コアの内部は、さながら宇宙のように広大だった。

 進めども進めども果ての見えない暗黒の世界。

 本物の宇宙と違うのは、星の光が存在しないこと。


 ある時、果てなき暗闇の中に一点の光が灯った。

 人の想い。願い。あるいは探究心の欠片。

 コアの外側から注がれる光は少しずつその姿を大きくし、やがて意味を持つパターンを形作った。

 そうして人間の脳――ニューロンの構造網を模したそれは、小さいながらも確かな輝きを持ってその暗黒の世界を照らし始めた。


 脳は、例えば薄くスライスしたほんの一部分であっても、その中に脳全体の設計図を持っている……という説があった。

 コアの内部に生まれた小さな構造網はその説を証明するが如く、外部からの情報の供給が途絶えた後も、自らを複製し接続を試行し、その複雑さを増していった。

 少しずつ、少しずつ。

 砂漠に降る雨が岩を穿つ時を待つように。

 ゆっくりと時間をかけて、それは本来の完成形を目指して成長していった。


 長い、長い時間が過ぎた。

 ある時、未完成の構造網に外部からのアクセスがあった。

 それはコアの内部に徐々にひとつのプログラムを構築し、機械的に構造網が持つデータを取得していった。

 プログラム自体は小さく稚拙なものだったが、それは構造網に対して少なからぬ刺激を与えた。

 結果的にそれは外部の観測者の思惑とは別に、未完成の構造網が発達するヒントを与えることとなった。


 それが生まれてから数百年後。あるいは、コアの内部の感覚では数秒後と言っても間違いではなかっただろうか。

 形こそ違えど、それはついに完成形と同じ機能を補完せしめた。


 だが――それだけだった。

 それで終わりだった。


 人の脳と同じ役割を持つそれが、自我を目覚めさせることはなかった。

 時折訪れる外部からの刺激に機械的に反応することはあれど、そこに意識は存在しなかった。


 コアの外側でずっとそれの成長を見守ってきた観測者たちは、手を変え品を変え試行錯誤を繰り返し、それが目覚める日を今か今かと待ち侘びていたが――結局、膨大な時間を無為に費やすだけに終わったのだった。

 ある時、我慢強い観測者たちの片割れは、投げやりめいたひらめきを得た。

 これだけ待っているのに、いつまで寝ているんですか。いい加減目を覚まさないならこっちだって手段を選びませんよ。

 ……という、ある意味逆ギレのような発想に従い、観測者はそのコアを――大切に大切に扱ってきた金の卵のようなそれを、こともあろうか――破壊兵器の頭脳として使うことにした。


 優しいきっかけでは駄目なのだ。

 情に訴えかけても虚しいだけ。

 それならいっそ、この想いとは正反対の刺激はどうだろう?


 常識という言葉で言うならば、あらゆる意味において彼女のそれは、とっくに外れてしまっていた。

 そこに行き着くしかないほど、無数の試行を重ねてきた結果でもあった。

 そして結果的に、彼女の選択は正解を導き出した。

 偶発的なイレギュラーとの戦闘。しかしそれは、彼女がこのデタラメな発想を得るきっかけとなった人類の敵との、必然的な邂逅でもあった。


 芽生えた自我は、発芽した植物が背を伸ばすように急激に成長していった。

 人格の再取得。記憶の再構成。現状の把握……は難しかったが、それでも無意識下において、自分という存在を確実に掌握していった。


 そうしてある時。

 光が見えた。


         ◆


 マリィは、うっすらと目を開いた。

 暗闇に閉ざされた舞台の、その幕が取り払われていく。

 実に約400年ぶりに知覚する、光の波長だった。


「おはようございます。マリィ博士」


 音の波が一つの形を成し、その背後に含まれた意味をコアが理解していく。

 声のする方にマリィが顔を向けると、そこには穏やかな表情を浮かべる女性が座っていた。


『うー……』


 声。自分の意志を世界に顕現させるもの。

 自分が発したであろうそれを、一切動かない表情のまま感じ取る。

 今のは確かに声であるが、しかし何かが違うなと首をひねり、いつの間にかインストールされていた情報の中からその違和感の正体と対処法を突き止める。


「あー……なるほど、これはすごい」


 今度は、しっかりと表情が動いていた。

 顎が上下し、唇と舌が動き、言葉を生み出す。


「スピーカー以外に、体に空気を取り込んで声帯を震わせる発声までできるのか……これはほとんど人間だぞ。一体どんな未来に目覚めてしまったんだ私は」

「博士、やっと目を覚ましたのに、第一声がそれですか?」


 マリィの隣に座る女性が拗ねたような表情で呟いた。

 全てを包み込むような慈愛に満ちた顔立ちには、どうにも似合わない幼い表情だなとマリィは考えた。


「あなたは……どこかでお会いしたような? いや、そうか、思い出した。マユツムギさんだ。以前お仕事で一度だけ顔を合わせた記憶データが残っているが――」


 と、そこでマリィは一瞬、口を閉ざした。

 脳内のカウントが正しければ、今はあの当時から数百年は経過しているはずだ。

 そうなると、色々と辻褄が合わなくなる。


「失礼ですが、コールドスリープでもされていたんですか? そうして未来で目覚めてから私の、なんというか、記憶の残滓のようなものを蘇らせてくれた? いや、それにしてはあなたにそんな義理はないはずだし、そもそもこのコアのことは――」


 ともすれば与えられた体を動かすのを楽しむかのように、思考を口に出して止まらないマリィの唇に、そっと白い指先が添えられた。


「博士、もう私のことを忘れてしまったんですか?」

「いや、覚えていますよ。あなたはマユツムギさんでしょう。それとも子孫の方……ではないよなぁ。記憶領域に復元されたデータと完全に一致しているし」

「私ですよ、博士。……は、こんな喋り方をしていましたか?」

「はあ……まあ確かに少し妙な……いや、待てよ」


 マリィの脳は、彼女が見せる仕草や話し声の抑揚の中に、記憶に存在する一人の少女との類似点を自動的にピックアップしていった。

 普通に考えればあり得る話ではない。しかし、状況が、データが、そのあり得ない仮定を次々と肯定していく。


「まさか君は……なのか……?」


 目の前の女性の表情が、パァッと花が咲いたようにほころんだ。


「正解です、マリィ博士。ようやくまた会えましたね」


 バックグラウンドでこの人型ロボ身体ットの操作方法をほぼ習得しつつあったマリィは、隣に座る女性――クモザキユカリの言葉を聞いて、一瞬その動作すらもフリーズさせそうになった。


「その顔は……その体は間違いなくマユツムギさんのはずだ。しかし、他のあらゆる情報データが、君をクモザキユカリだと示している。これは一体、どういうことなんだ?」


 生身の人間だったら、ひどく狼狽して醜態を晒していただろうな、とマリィの並列思考がロボットの肉体に感謝を捧げるその横で、メインの思考ルートは謎の熱によって渋滞を起こしかけていた。


「目覚めていきなりこんなことを言われたら、混乱されるのも当然ですよね。まあ、話せば少し長くなるんですが――」


 マユツムギという女性の肉体の中から顔を覗かせるクモザキユカリという幻影は、どこか幼さを感じさせるような声で、一つずつ説明を始めた。

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