未来ガジェット
一歩外に足を踏み出すと、濃密な熱気がツキユメの顔を包み込んだ。
減熱粒子が散布されていた病院の屋上庭園とは一線を画す、本物の夏の空気だ。
「ほら、先輩」
息苦しいような感覚にツキユメが顔をしかめていると、チャロがバッグから帽子を取り出して渡してきた。
「えー……」
ツキユメがしぶしぶといった様子でそれを受け取るのには、理由があった。
その帽子は、黒の中折れ帽。ツキユメにとってはステッキを持った紳士がかぶるようなイメージの代物で、一応可愛らしさを演出する黒のリボンが付いているものの、遠目には目立たない。これをツキユメのコーディネートと合わせると、やや似合い過ぎてしまうのだ。
渡された着替え一式の中にそれが入っているのをツキユメは確認していたが、さすがにこれはやり過ぎだろうと思い、そのままチャロに返したのだった。
「ちょっとこれは……恥ずかしいかな」
「何言ってんスか。帽子なしで出歩いたら倒れちゃうよ?」
そういうチャロはいつの間にか、青色のキャスケットをかぶっていた。色気も何もあったものじゃないが、妙に似合っている。
「まあ、仕方ないか……」
この時代はどんなファッションをしていても誰も気にしないとチャロが言っていたことを思い返し、ツキユメは意を決して帽子をかぶる。
すると、途端に暑さが和らいだような気がした。
「あれ? なんか涼しい?」
気のせいではない。
火照っていた顔が冷気に包まれるような感覚。そして、今まで顔に当たる直射日光のせいで気付かなかったが、長袖のジャケットを着ているというのに体が全く暑さを感じないことに今更ながらツキユメは驚いた。
「言ったとおりでしょ? 病院着よりは涼しいって」
得意そうな顔でチャロが言う。
「なにこれ、どういう仕組み?」
「体温調節機能付きの服スからね。たぶん先輩の時代にはなかったでしょ? あしも詳しい仕組みまでは知らないスけど……」
体温調節機能が付いた服ならば、ツキユメの時代にもあるにはあった。
ただしそれは汗を吸収して発熱するだとか、触れる表面積を少なくして涼しく感じさせるだとか、その程度のものだ。こんなにも劇的に温度を変化させるような服は、まず間違いなく存在していなかったはずだ。
「この時代の服ってこれが普通なの……?」
ツキユメは恐る恐る尋ねた。
はっきり言ってこれは革命的な代物だ。冷房も暖房も不要になってしまう。
原理はさっぱりわからないが、肌触りは普通の服と変わらない……というよりも、絹のように滑らかで心地よい感覚は、裕福な家庭で育ったツキユメにとっても驚くほどのクオリティだ。
ぱっと見ではわからないような部分が明らかにおかしなレベルで発展している。
ツキユメが予想していたものとは全く異なる未来の姿が垣間見えたようだった。
「もちろん、調節機能がついてない服もあるスよ。そっちの方がずっと値段が安いから、まあ棲み分けってやつスね。冬とかは重ね着すれば普通の服でも問題ないし、屋内に入っちゃえば関係ないから需要は普通にある感じで」
なんだ、普通の服もあるのか……と一瞬ほっとしたツキユメだったが、それはつまり、今着ているこの服はそれなりに値が張るものだということだ。
育ってきた環境のせいで与えられることに慣れきっていたけれど、お礼の一つもしないのは不義理に過ぎるだろうと、今更ながらにツキユメは思い当たった。
「なんか、ごめんね。この服高かったんだよね? 私、気付かなくて……」
ツキユメが申し訳無さそうな声で言うと、チャロはキョトンとした顔でツキユメを見返した。
「あしが先輩に着せたいと思って贈ったんスから、先輩は別に値段とか気にする必要なくないスか?」
「それはそうかもだけど……」
「まあ、そうスね。退院祝いってやつスよ。むしろあしの方がごちそうさまって感じなんで……お礼にまた別の新しい服でも……やべ、永久機関きちゃうよこれ……」
勝手に自分の世界へと突き進むチャロに若干引きつつも、ツキユメにはそれが自分を気遣っての言葉だということくらいは理解できた。
かなわないなぁ、と心の中で呟く。
「……ありがとう、チャロ」
「ん、どういたしまして」
何に対するお礼? なんて野暮なことは言わずにサラリと流す。
そんなチャロの大人な態度を見て、ツキユメはなんとも言えない温かな感情が胸の中に広がるのを感じた。
きっとこれは憧れというものだ。
子供みたいな見た目なのに、しっかりと大人をやっている。
自分とは正反対のチャロにそういった感情を抱くのは、ツキユメにとってはごく自然なことだったのかもしれない。
「さて、それじゃあまずは……なにはともあれ、ケータイを買わなきゃスね」
「ケータイ?」
聞き覚えがあるようなないような単語に、ツキユメは首を傾げる。
「携帯端末スよ。えーと先輩の時代だと……」
「ああ、端末ね」
合点がいったツキユメは、ぽんと手のひらを合わせる。
彼女の時代の端末は、メガネ型が主流だった。
レンズ部分に画面が表示されるタイプの端末は、実はかなり昔からある形だったのだが、ツキユメの時代に改めて流行したそれは当然ながら機能が段違いだった。
音声や瞳の動き、指の動きなどを組み合わせた操作性は非常に快適で、病気によって体がうまく動かせないツキユメでも問題なく操作することができた。
あの端末がなければ、ツキユメは今の年齢まで心を保つことができなかったのではないかと本気で思っている。
しかし、この時代の端末はどうやらメガネ型ではないようだった。
チャロもそうだが、病院で見かけた患者やスタッフの中で、メガネをかけている人は誰もいなかった。
「私が使ってたのはメガネ型なんだけど……あ、メガネってこの時代にもある?」
「当然、あるスよ。まあファッションに興味ないあしには無縁スけど……今の主流のケータイは、これスね」
そう言ってチャロは、ぺろりと左腕の袖を捲ってみせる。
そこには……文字盤のない腕時計としか形容しようがないような、黒いリストバンドが巻かれていた。
「腕時計型……? にしては、ただのリストバンドにしか見えないけど……」
ツキユメは、やや拍子抜けしたような気持ちになった。
腕時計型の端末は昔からあったが、いつの時代においても大々的に発表されては、いつも主流になれずに気付けば消えているという悲しいタイプだったからだ。
いや、だが待てよ、とツキユメは思い直す。
250年後の未来で主流となっている端末が、そんな残念なものであるはずがない。
この未来の世界においては、決して見た目に騙されてはいけないということが、ようやく彼女の思考にも染み付いてきたようだった。
「これは……なんて説明したらいいんスかね。人と一体化する……みたいな?」
「全然わからないけど……これ、ディスプレイは? ホログラム?」
この時代でもまだホログラムディスプレイが現役で使われているのは、介助ロボットのジョイに見せてもらったことで確認済みだ。
確かにツキユメの時代のものとは比べ物にならないほど――それこそ本物と区別がつかないレベルで――クオリティが向上していたものの、それでもツキユメにとっては見慣れたホログラムが250年後にも使われ続けているのは、安心するような、ちょっぴり残念なような、微妙な気持ちを抱かせる。
最新の端末にホログラムが使われていてもまあ、いいんだけど……せっかく未来なんだからもっとこう、すごい技術はないの? という妙な上から目線をツキユメがしてしまうのも、無理からぬことだろう。
だが、チャロの回答はそんな予想を軽く超えるものだった。
「ディスプレイは、ここスよ」
そう言って、チャロは自分の目を指差して見せる。
目だ。見間違えようもなく、目。
「……網膜に、直接投射? いやいや……」
それはさすがにあり得ない。
だって、それなら当然メガネ型のはずで、腕時計型であることの説明がつかない。
混乱するツキユメを見て、チャロは愉快そうに笑った。
「わかりやすくしようとして逆に誤解させちゃったスね。正確には
「……はあ?」
突然のぶっ飛んだ説明に、ツキユメは理解が追いつかなくなった。
脳に直接映像を送る? しかも腕につけた装置から? そんなこと普通、できるはずがない。
……そう、普通なら。ツキユメが知っている常識で言うならば、そうだ。だがしかし、ここは、彼女の理解が及ばない遠い未来の世界なのだった。
「えっ、えっ、じゃあ……脳にチップ的なものを埋め込んだり……?」
電脳化、というのはフィクションでは定番の設定だ。
実際、医療の分野では脳に機械を埋め込んで特定の部位に電気刺激を送るという治療法もあった。
だがしかし、脳とガジェットを融合させて、直接ネットワークと接続するとなると話は全く違ってくる。安全面や倫理観から見てもさすがに現実的ではないため、そんな未来は来ないだろうと笑い飛ばしていたのだが……まさか、本当にそんな未来が来てしまったのだろうかとツキユメは
「うわ、なにそれ。結構怖いこと考えるスね」
だが、チャロの反応はツキユメの妄想を否定するものだった。
まあ普通に考えたらそうだろう。脳に機械を埋め込んだとして、それが古くなったり故障したりするたびに開頭手術をしなければならないのだ。誰が好き好んでそんな危険と隣り合わせの面倒なことをしようと思うだろうか。
「普通に、この腕のケータイから脳に直接映像を送ってるだけスよ」
「普通じゃないよそれ……」
普通ではない。どう考えてもおかしい。
だが、この時代ではそれが普通なのだ。普通にできてしまうほどの技術があるということなのだろう。
「じゃあ今、チャロの目には画面が映ってるってこと?」
「そうスね。この辺に……」
そう言って、チャロは両手を思い切り伸ばしながら長方形を示してみせる。
「レイヤーを重ねる感じで画面が浮かんでるスよ」
「結構でかいね……」
「でかくも、小さくもできるスけど」
「どうやって操作するの?」
「どうって……こう……」
チャロの瞳が軽く動くものの、他に手を動かしたりしている様子はない。
しかし確かに、彼女は自分だけに見える画面を操作しているのだろう、その目は宙空に浮かぶ見えない何かを追って動いているようだった。
「視線操作?」
「んにゃ、思考操作スね」
「思考!?」
「動かそうと思えば画面を動かせる感じ。考えたことを検索したり……」
まさかの、完全思考操作デバイスだった。
そんな技術が市販品のレベルで流通するなんてことがあり得るのだろうか? などと、今日何度目になるのかわからない、答えのわかりきった問いを、それでもツキユメは心の中で投げかけずにはいられなかった。
考えるだけで、自分にだけ見える端末の画面を操作できる。
指一本動かさずに、恐らく目を閉じた状態ですら、世界中の誰かとコミュニケーションを取ることができる。
それは……それはまるで、テレパシーだ。
思うだけで、誰かと会話できる。文字情報か、音声情報かなどといった区別はこの際、些細な違いでしかない。
いや、自分の思考がダダ漏れになる心配がない時点で、テレパシーなどよりもずっと上の技術とすら言えるかもしれない。
電脳化? 冗談じゃない。既にこの技術はそんなものをとっくに飛び超えている。
大それた手術も義体化も、脳みそだけを取り出して緑色の液体の中に浮かべる必要もない。ただこの腕輪を身につけるだけで、この世の誰もが分け隔てなく、その意識を直接ネットワークに接続できてしまうのだから。
この世界の人々は……さも当然のように、現実の世界とネットワークの世界をごく自然な形で融合させながら、普通に生活を送っているのだ。
対象がネットワークに接続されてさえいれば、ただ思うだけであらゆる機器を自在に操作できてしまうのだろう。そう、ツキユメの担当医のサイトウが、最初に彼女のベッドを指一本動かさずに変形させた時のように。
そこまで考えて、ツキユメは、くらりと目眩を覚えた。
目に映る世界は、250年前とそれほど違いはない。
道路があり、街路樹があり、人々が歩いている。
だが、目に見えない部分は違う。違いすぎる。
彼女のような睡醒者以外の現代人にとっては、この目に映る現実というのは世界の一側面に過ぎないのだ。
誰もが自分の脳内に、もう一つの世界を持っている。
外からそれを物理的に観測する術は、ほとんどない。
目の前に佇むチャロは今、自分を見ているように見えるけれど、本当に自分を見ているのだろうか? 脳内の世界では、別の誰かと話しているのではないだろうか? あるいは退屈を紛らわせるために、ゲームや暇つぶしのネットクルーズをしていたりしないだろうか……そんな疑心暗鬼にも似た何かが、ツキユメの心の中に現れては消えていった。
不安だった。自分だけが繋がっていない。自分も早く繋がらなければ。そんな焦りが内側からにじみ出てくる。
ツキユメは、この世界の人々のことが――この世界で暮らすということがどういうことなのか、分からなくなりそうな予感を覚えて身震いした。
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