退院

 チャロと出会うことで明確な目標ができたおかげか、ツキユメのリハビリはその後も順調に進み、あっという間に退院の日を迎えた。

 退院の準備と言っても、まとめるような荷物はなにもない。今朝は病院食も出ないので、ツキユメは若干手持ち無沙汰な気持ちで窓の外を見ていた。

 持っているものはただ、この身一つだけ。少し心細いような感覚と同時に、どこまでも行けそうな自由をツキユメは感じていた。


「おはようございまス、先輩」


 未だにどこに設置されているのかわからない室内スピーカーから、チャロの声が聞こえてくる。

 ツキユメが入室許可を出すと、大きなバッグを抱えたチャロが入ってきた。


「おはよう……その荷物は?」

「やだな、先輩。着替えスよ。その格好じゃ出歩けないでしょ?」


 チャロに指摘されて初めて、ツキユメは自分が入院着のまま退院しようとしていたことに気が付いた。

 目覚めた時から――正確には、目覚める前の入院生活でも――ずっと同じような服を着ていたので、あまりにも馴染んでしまって忘れていたのだ。


「あしは外で待ってるスから、着替えたら教えてね」

「うん、ありがとう」


 いわゆる普通の服というやつを着るのは何年ぶりだろうか。ツキユメははやる気持ちを抑えながらバッグを開けて服を取り出す。


「下着もある……」


 いや、あって当然というか、なければ困るのだが……それにしても、どうしてどれもこれも、ことごとく測ったかのようにサイズがピッタリなのだろうといぶかしみながらも、ツキユメは順番に服を身に着けていった。


「チャロ、これちょっと派手じゃない?」


 バッグに入っていた一式を着てから外で待機していたチャロを呼ぶと、彼女は興奮した様子で頬を上気させながらツキユメの周りをぐるぐる回り始めた。


「そんなことないスよ! シミュレーション通り、めちゃカッケース! はあ……やっぱデータと生は全然違うわ……これは完璧……」


 うっとりと自分の世界に入り込んでいるチャロにやや引いた視線を向けつつ、ツキユメは改めて自分の姿を見下ろす。

 ワインレッドのブラウスに、黒のジャケット。黒のパンツと、黒のローファー。

 全体的にフォーマル寄りのパリッとしたコーディネートだが、ブラウスは首元から胸までたっぷりとフリルがあしらわれており、ジャケットもウエストから裾にかけてひだのように装飾されているため、可愛らしさと格好良さが両立している。

 ツキユメの中性的な顔立ちと、すらりとした長身も相まって、彼女を実際の年齢よりもぐっと大人に見せていた。


「未来のファッションって、もっとこう……ピカピカ発光したりとか、そんなイメージだったけど……」

「ああ、もちろんそういう服を好んで着る人もいるスよ。常に動画流しっぱなしとか。でも先輩には似合わないと思って、なるべく先輩の時代に近い服を選んだの」

「それは、嬉しいけど。時代遅れって感じに見られない?」

「時代遅れ……?」


 言葉の意味がわからない、という風に、チャロは首をひねって考え込む。

 少しの間、猫のように視線をキョロキョロと虚空にさまよわせた後、ああ、と得心がいったように微笑んだ。


「先輩の時代と違って、今はもうファッションの流行を気にする人はいないスね。どんな服を着ていても、誰も気にしない。着物を着てる人もいるし、装飾が一切ないシンプルな服の上にバーチャルのデザインを乗せてる人もいるし。あしの服だって、実用性重視だから先輩の時代の服に近いでしょ?」


 言われてみれば、とツキユメは改めてチャロの服を見る。

 汚れた白衣の下は、ポケットがたくさんついたシャツとオーバーオールだ。なんならツキユメの時代よりも更に古いデザインなのではないだろうか。


「なるほど……」


 ずいぶん楽な時代になったのだな、とツキユメは思った。まあ、物心ついてすぐに入院生活に突入してしまった自分としては、友達とファッションの話題で盛り上がるような経験さえないのだけれど……などと、少しだけ自虐的な気持ちにならないでもなかったが。


「でもこれ、暑いんじゃない? ここ数日は少し涼しくなってきたみたいだけど、まだ外は30℃くらいあるって聞いたよ?」


 昨日、ツキユメがジョイから聞いた限りでは、まだ日中の最高気温は真夏並と言っても過言ではないそうだ。その中を黒のジャケットとパンツ姿で出歩くのは、病み上がりのツキユメにとってはかなり厳しいだろう。

 まあ、病院から出てすぐにタクシー的な乗り物に乗るのであれば関係ないのかもしれないが……それでもわざわざ夏にこのファッションを選ぶ必要はないのではないだろうか。そんな思いを込めて、ツキユメはチャロに疑問の眼差しを向ける。


「? 暑くはないと思うスよ? 病院着よりは」

「えっ? そうなの?」


 なんだか、会話が噛み合っていない気がする。

 頭の中のはてなマークに押されてツキユメの首がぐぐっと傾き始めた時、部屋の中に介助ロボットのジョイの声が響いた。


「おはようございます。入室してもよろしいですか?」

「ああ、ジョイ。どうぞ」


 いつも通り、入室の許可を求めてからジョイが入ってくる。勝手に入ってきてもいいよとツキユメは何度か言ったのだが、さすがにそこは規則で決まっているので破ることはできないらしかった。

 この時代のAIはさすがと言うべきか、普通に会話している限りにおいては、人間を相手にしているのと何ら遜色がない。だからこそ、時折見せるロボットらしい融通の利かなさを目にするたびに、ツキユメは少し微笑んでしまうのだった。


「素敵な服ですね。よくお似合いです」

「ありがとう。こっちの準備は終わったよ」


 最新のAIはお世辞も抜かりがない。

 ジョイの言葉を聞いて、チャロも「そうでしょうとも」と我が事のように頷く。


「それでは、行きましょう」


 心の準備はとっくにできている。

 ただ、ただ少し。名残惜しいという気持ちが、ツキユメの足を一瞬だけ止めた。

 振り返れば、目を覚ました時と何も変わらない部屋があった。

 ピンク色の内装、小さな窓、軽い歩行訓練もできるくらいの広さがあり、個室トイレにシャワーまでついている。

 冷凍睡眠から目覚めた者――睡醒者すいせいしゃには、もれなくこういった豪華な個室があてがわれるのだそうだ。

 ツキユメの時代から少し時が進んでも、冷凍睡眠装置に入ることができたのは、一部の富裕層に限られていたらしい。つまり、睡醒者はもれなくお金持ちのVIPというわけだ。当然、インフレや物価の変動などを考慮して、特別法により睡醒者の財産は現代の価値に変換して保持されている。

 ツキユメにも未来で目覚めた時のために、両親がそれなりにまとまった財産を残してくれてあった。

 親から残されたものがお金だけというのは少し寂しい気もするが、これからお世話になるチャロに金銭的な負担をかけずに済むというのはありがたい話だとツキユメは思った。


「ところで……チャロ」

「なんスか?」


 ジョイに先導される形で病院の廊下を歩きながら、ツキユメはずっと気になっていたことをチャロに聞いてみようと思った。


「なんか喋り方変わってない?」

「あ、気付いた?」


 へへっと照れくさそうに笑うチャロ。

 初めて会話をした時から比べて、彼女の言葉遣いは少しずつ、ツキユメに理解しやすい形へと変化していた。


「あしの喋り方、完全にスラング混じりって感じだったから、先輩にはわかりにくいだろうなと思って。ちょっと勉強したんスよ」

「あらま……」


 ツキユメの胸が、驚きと同時にキュッと跳ねた。

 自分のためにそこまでしてくれたのかという感動と、それをことさらに強調しようとしない奥ゆかしさをチャロから感じて、ああ、やはり彼女は大人の女性なんだなとツキユメは実感したのだった。

 こうして並んで歩いてみると、改めて、彼女の小柄な体を意識してしまう。二人の身長差は20センチもあるが、彼女はそれを感じさせないくらいに……頼もしい。

 ツキユメは、自分の中に初めて生まれた不可思議な感情に戸惑いつつも、どこかホッとするような心地よさも感じていた。


「あれ? ここって……」


 ふと気づくと、ツキユメたちは職員用のバックヤードに足を踏み入れていた。

 方角的には出口のあるロビーとは反対側で、やや狭い廊下が続いている。


「チャロ様の要望により、カナザワさんには裏口から出て頂くことになりました」


 ジョイの言葉を聞いて、ツキユメは「どういうこと?」とチャロに顔を向ける。


「表に二人くらい、撮影者がいたもんで」

「撮影者?」

「先輩って、一応最古の睡醒者なんスよ? そういうのを扱うサイトじゃ先輩の目覚めがちょっとしたニュースになってて。あしの所にも取材のオファーが来たから、とりあえず全部断ったんスけど……どこから情報を掴んだのやら」


 そういえば、自分は最初期に冷凍睡眠装置に入った人間だったっけと、ツキユメは思い出して納得した。


「これからも追いかけられたりするのかな……チャロに迷惑かけちゃわない?」

「心配無用スよ。そういうのが好きな層でも法を犯してまで追いかけ回すメリットはないし。表のあいつらは、運良く撮れたらいいなーくらいの暇人スからね。退院しちゃえば、もう誰にも先輩の事情なんてわからないスよ」


 確かに、病院内でも他の患者からジロジロ見られるようなことは一度もなかったなとツキユメは思い返す。

 この時代の個人情報の扱いがどうなっているのかはわからないが、少なくともツキユメの時代の基準で考えてみれば、顔や名前などの情報は出回っていないはずだ。


「ご案内は、ここまでになります」


 ジョイの声を聞いてツキユメがハッと我に返ると、守衛室のような場所の受付近くに立っていた。目の前の扉を開ければ、そこはもう外の世界なのだろう。


「主治医のサイトウから、お見送りできなくて申し訳ないと言伝を預かっています」


 ジョイはそう言うと、体の前面に縦長のホログラムディスプレイを呼び出した。

 そこには何やら忙しそうにしているサイトウの姿が映し出されている。


『やあ、カナザワさん。慌ただしくてすみません。退院おめでとう』


 録画なのか、リアルタイム通信なのか、ぱっと見ただけでは判断がつかない。

 ツキユメは返事をするべきなのか迷い、とりあえず黙っておくことにした。


『本当は私もお見送りするつもりだったのだけれど、急用が入ってしまってね。申し訳ないが、この形でご挨拶だけ』


 本当に忙しい間を縫って時間を取ってくれているというのが、見ていてわかった。

 こんな未来になっても、相変わらず医療従事者は多忙なのだなとツキユメは思う。


『カナザワさん、どうかこの時代を楽しんでいってください。こんなご時世ですが、探せばいくらでも楽しみを見つけられます。自分の足で歩いて、自分の目で見て、この時代を感じてみてください。せっかく健康な体を手に入れたのですから、どうか、お体を大切に。何かつらいことがあったら、いつでも相談に乗りますよ。それでは』


 きっと彼は、こうして何人もの睡醒者をこの世界に送り出してきたのだろう、とツキユメは思った。

 万感胸に迫るとはこういうことだろうか。きっと言葉にしようと思っても、うまくできなかっただろう。

 何もかもが初めてなのだ。健康な体で、成長した姿で、外の世界を歩くということ自体が。だから、そんな自分に「楽しんで」と声をかけてくれたのは、きっと気を張りすぎるなというメッセージなのだろうとツキユメは思った。


「それじゃ、行きまスか」

「あ、ちょっと待って……」


 ツキユメは最後に、ジョイのボディにそっと手を伸ばす。

 滑らかな手触り。どこにも引っかかりがない。触れる者に怪我をさせないように、怯えさせないように、考え尽くされた技術の結晶だ。


「ジョイ、今日まで本当にありがとう」

「どういたしまして。これが私の仕事ですから」


 少し躊躇いながら、ツキユメはジョイに最後の質問をする。


「ねえ……ジョイは私が退院したら、私のことを忘れちゃうの?」


 恐らくそうなのだろう、という確信があった。

 患者の個人情報を個々のロボットが保持し続けるのは、リスクが大きい。

 それでも――ツキユメは聞かずにはいられなかった。


「カナザワさんとの会話で得た個人的な情報は、全て消去されます。ですが、あなたと共に過ごした17日間があったというはずっと保存されます。またこの病院に来ることがあれば、ジョイに声をかけてください。私たちは全てのを共有しています。きっとすぐにあなたのことを思い出すでしょう」


 ツキユメは、少しの間、声を出せなかった。

 驚きと、喜びと、寂しさが混ざり合って、フリーズしてしまったかのようだった。

 自分のことを覚えていてくれる。それがどれほど嬉しいことか。

 この世界で一人きりで目覚めてから、ジョイはずっとそばにいてくれた。彼女に対する思いは、とても言葉では表現しきれない。


「よかった……ありがとう」


 だからツキユメは一言、感謝の言葉ひとつでそれを代弁する。

 震える声も、流れる涙の意味も、ジョイが内蔵する最新のAIならば、きっと人間と同じように理解してくれるのだろう。


「お大事になさってください」


 250年前から変わらない、病院における定形の挨拶。しかしツキユメにとっては、もうずっと長い間、自分にかけられることはなかった言葉だった。

 ジョイのその言葉に背中を押されるようにして、ツキユメは歩き始める。

 目の前には、未知の世界へと続く扉が大きく開け放たれていた。

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