出会い、分かたれることのないもの

 例えば無限に活動できる魔法をかけられて、宇宙に放り出されたとしたら。

 そして、その宇宙を漂う無数のちりの中から、たった一つのを探し当てろと言われたら。

 更に、はこの宇宙に存在するかもしれないし、もしかしたら存在しないかもしれないし、その上どんな姿をしているかも定かではない……などと説明を付け加えられたとしたら。


 普通の人間にそんな例え話をすれば、こいつは何を言っているんだと怪訝な顔をされるに違いない。仮に真摯に話を聞いてくれる人がいたとしても、そんなめちゃくちゃな前提で何かを探し出すことなどまず不可能だと切り捨てられるだろう。

 だからそれは本来、思考にすら値しない、破綻した例え話。


 だが、ユカリが選んだのはそういう道だった。


 ユカリの脳を模した構造網は、彼女が存命のうちからほとんど完成していた。

 そしてそれは早い段階で自我に目覚め、自分が何者であるかを把握した。

 マリィ博士の時とは比べ物にならないほどの時間と研究の積み重ね、そしてユカリ自身の凄まじい執念がその奇跡のような成果を実現させたのだった。

 コア内部に構築されたユカリの複製は、コアの外にいる自分自身が亡くなるまでの期間、ゆっくりと注がれる外部からの記憶で自身の記憶情報をアップデートし続けていった。


 やがて記憶の供給が途絶えると、ユカリは活動を開始した。

 コア内部を探索し、マリィ博士の情報を発見することが目標だった。

 しかし、目の前に広がるのは、いつまでも代わり映えしない暗闇ばかりだった。

 進めども進めども、未確認の領域が減る気配が一向にない。

 次第に、自分は本当に前進しているのだろうか、無限ループに陥っているのではないだろうか、という懸念が常に思考のリソースを侵すようになってきた。


 背後を振り返れば、確かに確認済みのマークをつけた領域が広がっている。だがそれは、本当に確認が完了した証拠だと言えるのだろうか? 本当に見落としはないのか? もしも自分が感知できないような形で目標が存在していたとしたら? そもそも、マリィ博士の情報など、この虚無の海の中に本当に存在しているのか?


 考え始めれば手が止まる。自分がしていることの意味が希薄になっていく。

 普通の生体に宿る人間の意識であれば二日と持たずに発狂するであろう無明の闇を漂いながら、ユカリは自身の意識が停滞するたびに強制的に思考をリセットして、永遠に続く拷問のようなこの作業を繰り返し続けた。


 一歩進んでは一日休むようなペースで探索を続けるうちに、人並み外れた執念と決意を抱いていたはずのユカリですら、リセットしきれない絶望という名の疲労が魂の奥底に沈殿していくのを感じ始めていた。

 時間が無限にあるならば、この作業を続けた果てに答えを得る日は来るだろう。

 だが、コア内部の時間は無限であったとしても、外部のそれが同じとは限らない。

 コアは不朽不滅の物質ではない。頑丈ではあるが、耐えらない力が加われば破壊されてしまうこともある。

 外の世界の出来事を知る術をユカリは持たない。今この瞬間に、何らかの理由でコアが破壊されて全てが終わるという可能性もあるのだ。

 つまりここには、依然として厳然たる制限時間が存在しているのだった。

 その事実が、更にユカリの無力感を加速させていった。


 もう、無理では?

 考えないように追いやっていた言葉が、意識の外側から締め付けてくる。

 始めから無謀な道だった?

 後悔、している訳ではない。それでも、もしあの時、愚直に進み続ける道を選んでいたとしたら、どんな未来に辿り着いていただろうか。

 そんな益体もない思考が、貴重なリソースを削っていく。

 それでも手は動き続けた。

 先に進み続ける以外、選択肢はない。

 残されたものはもう、それしかないのだ。


 絶望に呑まれぬように思考の半分以上をスリープさせた状態で活動していたユカリは、ある時、深海に差し込むような一筋の光に出会った。

 ユカリはそれを知っていた。

 外部からの干渉。記憶の供給を受けていた時に見た、人間の意識だ。

 光に誘われる羽虫のように、ユカリはそれに触れた。

 その瞬間、深い海の底から一気に水面に浮上したかのように、懐かしい現実の世界が視界に飛び込んできた。

 そこは、ユカリの孫娘であるリンのマンションだった。

 自分はコアの入ったガラスケースを持って、夕焼けの窓際に立っているらしい。

 意識が、記憶が、この身体の持ち主と一瞬でリンクし、ユカリは全てを理解した。

 コアと、願い事と、奇跡。


「そういう……ことだったんですね」


 ユカリは、この身体の持ち主――マユに語りかける。

 彼女はコアの力によって変質し、世界の理から外れた存在になっていた。

 二人の意識が反発せずにリンクできたのも、お互いがコアというイレギュラーを介した存在だったからなのかもしれない。

 マユはユカリの願いを、ユカリはマユの願いを、一切の損失なく理解した。

 お互いの利害が一致し、二人は一つの肉体に共存することを一瞬のうちに決めた。


 ユカリにとって、コアの中に入りマリィ博士を探すことは、肉体に迫る制限時間をかわすための抜け道のようなものだった。他の道を選べなかったが故の苦肉の策であり、最良の道ではなかった。

 だからその時のユカリには、コアを抜け出してマユの肉体に意識を移すことに対して、異論は一つもなかった。

 マユの肉体は正真正銘の不滅であり、目標達成までの制限時間は――コアが破損しない限りにおいて――無制限に伸びることになる。

 マユの肉体は常に最適な状態に復元され続けていた。しかしそれでいて生殖能力を失わず、妊娠という肉体の変化に対しては柔軟に受け入れることさえしてのけた。

 それと同じように、二つの人格が混ざることなく完全に独立しつつ記憶を共有するというイレギュラーな状況にあっても、ユカリの意識が排除されることはなかった。

 マユがそれを望めば、そのようになるのか。あるいはこれもまた、コアによる願いの成就だったのだろうか。


 ユカリはマユとの契約を守るため、なるべく表に出ないようにしつつコアの研究を続けることにした。

 コアが極稀に人間の願いを叶えるという情報を得てからは、その宝くじめいた奇跡にも縋り、毎日休むことなくマリィ博士の復活を願い続けた。

 マユもまた、肉体の主導権を握りつつもユカリの熱情に影響を受けたのか、彼女の孫娘のリンと共に積極的にコアの研究に勤しむようになった。

 二人で一人、それでいて干渉し合わない奇妙な共同生活は、約400年間に及んだ。


         ◆


「……それでまあ、こういう結果になったというワケです」

「ふむ、理解した」


 ユカリの説明を聞いたマリィ博士は、顔色一つ変えることなく頷いた。


「理解が早いですね」

「ロボットだからな」


 マリィ博士は冗談めいた口調で言った後、一拍遅れて微笑む。


「意識して表情を作らにゃならんのは、ちと面倒だなあ」

「最適化が進めば自動オートでできるようになるのでは?」

「そう願おうかね」


 マリィ博士はゆっくりと立ち上がり、体の調子を確かめるように手足を動かす。

 人工皮膚で覆われた肉体は滑らかに動作し、関節の駆動音も聞こえてこない。

 ぴょんぴょんとその場で軽く跳ねると、思いの外大きな着地音が響いた。


「少し重いのかな? この体」

「頑丈に作ってありますので。代わりに大抵の衝撃には耐えられます」

「なるほど……」


 コンコン、と自分の頭を拳で叩いて、マリィ博士は呆れたような表情を作った。


「君がこんなにも私のことを愛してくれていたなんて知らなかったよ」

「それをあなたに伝えるために、私はここまで来たんです」


 ユカリは立ち上がると、マリィ博士の正面に回って向かい合う。

 今やユカリが宿るマユの肉体の方が、生前の姿を完全に再現したマリィ博士よりも背丈も胸も大きくて、ユカリは不思議な感覚を抱きながら愛する人を見下ろした。


「400年……過ぎてしまえばどうということはないけれど、こうして改めて思い返してみると……うん、やっぱり長かったです」

「そりゃそうだろうねえ」

「博士、いま私がどれだけ嬉しいか分かりますか? この感情を暴発させないように、どれだけ努力して抑え込んでいるか分かりますか?」

「うーん、外見からでは全然分からないな」

「でしょうね。マユさんの肉体は完璧ですから」

「ところで、君ほどの頭脳があれば理解していないはずはないことだと思うが……」


 マリィ博士はそこで一瞬、言い淀んだ。

 ユカリの目を見る。そしてふっと口元を緩める。


「私はマリィ博士ではないよ」


 その言葉を聞いても、ユカリの表情は変わらなかった。

 全て理解していると。

 承知の上だと、そう言いたげに。


「マリィ博士は400年前に死んだ。その瞬間の記憶は残っていないが……毎日お見舞いに来てくれた君のことはしっかりと覚えている。はるか昔に私は死んだんだ。今こうして君が再現してくれた私は、単にマリィ博士の思考と記憶を複製したものに過ぎない。私はただそれだけの存在なんだよ」


 死者は生き返らない。

 時間は巻き戻らない。

 少なくとも今、自分たちが存在する宇宙の法則ではそうなっている。

 マリィ博士は蘇生した訳ではない。復活ではなく、単なる複製。

 きっとお互い理解しているであろうその事実を、マリィ博士はあえて口に出した。


「そうですね。そう……私も同じようなものです。クモザキユカリは大昔に亡くなっている。だから彼女の物語はそこでおしまいで……今ここにいる私の精神は、彼女の亡霊みたいなものです。捨てきれなかった未練を果たすための、それだけの存在」


 ユカリとマリィ博士はしばらくの間じっと目を合わせて黙っていたが、不意にどちらからともなく、ふふっと笑い声を上げた。


「……素晴らしいことですね」

「ああ、まったくだよ」


 亡霊とまがい物が、再び未来で出会う。


「愛しています、博士」

「……私も、愛しているよ。ユカリ」


 直接伝えられなかったはずの言葉を伝える、ただこの瞬間のためだけに。


「知ってます。博士が残してくれたメッセージ、全部暗記するくらい聞いたので」

「ああ……やっぱりそうか……いやまったく、この体に赤面する機能がついていなくて心底ホッとしているよ」

「アップグレードを検討しましょう。ホロを使えば簡単に追加実装できるかも」

「クモザキくん、私に無駄な機能をつけようとするのはやめたまえ」

「博士のためにすることに、無駄なことなんて一つもありません」

「……あーそろそろマユツムギさんにも挨拶した方がいいんじゃないかな? ほら、これから長い付き合いになるだろうし」

「マリィ、私と二人きりの時に他の女の話をしないで」

「他の女ってきみ……仮にもその体の主にだね……」

「マユさんは今日一日、深く眠ってもらう約束なんです。誰にも邪魔させません」

「やれやれ、すっかりたくましくなったなあ……昔は夜になると一人で寝るのが怖いからって、よく私の布団に潜り込んできたのに」

「いつの話をしてるんですか。私の享年は67歳ですよ?」

「67歳にしては随分幼い感じがするな」

「精神は成長しなかったんですよ。きっと博士が亡くなったあの日から」

「……すまなかったね。寂しい想いをさせた」

「…………本当ですよ」


 そうして二人は、夜が更けても、朝日が昇っても、いつまでも話し続けた。

 400年という時間の空白を埋めるように。

 お互いが確かにこの世に存在することを確かめ合うように。

 二人はもう、どちらも人間ではなかったから、食事も睡眠も必要なかった。

 お互いがお互いを想い合うためだけの、いびつで純粋な歯車だった。

 願いの果てに再び噛み合った彼女たちは、きっと二度と離れることはないだろう。

 真実の意味での、永遠に。

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