクエストして貰って構わない。……あんまりにもあんまりなのはちょっとアレだけど……常識の範囲内でなら」

「はい、言質取りました。もう録音しましたからね」

「急に怖いこと言うなこの助手」

「それはそれとして――データを消すことはできません」

「おいおい、虫がいいぞユカリくん」

「しないんじゃなくて、できないんです。世界中にバックアップを散らしてある上に、同時にその全てを消去しないと自己複製するようにしてあります」

「……」


 マリィ博士の表情は変わらなかったが、感情が表情へと自動的にフィードバックされるシステムの構築が完了していたら、彼女は驚愕と呆れの入り混じった表情をしていたに違いない。


「まさかとは思うが……クモザキくん、そのバックアップのデータ、誰でも聞けるような状態になってはいないだろうね?」

「そんなことするわけないじゃないですか。厳重に封印してありますよ」

「それならよかっ……いや別に良くはないな。まあとにかく、他の誰かにアレを聞かせたりはしてないんだね?」

聞かせてませんけど」


 ユカリの含みのある言葉に、マリィ博士は嫌な予感を覚える。

 そしてその予感が的中しているであろうことを、同時に確信していた。


「私が死んだ後、孫のリンが私の遺品の中からあのUSBメモリを見つけたらしいですね。そのおかげでリンはコアの研究に興味を持って、マユさんがカナザワ家に関わるきっかけにもなったとか。そう考えてみると、リンがあれを見つけなかったら今私たちがこうして再会する未来もなかったんですねえ。感慨深いです」


 しみじみと語るユカリをよそに、マリィ博士は頭を抱えていた。


「ちなみにリンはマリィ博士の孫ということになりますけど」

「うわあああ」


 ユカリが楽しそうに追い打ちをかけると、マリィ博士は天を仰いでしまった。

 あの音声データは、普段のテンションではまず言わないような恥ずかしいセリフをたくさん詰め込んである、言わばマリィ博士にとっての黒歴史のようなものだ。

 それが自分の子孫に聞かれていたとなれば、冷静さを失っても仕方がない。


「何故もっと厳重に管理しておかなかったんだ……君にとって大切なものなら尚更、他の人の手に渡らないようにしておくとかさあ……」

「そんなこと言ったって博士、私の死因は心筋梗塞ですよ。まさかあんなに早く死ぬとは思ってなかったんですから、元気なうちから遺品の整理とか普通しませんよ」

「むう……正論ではある」

「でもまあ、あれを聞いた人はそんなに多くないですよ。リンと、マユさんと、リンの息子のカイトとマユさんの娘のサチコちゃんと……」

「いや十分多いよ……そのサチコちゃんの子供の友達のパン屋さんのお父さんは聞いてないだろうね?」

「誰ですかそれ。あーあと、つい最近ツキユメちゃんにデータを渡していましたね、そういえば」

「だれ」

「リンの曾孫ですよ」

「なん」

「マリィ博士のその体を作るために私が依頼したんですよ。彼女は難病治療のために冷凍睡眠してこの時代に目覚めた後、そういう仕事に就いたんです。すごく腕もいいんですよ。ほら、博士自身も違和感を覚えないくらい素晴らしい仕事でしょう?」

「クモザキくん……助かるが、私の思考を先読みするのはやめたまえ」

「博士が考えてることくらい、大体分かりますよ。400年間ずっと博士のことだけを考えていたんですから」


 マリィ博士が呆れたような表情を作って見せると、ユカリの笑顔はますます輝く。

 肉体はマユのものなのに、その笑顔の中に確かにクモザキユカリの面影を見ることができるのは不思議なものだな、とマリィ博士の並列思考が呟いた。


「まあいいか……今後あの音声データは誰にも聞かせないように」

「はーい」


 子供っぽいユカリの返事を聞きながら、色々なことを諦めたようにマリィ博士は窓の外に目を向けた。

 いつの間にか、ずいぶんと日が高くなっている。

 灰色の雲はどこかへ消え、その代わりに真っ白な雲が青色の空を縁取っていた。

 静かだった。

 昔と比べて、騒音というものが徹底的に取り払われたかのような未来の世界では、部屋の中から窓を見上げている分には、まるで現実から切り離されてしまったかのような錯覚に陥りそうになる。


「……平和だなあ」

「ですねえ」

「でも君の話だと、人類はもうすぐ滅ぶんだろ?」

「少し違いますね。滅ぶのは世界ですよ」

「……それ、同じことじゃないの?」

「コアに滅びの願いを捧げた誰かさんにとっての”世界”は、幸いなことに、この地球限定だったみたいです。調べてみたところ、人類が移住しつつある火星では特に異常は観測されていないみたいで」

「ふむ、つまり地球から脱出すれば助かると。……なるほど、それでトラッカーとかいうB級映画みたいな奴は、あんな中途半端な感じだったんだな。攻撃方法も出現頻度も、とても本気で人類を滅ぼす気があるとは思えなかった」

「そうですね。人の心は0か1かではなく、濃淡がありますから。人類を滅ぼしたいという願いも少しはあったんでしょうけど、それほど大きくはなかったのでは」

「それにしたって……地球を滅ぼそうなんてねえ。とんでもないものだな、コアというのは。一体誰がなんのために作ったのやら」

「それをこれから、一緒に研究していきましょうよ」

「ああ……そうだね。と言いたい所だけど、地球が滅ぶんじゃどうしようもないぞ」

「大丈夫です」


 ユカリは数時間ぶりにマリィ博士の膝の上から降りると、特に疲れた様子もなく窓に近付き、くるりと振り返った。

 窓から入り込む微かな風に、ふんわりとした髪が揺れる。

 マリィ博士はその美しい光景を、こっそりと脳内のメモリに保存した。


「この星が終わっても、私たちは死にませんから」

「なんて自己中心的な助手なんだ」

「私の中心はあなたですよ」

「だが、私は君と違って永遠の存在ではないぞ」

「私とマユさんの、この共存状態だって同じです。いつまでもこの奇跡が続くという保証はありません。だから……」

「コアの研究をする?」

「その通り!」


 出し抜けに、ユカリは跳ぶようにしてマリィ博士に抱きついた。

 バランスを崩した二人はそのまま、ベッドの上に転がる。


「私、試してみたいことがあるんですよ」

「奇遇だね。私もだ」

「いいですねえ。では、まずはそのための準備から始めましょうか」

「と言っても……何から手を付けたものかな」

「街を作りましょう!」

「ずいぶん大きく出たな」

「問題ありません。ずっと考えていたんです。いつか来るこの日のために、自由に使えるお金もたくさん用意しておいたんですよ」

「え、本気なの……?」


 まるで秘密基地の設計図を描く子供のように、寝転がったまま楽しそうに計画を話すユカリを横目で見ながら、マリィ博士の並列思考の一つは、それとは全く別のことを考えていた。

 ――それは、神というものについて。


 こうして再び意識を獲得し、二度と会えないはずだった愛する者と二人、並んで語らっている。これは奇跡以外の何物でもないだろう。

 ユカリの執念と願いが手繰たぐり寄せた今日という日を、奇跡という言葉でひとくくりにするのは失礼かもしれないが……だがしかし、こういった奇跡がいくつもり集まって、世界は構築されているのかもしれない。

 そんな奇跡を自在に操ることができる存在を、恐らく神と呼ぶのだろう。

 それならば、神は。


 


 コアの造り手。次元の上位者。

 もしもそれがコアを通じ、その気まぐれによって願いを叶えているのなら。

 コアは、神へと通じる唯一の鍵となる。


 会いに行きたい、とマリィの思考の一つは思った。

 例え行き着く先が、この世の果てであったとしても。

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