クモザキユカリ

「ユカリさん、退屈ですか?」

「……ん」


 ぼんやりと思考の海に沈んでいたユカリの意識は、目の前の青年の声を聞いてゆっくりと海面に浮上していった。

 上品なBGMが流れる貸し切りの料理店が、網膜に現実の像を結ぶ。

 ほとんど手つかずの料理がテーブルの上に並んでいた。

 中央に置かれているのは魚料理だろうか。芸術品のように繊細な仕事を施されたそれを一瞥し、そっとワイングラスを手に取ると、ユカリは何かを誤魔化すように軽く揺らした。


「いいえ」


 グラスに隠された口元から義務のように絞り出される声が、まるで他人事のようにユカリ自身の耳に届く。

 青年は困ったように笑って、大きめに切り分けた魚を口に運んだ。

 よく食べるものだ、とユカリは思った。

 ユカリより5歳年下の青年は、先ほどから心ここにあらずといったユカリの態度に特段気分を害した様子もなく、次々運ばれてくる料理を美味しそうに平らげている。

 ぼんやりとそれを見ているうちに、ユカリの心の中には同情心のような気持ちが湧いてきていた。


「あなたも気の毒ね……ユウト」

「えっ?」


 途端、ユウトの顔がパッと輝く。散歩に行くぞと声をかけられた犬のようだった。

 珍しくユカリの方から話しかけられたのが、それほどまでに嬉しかったのだろう。


「こんな愛想のない人間と結婚しなければいけないなんて」

「そんなこと……!」


 慌てたようにブンブンと首を振るユウトを見て、ますます犬っぽいなとユカリは思った。


「前にも言いましたけど、僕はずっとあなたに憧れていたんです。子供の頃、会食でご一緒するあなたはまだ幼かったのに、まるで大人みたいに毅然としていた。ひと目見た時から……えっと、お慕いしていたんです。そんな人と結婚できるんですから、嬉しくないわけがないですよ」

「そうなの……? まあ、いいけど」


 ユウトの情熱的な態度とセリフを前にして、ユカリが選べるのはこの素っ気ない返答だけだった。

 最初から、揺れ動くべき心などここにはない。

 二ヶ月後にユウトが誕生日を迎えて成人すれば、すぐにでも結婚式が執り行われる予定になっている。だがその事実もユカリにとっては、研究に費やせる時間が何日か無駄になるな、といった程度の感慨しか湧かないものだった。


 マリィ博士が亡くなった後もユカリが研究を続けるためには、カナザワ家に嫁ぐことで研究資金を都合してもらうしか方法がなかった。

 無論これは、ユウトの父が最大限に便宜を図ってくれた結果でもある。

 普通であれば、どこの馬の骨とも分からない小娘などを相手にするような家柄ではないということをユカリは理解していたし、その上で分不相応な選択肢を与えてくれたカナザワ家やユウトに対して感謝もしていた。

 本来ならもっと愛想を振りまいて、敬意を払うべきなのだろう。

 しかし今のユカリからは、そうした社交的な外面を取り繕う気力がすっかり失われてしまっていた。

 申し訳ないという気持ちはある。

 だが、動かないのだ。

 心が。感情が。


「ユカリさんが僕との結婚をどう思っているかは、自分なりに理解しているつもりです。この選択をせざるを得なかった経緯も。だからこそ僕は、あなたの気持ちを何より尊重したいと思っています」

「……ふぅん?」


 ほんの少し、ユカリの視界のピントが目の前の青年に合った。

 こんな態度を取り続けていれば、いずれ向こうも嫌になって形式的な会話だけになるだろうと思っていたのに、ユウトにはまったくその気配がないのもユカリにとっては予想外のことだった。


「最低限、カナザワに対する義理立てというか……その、あなたにとって不本意なこともして頂くことになりますが、それ以外! それ以外の全ては、ユカリさんの好きにして頂いて構いません。他の誰が何と言おうと、僕が保証します」

「そんなことを安易に口にして大丈夫なの?」


 顔を真っ赤にしつつ熱弁するユウトに対して、ユカリは不可解なものを見るような目を向ける。

 まだ成人前とは言え、彼はカナザワグループの次期当主なのだ。例え婚約者が相手だとしても、うかつに口約束などするべきではない。


「これは前々から考えていたことです。先ほどユカリさん、あなたは僕に気の毒だと仰いましたが、僕に言わせればあなたの方がずっとお気の毒です。あなたには救いがあるべきだ。……あ、いや、僕がそんな大層なものだと言いたいわけではなく」

「落ち着きなさい。あなたの言いたいことはわかったから」

「あ、はい。すみません……」


 半ば椅子から腰を浮かせていたユウトは、叱られた犬のように小さくなって再び席に収まった。


「でも、ありがとう。あなたの心遣いはとても嬉しい。それなら結婚後はお言葉に甘えさせてもらうことになるけど、本当にいいのね?」

「もちろんです!」

「……あなたは、いい人ね」


 ユウトの人間性にじんわりと感じ入ったかのように薄く微笑んで見せるユカリの心の中には、しかし実際のところ、波風一つ立ってはいなかった。

 今の言葉をレコーダーで録音しておくか、あるいは一筆書いてもらった方がいいだろうか、いや、そこまで露骨にやるよりも、こういう人間には感情で訴えかける方が効くかもしれない……ユカリの頭の中に浮かぶのはそんなことばかりだった。


         ◆


 マリィ博士が亡くなったあの日、本来であれば、ユカリも後を追うように自ら命を断っていたはずだった。

 生前の博士が録音していたメッセージを聞き、そしてコアから聞こえるはずのないあの声を聞かなければ、彼女の物語はそこで終わっていただろう。

 あるいは博士が病死ではなく、ある日唐突に訪れる事故死などでこの世を去ったとしたら、ユカリの精神は飴細工のように容易くひしゃげ、二度と元の形に戻ることはなかったに違いない。

 だが、幸か不幸か、マリィ博士はきちんと段階を踏んで死に向かっていった。

 ユカリは毎日博士の病室を訪れ、花を贈り、会話が途切れぬよう話し続け、幼いながらに思いつく限りのことをした。

 大人になったユカリがそれを思い出す時、いつも後悔ばかりが押し寄せてくる。


 今ならもっと気が利いたことを言えた。

 もっと上手く博士を励ますことができた。

 もっといい病院があったかもしれない。

 もっと試すべき治療方法はあったはずだ。

 いや、それよりも何よりも。

 もしもあの時。

 博士が初めて体の不調を訴えたあの日。

 自分が幼い子供などではなく、博士と対等な大人だったなら。

 無理矢理にでも博士を病院に連れて行って、検査を受けさせることができたかもしれないのに。

 そうすれば、博士は一命を取りとめたかもしれない。

 今も笑って自分のそばにいてくれたかもしれない。

 もっと自分が博士の体調に気をつけていれば。

 栄養バランスの良い料理を作って、不摂生をさせないで、健康管理をして……

 もっと自分がちゃんとしていれば。

 自分が大人だったなら。


 次々に訪れる後悔は激流のようにユカリの心を蝕み、留まる所を知らない。

 決して変えることのできない過去を悔やむのは無為なことだと理解していても、それは発作のように突然現れては嵐を巻き起こす、災害のようなものだった。

 そうして嵐が一つ去るごとに、ユカリの心は乾燥していく。

 今や、ユカリが生きている理由はたった一つしかなかった。

 マリィ博士の声が、痕跡が、何らかの形でコアに残されていることを確かめる。

 それは崖の出っ張りにかろうじて指一本引っかかったような、ほんの僅かな生きるための心の支えだった。

 マリィ博士の魂は、コアの中に生きている。

 それは不確定な仮定だったが、同時に、既に決定されている大前提でもあった。

 そうであるはずだ。

 そうでなければならない。

 そうでなければ、生きている意味がなくなってしまう。

 まず決まった結果ありきで研究を行うなど、研究者としては論外だ。しかし既にユカリは、自分が研究者であることを辞めていた。

 オカルトでもなんでもいい。人が自分を狂人だと言うなら好きにすればいい。

 世界はシンプルだ。

 自分と、マリィ博士だけ。

 そのどちらかが消えるなら、それは全てが消えることと同義だった。


         ◆


 ユカリがユウトと結婚して、一年が過ぎた。

 カナザワ家から急かされるように待ち望まれていた子供をようやくその身に宿し、それでも研究を続けていたユカリは、ついに一つの壁にぶち当たる。

 マリィ博士の声がコアの中にあるとして。

 それを適切に取り出すためには、どう短く見積もっても100年は時間が必要だ。

 手順は明確に描くことができた。だがそれ故に、自分の残り時間では到底間に合わないことも分かってしまった。

 何かしらの飛躍が起こることを期待しながら――あるいは間に合わないと分かった上で理想に殉ずるつもりで――このまま進み続けるべきか。

 それとも今から全く新しい道を模索するべきか。

 これまでたった一つの目標だけを見据えて愚直に進み続けてきたユカリは、ここに来て初めて迷っていた。

 答えの出ない思考がループする。そんな折に、ほんの気まぐれから、ユカリは夫となったユウトに問いかけてみることにした。


「ねえ。例えばの話だけど……ある目的地と制限時間があって、このまま真っ直ぐ進んでいるだけでは間に合わないことが分かったとしたら、あなたならどうする? 別の道を探そうにも、直進する以外に最短ルートは考えられないのだけれど……」


 妻となった憧れの女性からの突然の問いに、ユウトは一瞬驚いた様子を見せたが、すぐにその表情は喜びをたたえたものとなった。


「そうだなあ。僕だったら、それでも真っ直ぐ進み続ける方を選ぶと思うよ。もしかしたら計算が間違っていて間に合うかもしれないし、思いがけない出来事が起きて一気にゴールまでショートカットできてしまうかもしれない。とにかく制限時間が迫っているなら、そこで足踏みをしていたら絶対にゴールまで辿り着けないからね」


 ユウトのその返答を聞いたユカリは短く「ありがとう」と言うと、いつもそうしているように、再び思考の海へと沈んでいった。


 結局、ユカリが選んだのは、全く別の道を模索するという選択肢だった。

 時間が足りず目標に辿り着けないのなら、時間を増やせばいい。

 ユカリはかつてマリィ博士が行っていたのメモを掘り起こして、新たな研究を始めた。

 それは、人間の脳の構造と意識をコアの中に移植するというもの。

 マリィ博士が面白半分にやっていたことに、本腰を入れて取り組んでいく。

 ユカリはマリィ博士の後を追うつもりだった。

 すなわち、コアの中に自分のコピーを作成し、マリィ博士が構築したであろう博士自身の情報を探す旅に出るということ。

 それはある意味、現実逃避のようなものでもあった。

 自分の意識をそのままコアの中に送り込むことはできない。自分はこの世界に留まり、寿命を迎えて死ぬだろう。だが、コアの中に生まれたもう一人の自分は、いつか博士の情報を見つけ出すかもしれない。

 要は、意識に連続性があるかどうかの違いでしかないのだ。それが等しく自分であるならば、結果を得るのはやはり自分でしかない。

 言葉遊びのような理屈で、ユカリは自分自身を焚き付けた。

 人の願いがコアを変化させるのは、物理的に実証されていることなのだ。それならこんな小さな願いくらい、叶えてくれてもいいじゃないか。


 ユカリの研究は、彼女の死の間際まで続けられた。

 そしてユカリはその研究を、誰にも見られぬよう厳重に秘匿した。

 この想いを持っていくのは。

 この願いを抱えていくのはただ一人、自分だけだ。


 時間も、家族も、自らの命までも犠牲にしてユカリが辿り着いたのは――

 果てのない、宇宙のような暗闇の中だった。

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