めざめのはじまり

「もう起き上がって大丈夫なの?」

「平気スよー」


 気遣うように伸ばされたツキユメの手を迎えるチャロの指先と声からは、やはりというべきか、普段のような活力が失われていた。

 いつもはアップにしている前髪を下ろし、入院着を着て大人しくベッドの上に座っているチャロの姿は、ツキユメの記憶にある活発な印象とは打って変わって、小さく儚げな少女のように見える。

 まだ記憶に新しいこの病室で、ツキユメに面会の許可が下りたのは、チャロが病院に運ばれてからたった2日後のことだった。


「手術も終わってるし、あと3日くらい安静にしてたら退院できるって」

「本当に? あの時はチャロ、今にも死んじゃいそうだったのに……」


 そう口に出しただけで、あの日の光景がツキユメの脳裏にありありと蘇る。

 手の隙間から逃げていく血液の温度と鼻をつく鉄のにおい。

 密着した体に伝わる小さな鼓動が徐々に弱くなっていく感覚。

 命がこぼれ落ちていくのをただ見ていることしかできない、あの焦燥感。


「ちょっ、先輩……?」


 フラッシュバックするようにそれらを思い出したツキユメは、衝動的にチャロの体を抱きしめていた。


「私、何もできなかった」

「……そんなことないスよ」


 チャロは困惑しながらも、そっとツキユメの背中に両手を回す。

 自分を抱きしめる少女の体が、まるで壊れ物を扱うように力なく、そして小さく震えていることに気付いたからだ。


「先輩のおかげで命拾いした。もう少し出血が多かったらショックを起こしていたかもしれなかったって。先輩がずっと止血してくれてたって、マユ博士から聞いたよ。ありがとう」


 ゆっくりと、幼子に言い聞かせるように囁きながら、チャロはツキユメの背中を指先で優しく叩く。


「本当……? 私、役に立てたのかな?」

「もちろん。こうしてまた会えて、すごく嬉しい」

「私も」


 そうして二人はしばらくお互いの存在を確かめ合うように寄り添っていた。

 どこか遠い世界の存在だと思っていた人類の敵トラッカーと出会い、攻撃され、それでも生きて再び言葉を交わせることに奇跡のようなものを感じずにはいられない。

 あの日心と体に受けた傷を癒せるのは、その場に居合わせた者同士だけなのだと、そう口に出さずとも理解し合っているかのように、二人はただ抱きしめ合う。


 しかし、いつまでもこうしていたいと願っても、現実は非情だ。

 ベッドに座るチャロを抱きしめるために中腰になっていたツキユメは、ぷるぷると震える足腰の筋肉の限界を感じて、名残惜しそうにチャロから身を離した。


「えっと……結局あの後、どうなったんスか?」


 若干気まずい空気を和ますようにチャロが質問する。


「あれ、マユ博士から聞いてないの?」


 ほんのりと頬を染めたツキユメも、これ幸いとその話題に応じることにした。


「詳しいことは何も……先輩があしを助けてくれたってこと以外は」

「えっとね……」


 それからツキユメは、自分が覚えている範囲であの日のことを説明した。

 正直な所、ツキユメ自身にも何が起きたのかよく分かっていなかった。

 次々に起こる衝撃的な出来事に翻弄され続けたせいで、記憶の中にも曖昧な部分がたくさんある。


「それで……細かいことは全部マユ博士がやってくれたんだと思う」


 あの後、他のトラッカーと遭遇することもなく無事に山から脱出できたのだが、チャロとツキユメを乗せた配送車にマユ博士は同乗しなかった。

 政府や警察機関に連絡し、山の周辺に住む住民を避難させるまでは、トラッカーに唯一対抗できる新型兵器を引き上げさせるわけにはいかなかったのだ。


「次の日からマユ博士は自分の研究室に籠もりきりになったらしくて……直接会ってお礼を言いたかったんだけど、断られちゃったんだ」

「ふーん……兵器マリィの件に関してはカナザワ重工の上の人たちが決めることだから、取り急ぎマユ博士が何かすることはなかったはずスけど……」


 この国に初めてトラッカーが出現したというニュースは、大きな衝撃を伴って日本中を駆け巡った。

 しかしそれ以上に、その日出現した全てのトラッカーが、たった一機の新型兵器によって破壊されたという事実は、世界中を揺るがすに足るものだった。

 カナザワ重工には各国からの問い合わせが殺到し、対トラッカー専用新型兵器――通称”マリィ”は、急ピッチで量産体制に入ることが決定されたのだが……


 新型兵器の頭脳部分にはコアが使用されている。

 実のところ、これは前代未聞の技術であり、現状ではコアにAIを搭載できるのはマユ博士ただ一人だった。

 カナザワ重工はマユ博士に対し、コアに関する技術と情報の開示及び適正価格での買い取りを打診するも、博士はこれを一蹴する。

 その後、政府まで巻き込んだ必死の説得も虚しく、AIを搭載したコアの生産は彼女が個人的に所有している小さな工場でのみ行われることとなった。

 必然的に”マリィ”の量産体制は予想以上の足踏みを余儀なくされる。

 ポタポタと垂れる水滴をどうにか集めるようにして、日本の各都市に”マリィ”が配備されたのは、それから約半年後のことだった。

 カナザワ重工本社が専用のAIを一から組み直すことで、どうにか輸出用の量産体制は整ったものの、主要な国に”マリィ”が届く頃には既におおよその構造は解析されてしまっていた。

 基本的な性能を踏襲した上で各国の運用に沿うカスタマイズを施した兵器が独自に量産された結果、”マリィ”の輸出は当初の見込みを大きく下回ることとなった。

 致命的とも言える初動の遅さを考えれば、この流れは当然の帰結とも言えた。


 世界中に現れるトラッカーから救えたはずの命を見捨てた悪者として、あるいは日本の経済と外交に大きな恵みをもたらす千載一遇の機会を逃すことになった原因として、マユ博士には数多くの非難が殺到したが、本人は完全に沈黙を守り続けた。

 また彼女の情報は恐ろしく厳重に秘匿されており、ネット上にもその痕跡すら残されていなかったため、やがて「実際にはそんな人物は存在しないのではないか」などと言った説がまことしやかに囁かれるまでになり、日々流れ続ける膨大な情報の洪水によってそのトピックスがすっかり色褪せるまでには、さほど時間はかからなかった。


         ◆


 西側と南側にある窓を大きく開け放たれたその部屋は、研究室と呼ぶにはずいぶんと明るく開放的だった。

 屈折・拡散された日差しが柔らかく室内に降り注ぎ、時折入ってくる柔らかい風に揺られて、窓際の観葉植物の葉に乗った水滴がキラキラと宝石のように輝く。

 静かで穏やかな午後を体現したような部屋の中央にあるテーブルでは、ゆったりと椅子に腰掛けたマユ博士が、装置にはめ込まれたコアを一撫でしつつ、優しげな微笑みを浮かべていた。


「これも怪我の功名と言うのかしら」


 ぽつりと、誰かに囁きかけるように呟く。


「刺激が覚醒を促して、ようやく反応が始まった」


 ゆっくりと、笑みが深まる。

 これほど幸せなことなど他にないと言わんばかりの表情で。


「あと少し、ですね」


 彼女は目を閉じて椅子の背もたれに体重を預け、祈るように胸の上で両手を組む。

 微動だにしないその姿は、まるで美しい死体のようだった。

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