10月、真夏の出会い

「ねえジョイ、今日は外に出てみたいんだけど」


 リハビリが始まってから三日ほど経過する頃には、ツキユメはもう病院内を歩き回れる程度まで回復していた。

 とはいえそれは、介助ロボットのジョイが付き添っているからこそだ。

 そもそもツキユメは冷凍睡眠装置に入るまでの数年間、ベッドと車椅子の上だけで生活していた。歪んだ手足では運動などできるはずもない。

 そのため今でも心肺機能はひどく衰えたままで、数メートル歩いては休憩を挟まなければならないほどだった。

 歩行もまだぎこちない部分があり、疲労が溜まるとすぐに転びそうになってしまう。ジョイが近くにいない状態で歩き回るのはまだまだ危険と言えた。

 今は体力をつけることが最優先事項だ。よく食べ、よく眠り、よく運動することが推奨されていた。


「現在の室外気温は33℃です。入院着のまま外に出ることはおすすめできません」


 季節は10月の中旬。まだ真夏と言っても差し支えない時分だが、ツキユメが暮らしていた250年前の時代でも今頃の時期の平均気温は同じくらいだったことを考えると、どうやら地球温暖化は改善とまではいかずとも、大幅な悪化は食い止められているようだった。


「そのくらいなら大丈夫だよ。そうだ、この病院って屋上庭園があるんだよね。行ってみたいな」

「屋上は減熱粒子が散布されているので、気温は27℃ほどです。行くのは構いませんが、直射日光は避けてください」


 ジョイからの許可が出たツキユメは、喜び勇んでエレベーターに乗り込んだ。

 他の患者はどうかわからないが、ツキユメの場合は自分でエレベーターを呼んだり、各所の扉を開けたりすることができないようになっている。

 恐らく事故防止のためだろうが、最近のツキユメにはそれが少々窮屈に感じるようになってきていた。健康な体を取り戻して初めて、ツキユメは自分が意外とアクティブな性格だったことに気が付いたのだ。

 日がな一日ベッドの上で過ごしていた頃は、鬱屈した気持ちから逃避するようにネットに依存し、時々波のようにやって来る無力感に抗うこともできなかった。

 そのため自分は内向的な性格なのだと、知らないうちに決めつけてしまっていたらしい。

 環境が変われば人は変わる。

 肉体が健康になれば精神もそれに追従する。

 頭痛がひどい時、人は不機嫌になり、空腹が満たされた時、人は寛容さを取り戻すのだ。

 そんなことを考えながらツキユメは、またひとつ未知の世界を既知へと変えるべく屋上庭園に通じる扉をくぐっていく。


「あっつ……」

「水分を補給してしばらく休憩してください。必要ならお部屋まで運びましょうか」


 数分後、ツキユメは屋内に退避して、椅子形態になったジョイの上でぐったりとしていた。

 実に数百年ぶりとなる外の世界は、ぬるま湯のような環境に慣れ切った体には少々厳しかったらしい。日の当たる花壇の近くを少し歩いただけで、ツキユメはすっかりへばってしまった。


「……まだ帰らない。ここからの景色も綺麗だし」


 強がり半分でそう言いながら、ツキユメはジョイから受け取った補水液をストローでちゅるちゅると吸い上げる。

 やや塩気の強いスポーツドリンクのような味は、この時代でも変わらない。

 朝昼晩と出される病院食も、ツキユメの記憶にあるものとそう大差はないように思えた。もしかしたら、ツキユメの時代に合わせたものを提供してくれているのかもしれないが。

 未来なんてものは、意外とこんなものなのかもしれない。

 花壇に咲き誇る夏の花々を窓越しに眺めながら、ツキユメはぼんやりと思った。


 この時代でも、車は空を飛ばないらしい。

 いや、飛ぶことは可能だけれど、個人が自由に飛ぶことは許可されていないのだそうだ。

 目に映る景色や人々には大きな変化はない。けれど、目に見えにくい部分で大きく進歩している。ツキユメの腰の下で椅子に変化しているジョイなどが、その最たる例とも言えた。体を包み込むように柔らかく、しかし必要なときには硬質化することもできる。変形は自由自在だ。どういう機構で動いているのか想像もつかない。


 体力づくりのための散歩の合間に、ツキユメはジョイからこの世界のことを少しずつ教えてもらっていた。

 ツキユメの時代から今日に至るまでの大まかな歴史、出来事、発展した技術など。

 ホログラムディスプレイで見せてもらうそれらにはあまり現実感が湧かなかったが、未来の技術に関しては実際に試してみたいと思わせるものが多かった。

 退院して一人ぼっちになることへの不安感と同じくらいに、早く外に出てこの世界のことを隅々まで知りたいという思いが、ツキユメの胸の中に募っていった。


 そんなことを考えていたからだろうか。

 ツキユメは、こちらに向かって歩いてくる人物に全く気付かなかった。


「カナザワさん、こにちぁ」


 ハッと思考の海から現実に意識を引き戻されたツキユメは、こちらを見下ろしている女性の姿を視界に捉えた。

 やや小柄で、褐色の肌。大きな黒い瞳はキラキラと輝いている。

 アップにした髪の色も闇のような黒色で、前髪を無造作に持ち上げてピンで留めているなど、全体的に活発な印象を受ける。

 身につけた長袖の白衣は一瞬、病院関係者かと思わせるが、機械油のような汚れがあちこちに付いているのを見ると、どうやら違うらしい。


「……どちら様?」


 少なくともツキユメには、見覚えのない女性だった。そもそもこの時代に知り合いなどいるはずもない。

 しかし名前を呼ばれたということは、人違いというわけでもないのだろう。


「あしはチャロていーまス。屋上にいるてゆから、ご挨拶しよかなと」

「はあ……どうも?」


 彼女の喋り方は、ツキユメにとっては初めて聞く不思議な感じのするものだった。

 方言、ではないように思える。なまりがあるわけではない。ただどこか……子供っぽい、と言えばいいのだろうか、所々で言葉やイントネーションがおかしい。

 そこでようやく、ツキユメは自分がこの時代の病院関係者以外の人間と初めて会話をしていることに気が付いた。担当医のサイトウや介助ロボットのジョイは、ツキユメが理解しやすい言葉を選んで使ってくれていたのだ、と。

 なにせ250年も経過しているのだ。昔でさえ、日本語の乱れがどうのという話は常にあった。むしろ、今こうしてほぼ完全に聞き取れているくらいには、言葉の変化が少なかったことに感謝するべきだろう。


「ほんと、あしらと全然変わらんスね。言わぇなわからんくらい」

「えーと……あなたは誰ですか?」


 ジョイが何も言わないということは、不審者などではないのだろうけど。

 そう思いつつも、ツキユメはやや警戒の眼差しを向けつつ尋ねる。

 いきなり知らない人に話しかけられれば、誰だって身構えざるを得ないだろう。

 それとも、未来の世界ではそうとも限らないのだろうか?


「あ、すません。いつもの調子で。あしはカナザワさんの身元引受人てやつス。退院はまだて言われたスけど、さき顔見ときたいな思て」

「え、あ、それはどうも、なんというか……ありがとうございます」


 それはツキユメにとって完全に予想外の返答だった。突然のことに面食らった形で、それでもどうにかお礼の言葉を口にする。

 身元引受人。

 まあ、普通に考えれば、リハビリが終わったので退院ですよと言って、右も左も分からない17歳の少女をポイッと未来の世界に放り出すというのは少々過酷だろう。

 そもそも、冷凍睡眠から目覚めさせるための手続きなどを行った人物が必ずいるはずなのだ。治療法が見つかったからと言って、医者が勝手に目覚めさせるというのは、まずあり得ない話だろう。

 となると、チャロと名乗った眼の前の女性は、多少なりともカナザワに関係のある人物なのだろうか。


「あなたは、カナザワ家の方なんですか?」

「ん、そスよ」


 当たりをつけて質問してみると、ビンゴだった。


「いちお、調べてみたスけど……あしはカナザワさんのおとさんのいもとさんの家系の子孫てことになるぽいスね」

「お父さんの妹さん……おばさんってことかな」


 ツキユメは、小学生の頃に数回顔を合わせたくらいだった叔母の姿を思い出した。

 確か、カナザワ重工に勤めているとかで、いつも油のにおいがしていたような気がする。そう振り返ってみると、なるほど目の前の女性の白衣についた油のような汚れもまた、叔母と同じく技術者特有のそれなのかもしれないと思った。


「病院からうちに連絡来て、ちょどあし独り身だし、なかなかない機会だし引き受けよ思て。退院したら一緒に住むことなんで、よおしくス」

「こちらこそ、よろしくお願いします。よかった、退院したら私一人でどうすればいいか不安だったんです」


 大きな目や人懐っこい笑顔が、微かな記憶に残る叔母のものと重なるような気がして、ツキユメは目覚めてから初めて、心の底から安心感を覚えた。


「そいや、カナザワさんてのもアレなんで……先輩て呼んでもいスか?」

「先輩?」


 そこは普通、名前で呼ぶとかそういう流れではないのだろうか。

 そう思いながらツキユメは首を傾げる。


「時代の先輩てことス。この時代、睡醒者すいせいしゃわりといるスけど、先輩は冷凍睡眠の黎明期れいめいきの人スから。なり珍しんスよ」


 ツキユメが冷凍睡眠装置に入ったのは、順番で言えば世界でもまだ一桁番台くらいの頃だった。

 事前に行われていた十年程度の冬眠実験の結果からメーカーは安全性を主張していたものの、それ以上の期間となれば実質的に保証はないも同然だった。

 更に、ようやく一部の富裕層向けに契約を開始したばかりで、値段も維持費も一般家庭ではとてもではないが手の出せるものではなかったこともあり、実際にその装置に入る人間はまだまだ少なかった。

 そういう意味ではツキユメは、この未来において最も古い時代からやってきた人間ということになる。他の入院患者から好奇の目で見られるようなことが一切なかったので気付かなかったが、よくよく考えてみればなかなか珍しい種類の人間なのだ。


「呼び方はまあ、好きにしてください。私もチャロさんって呼べばいいですか?」

「さんなんて、いいスよ」

「でも、私まだ17歳ですし……チャロさんはおいくつなんですか?」

「22ス。でもほと、そな礼儀正しい敬語使わえたら体ムズムズしちゃうから。どぞ砕けた感じでよおしくス」

「そうで……そう? ちょっと慣れないけど、あなたがそう言うなら、がんばるよ」

「ああ、遥かにいいスね」


 チャロにつられるように、いつの間にかツキユメも笑顔になっていた。

 年上の子孫と、年下の先輩。不思議な感覚だったが、悪くない。


「じゃまた来るス。あしも頑張らとなぁ……」

「うん、ぜひまたお喋りしましょう。今日はありがとう」


 チャロを見送ってから気が付くと、ずいぶん時間が経過していた。

 それからツキユメはもう一度外に出て少し散歩をして、軽くフラフラになりながらもジョイの手を借りずに自分の足で病室まで戻った。

 早く退院してこの世界を肌で感じたい。

 チャロと会ったことで、ツキユメの中のそんな思いが大きく膨らんでいた。

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