今度こそ冗談だろう、とツキユメは思った。

 そう、思い込もうとした。

 マユ博士に関してはこれまでも嘘みたいなことばかりだったが、それでもたった今放り投げられた爆弾は、少しばかり度を越していた。


「あはは……」


 ツキユメは曖昧に笑いながら、受け取ったギフトにもう一度目を通す。

 期限なし。最大5人まで。特別個室。

 それは紛れもなく、VIP専用チケットだった。

 今では一般家庭でも気軽に宇宙旅行に行ける時代になってはいるが、それはちょっと地球の周りを飛ぶ程度の……言わばお遊びのようなものだ。

 だがこのチケットはそういったものとはわけが違う。

 火星への移住、しかも渡航に際してかなりの優遇措置が保証されているという、普通ではとても手が出せないような代物なのだ。


 火星のテラフォーミングが完了したのは、今から一世紀も前のことだった。

 しかしその頃には各国の努力と技術革新によって地球環境は改善し、またロボットの活用によって生活の質自体が大きく向上していたこともあり、当初の目的であったはずの火星への移住についての議論はあまり活発にはされなくなっていた。

 一応、当時から一部の研究者や奇特な大富豪など、ぽつぽつと移住を希望する者が現れており、今ではそれなりのインフラが構築されているらしいが、そういった情報は探そうと思わなければあまり出てこない。

 火星への人々の関心は既に失われつつあった。

 その原因の一つとしては、国が富むにつれて、生活が安定するにつれて、発展途上国が先進国へと仲間入りするにつれて――階段を駆け下りるように世界中の人口が減少していったことが挙げられる。

 切羽詰まった環境問題もなく、しかしロボットの補助がなければ国が回らないほどに人口が減少しているような中で、あえて火星への移住などに力を入れる理由はどこにもなかったのだ。


 だが……何故か。

 そう、何故かここ最近は、火星移住についての情報がネットポータルにちょこちょこと飛び込んでくるようになっていることを、ツキユメも感じてはいた。

 ブームというものは波のように寄せては返すものだから、今はそういう一過性の盛り上がりが来ているのだろうと他人事のように静観していたのだが……ここにきて、マユ博士から火星移住権のギフトを渡されたとあっては、さすがに奇妙な胸騒ぎを感じざるを得なかった。


「もうダメ、というのはどういう意味で……?」

「言葉通りの意味よ~。地球はあと2、30年もすれば人が住めなくなるわ~」

「うーん……」


 これはどう捉えればいいのかと、ツキユメは頭を悩ませる。

 冗談や、比喩的な表現などではないのだろう。現に冗談では済まないようなチケットまで貰ってしまっている。

 陰謀論、という言葉が頭をよぎるのは仕方のないことだった。

 人間という生物が意外とデマを信じてしまいがちなものだということは、これまでに嫌というほど歴史が証明している。

 客観的に見ればどう考えてもあり得ないだろうというレベルの嘘でさえ、本気で信じてしまう人は間違いなく存在するのだ。

 それがスピリチュアルな方向へシフトしてしまうと手に負えない。思考の基盤がめちゃくちゃになり、外部からの情報を都合のいいようにつまみ食いして独自の理論体系を構築してしまうので、これを外科的手法以外で解決するのは至難の業となる。


 さて、それでは目の前のマユ博士はどうだろう、とツキユメは冷静に分析する。

 以前の博士は――極端な二つの人格の件はともかくとして――聡明な人間だったことは間違いない。

 それが空白の10年の間に変質したという可能性は?

 あり得ない話ではない。

 人は変わる。きっかけさえあれば、いともたやすく変わってしまうものだ。

 トラッカーという脅威から人々を救うために尽力したにもかかわらず、企業と国に対して非協力的だったためにメディアや世間から散々にバッシングされ、知り合いへの連絡まで断って姿を隠さなければならなかった博士の心情は察するに余りある。


 しかし――と、そこでツキユメの思考は一旦中断された。

 マユ博士は死なない。

 この一点。

 この、どう考えても異常な、しかし現実だと認めざるを得ない一点において、彼女を他の人間と同列で語ってはならないという気持ちがツキユメの脳内に警告を発してやまないのだ。


 ちらり、とツキユメはマユ博士の顔を窺った。

 少なくとも、10年分の時間を積み重ねた顔ではない。若々しく、みずみずしく、生命力に満ち溢れている。現代の技術であればこの程度の美容保持は普通だが、外出規制に加えて世間から隠れて生活していたマユ博士の場合は、エステにしろ手術にしろ、そう頻繁に呼んだり通ったりできるものではなかったはずだ。

 それに何より、マユ博士にはそういったがなかった。

 首と顔の皮膚の差、手の指先、白目の部分の色……美容技術を駆使して若さを保っているとどうしても現れてしまう違和感のようなものが、どこにもない。

 パーツごと取り替えてしまった際に生じる全体のバランスの変化も見当たらない。

 やはりマユ博士は特別だ、とツキユメは結論付けるしかなかった。

 人型ロボットのデザインに携わり、ひたすら人間の造形を研究し続けてきた彼女だからこそ、その結論は揺るぎないものだった。


 そんな普通ではない人が、普通ではないようなことを口にしている。

 ならばそれは傾聴に値するのではないか。


「……何か根拠があるんですか? その、地球に人が住めなくなるというのは」

「そうね~……ツキユメちゃん、トラッカーの目的って何だったと思う?」

「はっ? トラッカーの目的、ですか?」


 突然の話題転換に振り回されて、ツキユメは目を白黒させた。


「それはまあ、人を殺すことだと思いますけど……」

「そう、トラッカーにはそれしかなかった」

「マユ博士……?」


 ぞくりと、ツキユメの背筋に冷たいものが走った。

 マユ博士の顔から、いつの間にか表情が抜け落ちていた。


「どれだけ分析しても、何も出てくるはずもない。奴らはそういう装置だから。ただ人を殺すために生み出された舞台装置。しかも奴らは主役ではなく、単なる前座だった。その証拠に、ここ数年でトラッカーの出現率は大幅に下がっている」


 目の前で一瞬にして豹変したマユ博士に気を動転させつつも、ツキユメの頭の中の冷静な部分は、博士の言葉に対して同意していた。

 確かに、年々トラッカーの出現率は減少している。

 日本で最後にトラッカーが確認されたのは、もう一年も前のことだ。

 このペースで出現率が減少していけば、10年ぶりに外出規制が解除されることになるだろうと言われていた。


「前座が役目を果たし、いよいよ主役がその姿を見せ始めたのよ。あなたもニュースを見ているなら知っているでしょ? 世界各地で起こっている砂漠化や異常気象、地殻変動のこと」

「それは……まあ……」


 確かにここ最近は、環境問題の再燃といったニュースが多く入ってくるようになってきている。

 しかし専門家の分析によれば、こういった環境の変化は数世紀ごとに繰り返される大きなうねりのようなもので、現代の環境抑制技術によって人間への影響を最小化してやれば問題なくやり過ごせる程度のものだという。

 そのため人々の関心もそれほど高くはないというのがツキユメの印象だった。


「聡い連中はもう動き始めている。そのせいであなたへのプレゼントも高くついたみたいね。まあ、命と未来に比べれば安いものだけど」


 火星への移住権とそのためのチケットが高騰しつつあるらしいとほのめかされて、ツキユメは半ば無意識にその話の裏を取るべく脳内で情報を検索し……それがかなり事実に近いということを確認した。


「トラッカーが減るにつれて、この星の環境は悪化していく。まるで目に見えないエネルギーを吸い取られたみたいにね。まったく、こんな悪趣味なをした奴はどこのどいつなのか……まあ、おかげでこっちの目的も果たせたのだから、そう考えると皮肉なものだけど……」


 マユ博士が呟く言葉の後半は独り言のように小さく聞き取りづらいものだったが、ツキユメはトラッカーの減少と地球環境の悪化が比例しているという部分に強く気を惹かれていてそれどころではなかった。


「……トラッカーと環境問題が関係していると仰るんですか?」

「その通りよ。それらは個別の案件ではなく、一連のものだから。世界を滅ぼすという一貫した願いの、その過程に過ぎない」


 きっぱりと言い切るマユ博士に、ツキユメは圧倒されそうになる。

 今の博士は、10年前のあの日、ツキユメの目の前でチャロの命を救ってくれたその人に違いなかった。


「あの、先程から仰っているというのは……どういう意味なんですか?」

「意味? 意味ねえ……どんな願いにも理由はあるでしょうけど、そこに意味なんてあるのかしら」

「ええっと……?」

「一度は願ったことがあるでしょ? 『こんな世界滅んでしまえばいいのに』って。そうして、世界は滅びようとしている。ただそれだけのことよ。マユさんが『死にたくない』って願ったおかげで、こうして死なない体になったのと同じように。今こうして私が存在しているのと同じようにね」


 今のマユ博士の言葉は謎めいていて、ツキユメには半分も理解できなかった。

 ただただ困惑するツキユメをよそに、マユ博士は滔々とうとうと言葉を紡ぐ。


「人がこの世に起こす変化は、全て願いから生まれているの。ただ、その多くは願いに到達するまでの過程が長すぎて、おかげで技術は発展したのだけど……その過程を省略してしまうというのは、まあ控えめに言っても致命的な欠陥ね。ひょっとしたらあえてそうしているのかもしれないけど、それはいつか聞いてみたいところね」


 優しいマユ博士とは違う、冷徹なマユ博士のはずなのに。

 その口調は、表情は、どこか愉快げですらあった。

 高揚した精神が、冷たい氷の仮面すら溶かして、饒舌にしてしまうかのように。


「……そういうことなんだけど、わかったかしら~?」

「全然わかりません……」


 謎という言葉が人の形を取ったなら、きっとこういう姿をしているに違いない。

 唐突にのマユ博士に戻ったのを見て、諦めたようにツキユメは答えた。

 結局、世界が滅ぶ根拠とやらを示されることもなく、不可解な言動で煙に巻かれたに過ぎなかったのだが……しかし何故か彼女の言葉は、妙な説得力を持ってツキユメの心に波紋を広げていた。


「まあ、今すぐに移住する必要はないわ~。子供が大きくなって、なんだか世界的にそろそろまずそうだな~ってなったら、手遅れになる前にそれを使ってくれたらいいからね~」

「そう……ですね」


 なんとなく、そう遠くない未来に自分はチャロと子供を連れて火星に移住するのだろうなという、漠然とした確信をツキユメは抱いていた。

 そんな、マユ博士から話を聞く前は考えてもいなかった自分の心境の変化に、若干の戸惑いすら覚えつつ。


「それでね~、ひとつツキユメちゃんにお願いがあるんだけど~……」

「なんですか?」


 マユ博士は内緒話をするように、ツキユメの耳に顔を近付けてくる。

 ふわりと柔らかい髪の毛が頬に当たって、くすぐったさと同時に、チャロに対する節義を感じてツキユメは少しだけ身を引いた。


「マリィ博士のデザインデータを、譲って欲しいのよ~」


 予想外の要求に一瞬、ツキユメは目を見開いた。

 ツキユメが仕事で使用しているデザインのデータは、いわゆる門外不出、秘伝のタレのようなものだ。その秘密の製法が知られてしまっては、商売にならない。

 マユ博士も恐らく、それを承知で言っているのだろう。

 ツキユメは既に、追加報酬という名目で、今回の仕事とはどう考えても釣り合いが取れないほど高価な火星移住のためのチケットを受け取ってしまっている。つまり、今更それはそれとして、などと断れるような状況ではないのだ。

 優しい顔をしていても、やはりマユ博士はマユ博士なのだなあとツキユメは感心してしまった。


「もちろん、いいですよ」


 ただ、そうした根回しがされていなかったとしても、やはり自分はデータを譲っていただろうなとツキユメは思った。

 それは、10年前のあの日に最愛の人の命を救ってもらったことに対する返しきれない恩義のためでもあっただろうし、それとは別に、マユ博士が依頼してきたこの人型ロボットマリィ博士に対する強い熱量を、仕事をする上で感じ取ったからでもあった。


「ありがとう~。嬉しいわ~」

「喜んでいただけて何よりです」


 もしも本当に世界が滅ぶとしたら。

 この程度の対価なんて、あってないようなものだ。


(世界が滅ぶ? 本当に私はそんなことを信じているの?)


 自問に対する答えは明白なはずだった。

 それでもツキユメは、いつまでもその答えを言葉にすることができなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る