トラッカー
ゴロゴロと文字通り斜面を転がり落ちたツキユメは、ようやく動きが止まった所でうめき声と共に息を吐き出した。
体中が痛い。目が回りすぎたせいで頭がふらふらする。
そして何より、自分の上に乗っているこの熱と重みは一体なんなのだろうか。
ぼやけた視界のピントが合うにつれてツキユメは、自分の体の上にチャロが覆いかぶさっていることに気がついた。
小さな体。薄い胸。簡単に壊れてしまいそうなそれを離さぬようにと、ツキユメは無意識のうちにチャロの体をしっかりと抱きとめていたのだった。
とりあえず現状を把握し、そして次にどうしてこんなことになっているのかを思い出すために、斜面を転がり落ちる直前の記憶を引っ張り出す。
と言っても、頭をひねって思い出すまでもなかった。
簡単な話だ。
あの時、ツキユメはチャロに突き飛ばされた。
いや、正確に言えば、タックルのように体ごとぶつかられた衝撃で、二人ともこんな谷底まで転がり落ちる羽目になったのだった。
さて、原因は分かったが、次はその理由が分からない。
チャロはどうしてそんなことをしたのか?
分からないなら本人に直接聞けばいい。
そう思ってツキユメはチャロの体を引き剥がそうと手を動かし、そこでぬるりとした違和感を覚えた。
見ると、チャロの背中に回していた手のひらが、真っ赤に濡れていた。
血が溢れている。
誰の血だろうか?
そんな白々しい言葉が、思考の上っ面を滑っていく。
だが一度それを認識してしまうと、自分の体の上、ちょうど脇腹の辺りにもゆっくりと生暖かいものが染み込んでくるのを感じざるを得なかった。
チャロの体を軽く揺さぶる。しかし、反応はない。
出血は続いている。
どうにかチャロの体を自分から引き剥がすと、にちゃりと嫌な音を立てて、赤く染まった二人の服がゆっくりと剥がれた。
背中の傷から回って来たとは考えにくい血の量だ。どうやら腹部にも深い傷があるらしい。
斜面を転がる途中で木の枝でも刺さったのだろうか?
それにしては、傷口と思しき場所に何も異物が見当たらない。
背中と腹部に二箇所あるこの傷は、何かが貫通した痕だと考えた方が妥当だろう。
思考のピントが合った瞬間、うっとツキユメは息を呑んだ。
いきなり自分を突き飛ばしたチャロの行動と、彼女の腹部を貫通している傷。その二つの事実が、ツキユメの思考を容赦なく現実へと結びつけた。
できすぎている。
そんな偶然があってたまるか。
しかし事実としてチャロは今も血を流し続けている。
それが意味するところは一つ。
トラッカーが現れたということだ。
ツキユメが見つけた、遠くでチカチカと光を反射するなにか。
それがトラッカーであることを察した瞬間にチャロは即座に動き、ツキユメの代わりにトラッカーの攻撃をその身で受けたのだろう。
あまりに唐突に色々なことが起こりすぎて、悲鳴を上げるタイミングすら逃していたのは、ツキユメにとっては不幸中の幸いだったのかもしれない。
衝撃のため脳が麻痺していることを自覚しながらも、自分でも驚くほど冷静に、ツキユメはチャロの腹と背にある二つの傷をそれぞれ手で圧迫して止血を試みた。
応急手当ての知識があった訳ではない。ただ、手で押さえるくらいしか思いつかなかっただけだ。
同時に、思考操作でマユ博士にメッセージを送る。
昔ながらの手持ち型やメガネ型のデバイスだったら、こうして二つのことを同時に行うことはできなかっただろう。ひょっとしたらそれ以前に、斜面を落ちた際の衝撃で端末が壊れたり紛失したりしていたかもしれない。
未来の技術に頭の片隅で感謝しつつ、チャロが負傷したこと、自分たちの現在位置、トラッカーが出現した可能性があるということを簡潔に知らせる。
マユ博士からの返信は早かった。「すぐに行く」「動くな」という短いものだったが、ツキユメにとってそれは何より頼れるメッセージだった。
思わず緩みそうになる気持ちを引き締めて、傷を押さえる両手に力を込める。
大丈夫だ、とツキユメは自分に言い聞かせた。
今回のテストは様々な可能性を考慮して、万が一事故が起きたときのために医療用ロボットも連れてきている。
小型のため応急処置くらいしかできないだろうが、だからこそマユ博士が乗っていた浮遊装置でピックアップしてここまで連れてくることも可能なはずだ。
出血さえ止まれば。しかるべき病院へ搬送できさえすれば。未来の医療技術ならこのくらい、どうとでもなる。
少しずつ震え出す両手を誤魔化すために頭を振ったツキユメは、その瞬間、視界の端に信じられないものを見つけて固まった。
青い宝石のような輝き。
肉眼ではっきりと認識できるほどの距離に、トラッカーがいた。
思わず叫び声を上げずに済んだのは、チャロの大量出血という衝撃によって精神が麻痺していたおかげだろうか。
あるいは、動画の中で見るのとは桁違いの解像度で目に映る人類の敵の姿は、逆に現実感を薄れさせてしまうのかもしれない。
ちょうど木々の陰に隠れるようにしてうずくまっているツキユメたちには気づいていないらしく、トラッカーは一定の速度で滑るように浮遊移動していく。
だがしかし、この距離では発見されるのは時間の問題のように思えた。
どうかこのまま気付かずに通り過ぎてくれれば。
そんな祈りのような気持ちが、自然とツキユメの呼吸を止める。
永遠のように長い数秒間が過ぎた。
不意にトラッカーの動きが、ピタリと止まった。
前も後ろもないトラッカーが今、どこを向いているのか判断する術はない。
しかしツキユメは、その無機質な球体がじっとこちらを凝視しているように思えて仕方がなかった。
頭の中心が冷えていき、胸の奥がギュッと鷲掴みにされる。
その感覚をツキユメは知っていた。
冷凍睡眠装置に入った時に感じたものと同質の、リアルな死の予感だった。
脳に直接干渉してくるような、どこか神秘的ですらある音が響くとともに、トラッカーの周囲の空間が微かに歪んだように見えた。
と、次の瞬間、何かが破裂するような音が辺りに響く。
二度、三度とそれが続いた。
一瞬ツキユメは、自分が撃たれたのだと思った。
しかし、木の幹が抉れる音、何か柔らかい塊が撃ち抜かれるような音を聞かされながらも、一向に痛みはやって来ない。
では一体何が撃たれているのだろうかとツキユメが考え始めたところで、突然の轟音と共にトラッカーがいた辺りの空間が一瞬にして爆散し、濃い土煙がもうもうと立ち昇った。
パラパラと降り注ぐ土砂を弾きながら、八本脚の蜘蛛型兵器が降り立つ。
恐らく上でチャロを撃ったトラッカーとも戦闘が発生していたのだろう、その丸いボディの表面には抉られたような傷跡が散見されるものの、どっしりとした歩行に
助かった、とツキユメは思った。
蜘蛛型兵器はトラッカーがいた辺りをうろつきながら、無数に散らばった球状の青い宝石のような残骸を回収している。次の弾丸へと再利用するためだ。
補給を考慮せず、破壊した敵の体を弾薬として再利用することで戦い続けるというチャロの構想は、図らずとも実戦においてその有用性を示していた。
「無事みたいね」
突然声をかけられて、今度こそツキユメは悲鳴を上げて飛び上がった。
「マユ博士、」
脅かさないで下さい。と言おうとして、ツキユメは言葉を飲み込んだ。
マユ博士の顔や髪の毛は、土でひどく汚れていた。
それだけではない。よく見れば白衣の各所に穴が空き、ボロボロになっている。
「……あの博士、チャロの血が……止まらなくて」
だがツキユメはマユ博士に何があったか質問するよりも、チャロの治療を優先するべきだと判断して言葉を選択する。
「息はしてるけどだんだん弱くなってて……医療用ロボットは……?」
「落ち着きなさい。もう来てる」
マユ博士が指差すのは上空だった。
浮遊装置に乗せられた小型のロボットが、ツキユメとチャロの元へゆっくりと下りてくる。
ツキユメがチャロの体を引き渡すと、ロボットは手早く傷口付近の服を切り取り、柔らかい触手のようなアームを伸ばして止血を始めた。
「心肺停止していないなら、後はこれに任せておけば病院までは十分持つはずよ」
「よかった……」
「それより意識がない方が気になるわね。頭でも打っていたらそっちの方が危険な可能性がある……念の為頭部の検査もさせておきましょう」
医療用ロボットにテキパキと指示を与えるマユ博士を見て、ツキユメはずっと
気が抜けるにつれてズキズキと全身に痛みが戻ってくる。
打ち身や擦り傷が無数にあるのだろう。ひょっとしたら、どこか骨折くらいはしているかもしれない。
それでも、自己判断ではあるが、命に関わるほどの怪我ではないと思えるだけマシだった。
「マユ博士……博士も怪我したんですか?」
チャロのことを任せて、自分の体も大丈夫だろうと判断して、ようやくツキユメは目の前の女性がボロボロの姿をしていることについて言及した。
「転んだだけ。問題ない」
その素っ気ない返答に、ツキユメは思わず苦笑する。
果たして山の中で転んだだけで、そこまで服がボロボロになるものだろうか、と。
「私よりあなたの方がよっぽどひどい有様だと思うけど。立てる?」
「まだちょっと……体に力が入らなくて」
「そう。それならチャロの応急処置が終わるまで座って休んでなさい」
マユ博士がここに来るまでに何が起きたのかは分からないが、肉体的にピンピンしているのは確かなので、それ以上ツキユメは聞かないでおこうと口をつぐんだ。
もしかしたら本当に転んだだけなのかもしれない。あるいは木に引っ掛けてしまったとか……。
べったりと土の地面に腰を下ろし、近くの木の幹に背中を預けて、ツキユメはマユ博士の顔を見上げながら現状を再確認してみた。
テスト中に本物のトラッカーが出現し、人が撃たれた。
冷静に考えてみればとんでもない事態だ。
恐らくこれが日本で初めてトラッカーの出現が確認された事例になるのだろう。
とんだ実弾演習になってしまったが、チャロたちが開発した兵器は、本物のトラッカーを相手にした実戦においても期待以上の働きを見せたのは確かだった。
あの兵器が近くにいるならば、とりあえずは最悪の状況からは脱したと考えていい……はずだ。
ツキユメがそう結論づけた瞬間、無慈悲な音と共にその考えは即座に否定された。
マユ博士の頭部が、突然、真っ赤な薔薇のように咲いた。
正確に狙い澄まされた青い弾丸が一瞬にして頭部を貫通し、その中身とふわふわの髪の毛の束をまとめて地面にぶちまける。
力を失った体がゆっくりと傾いていくのを、ツキユメは映画でも見ているような非現実感を覚えながら呆然と見上げていた。
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