跳躍

眠り姫

 ツキユメは、真っ白な霧に包まれたような意識の中で、自分が覚醒しつつあることを感じた。

 シューシューという蒸気が漏れるような音が聞こえてくる。

 呼吸が苦しいような気がして、顔にかかっている何かを退けるために手を動かそうとしたが、まるで全身が麻痺しているかのように言うことを聞かない。

 一瞬、パニックになりかけたツキユメの耳に、絶妙なタイミングで男性の声が聞こえてきた。


「おはようございます、カナザワさん。私の声が聞こえますか? 聞こえたら目を開けてみてください」


 ツキユメは言われて初めて思い出したかのように、恐る恐るまぶたを開けた。パリパリと睫毛が引っ張られるような妙な感覚の後、白い光が目に飛び込んできた。

 しばらくして光に目が慣れてくると、薄いピンク色の天井が見えた。

 何やらつるりとした白い機材も、いくつか視界に入っている。

 どうやらここは病院のようだ、とツキユメは思った。


「声は出せますか? 自分の名前を言えますか?」


 もちろん、自分の名前くらい言える。

 そう思ったのだが、喉がかすれてうまく声が出ない。

 舌も思い通りに回らず、ツキユメは苦労しながら一言一言ゆっくりと、自分の名前を口に出した。

 聞き慣れないような自分の声に、一瞬耳がおかしくなったのかと思ったが、むしろこれは喉の方がひどく不調なのだろう。ツキユメは何度か軽く咳払いをしてみたが、喉の違和感は消えなかった。


「ご自身の現在の状況について、把握できていますか? 説明が必要ですか?」


 ツキユメはそう問われて、改めて自分の置かれた状況について考えてみた。

 ここは集中治療室I C Uに似ているが、どうも自分が運ばれたことがある部屋とは様子が違うようだ――そこまで考えたところで、ようやく抜け落ちていた記憶が順を追うようにして戻ってきた。


 そうだ、自分は難病に冒されてもう何年も入院しているのだった。

 物心つく頃には既に発症していたこの病気は、全身の骨が時間とともに変形していき、骨の周囲の筋肉などがそれにつられるようにして硬化してしまうというものだ。

 これとよく似た難病指定されている病気とは微妙に違うものらしく、世界中でもほとんど例がないという話だった。

 病気が進行するにつれて脊髄が圧迫され、同時に全身の筋力が著しく低下していくため、このままでは20歳の誕生日を迎えることは難しいだろうと言われていた。

 対症療法的な手術でどうにか延命を図り、ツキユメが17歳になったころ、当時初めて実用化にこぎつけたばかりの長期冷凍睡眠を両親から勧められたのだった。


 そして今、自分は目覚めている。

 その意味に思い当たって、ツキユメは半信半疑のまま自分の推測を口にした。


「ここは……未来……なんですか……?」

「はい。あなたが冷凍睡眠装置に入った時代から、およそ250年後の世界ということになりますね」


 250年。その言葉の意味を実感できず、ツキユメはしばらくぼんやりと天井を見つめていた。

 カプセル状の装置に入り、両親の顔を見ながらゆっくりと装置が閉鎖されていく瞬間を思い出す。鎮静剤や様々な薬剤を何本も投与されたにもかかわらず、激しい恐怖と悲しみが胸の中に去来していた。

 少なくとも、もう二度と家族に会うことはできないだろう。そして、病気の治療が可能になる未来まで眠りにつくということは、裏を返せば治療が可能にならなければ二度と目覚めることはないということだ。

 それは死と同義だった。

 自分はこれから死ぬのかもしれない。そう思うと、もしも体が満足に動いたなら、装置の蓋を蹴破って外に飛び出そうとさえしただろう。

 しかし、仮に薬を投与されていなかったとしても、もう全身に力は入らなくて、だからツキユメは半ば諦めの気持ちとともに、意識を手放したのだった。


「カナザワさんのご病気については、治療が完了しています。変形した骨を正常な状態に戻し、お顔の整形手術もさせて頂きました。ご病気にならなかった場合に、どのようなお顔だったかを正確にシミュレートして行いましたが、ご不満があれば変更も可能です。今ご覧になりますか?」


 どうやら自分の病気が治っているらしいということは、ツキユメ自身、まっすぐにベッドに寝かされている時点で気が付いていた。かつての全身が歪んだ状態では、まともに仰向けになることさえできなかったから……。

 さらに、顔まできれいにしてくれているという。

 自分の顔を最後に鏡で見たのはいつだっただろうか、とツキユメは思った。

 髪が抜け、鼻や頬骨が変形し、化け物のようになった自分の顔を直視するのは、17歳の多感な少女にとっては拷問のようなものだった。


「……見せてください」


 迷った末に、ツキユメはそう言った。

 今見なくても、健康な体を取り戻し、日常生活を送れるようになれば、嫌でも見ることになる。先送りにする意味はあまりない。


「わかりました」


 男性の声とともに、見上げている天井の一部が一瞬で長方形に切り取られる。その四角の中にはベッドに横たわっている少女の姿が映っていた。

 最初、ツキユメはそれを見て、どこか別の病室の患者が映っているのだと思った。

 だが普通に考えればそんな妙なことがあるはずもない。

 ツキユメは試しに首を少し傾けてみた。すると予想通り、映像の中の少女も首を傾ける。やはり天井に映っている少女が自分の姿なのだ。

 豊かな黒髪は短く切り揃えられており、切れ長の目は少し眠そうに見える。スッと通った鼻筋に、血色の良い唇。あけすけにに言ってしまえば、可愛いというよりも、ボーイッシュなイケメンといった感じの美人顔だった。


「これが私……」


 天井に映る少女は驚いた表情を浮かべていた。

 ツキユメはしばらくの間、どうしてもそれが自分自身の顔だとは思えなかった。

 しかしじっと見つめていると、唇の左下に小さなほくろがあることに気が付いた。

 病気を発症する前に鏡で見た自分の顔にも、確かにそれがあったのだ。

 一度そう気付いてしまうと、二重ふたえの瞼の感じや眉の形など、そういえば自分はこんな顔をしていたのではないかと思えてくる。あの頃の自分が成長したなら、なるほど確かにこんな顔になるのかもしれない。

 というより、未来の技術で整形されている時点で、病気にならなかった場合の自分の顔は、ほぼ完璧に再現されているはずだ。


 そう考えると、ツキユメは途端に嬉しくなった。

 喜びの感情が実感となって、心の奥底で震えている。

 しかしその感情は、何かに阻まれているかのようで、水面には顔を出してこない。

 この感覚をツキユメは知っていた。恐らく感情を抑制する薬が投与されているのだろう。眠りにつく前にも何度か経験したことがある。

 数百年ぶりに目覚めた患者に対して、様々な変化に心が衝撃を受け過ぎないように配慮してくれたのだろうとツキユメは理解した。


「いかがですか。もしお気に召さなければ、変更することもできますが」


 ツキユメの心の動きが一区切りついたのを見計らったように、再び男性の声が部屋の中に響いた。


「いえ、大丈夫です。それより……」


 ツキユメは、先程から感じていることに対して質問してみようと思った。


「首から下が、動かないんですけど……」


 目覚めてから数分が経過しているが、首から下が完全に麻痺したかのように感覚がないのだ。

 これも薬による影響ならば問題はないのだが、もしも手術の後遺症で全身麻痺になってしまったのだとしたら、話は違ってくる。


「それについては、問題ありません」


 だが、落ち着いた声がその最悪の想像を否定してくれたおかげで、ツキユメの心は安堵に包まれた。


「カナザワさんの場合、体の大部分を取り替える必要がありました。特に両手足に関しては総取り替えとなりましたので、それらが馴染んで落ち着くまで少し時間がかかるのです。かなりの痛みが生じるため、一時的に体の感覚を遮断しています。それが完了する前に目覚めて頂いたのは、脳の機能に不具合がないか、また、目や耳といった感覚器官に異常がないかの最終チェックを行うためです」


 自分の現状について、一度にたくさんの情報がもたらされたが、ツキユメはかろうじて全て理解することができた。

 もしかしたら脳の状態をモニタリングしていて、どのくらいの情報量なら受け止め切れるか計算しているのかもしれない。


「そうですか……よかった」


 体のパーツを取り替えたというのはかなり衝撃的な話だったが、250年後の未来では人間の体の部位くらい、いくらでも複製できてしまうのだろう。文明の進化に伴い、倫理観もアップデートされているに違いない。

 仮にその辺りが未だに解決されていなかったとしても、捻れて枯れ木のようになってしまった手が新品に戻るというなら何も文句はない、とツキユメは思った。


「視力、聴力、嗅覚、皮膚感覚、声帯に見当識、全て異常は見られませんね。明日からリハビリに入れますよ」


 てっきりこれから認識力のテストや目の検査などを行うのかと思っていたツキユメは、その言葉に驚いた。

 自分の体には、呼吸を補助する装置はおろか、検査のためのコードすらつながっていないのだ。恐らくこのベッドの脇に立っているつるんとした白い機材によって、必要なデータは全て収集されていたのだろう。

 迅速で、簡潔で、無駄がない。なるほど未来だなぁ、などと当たり前のことをツキユメは思った。


「あの……私、これからどうすればいいんでしょう」


 長い眠りから目覚めて、病気が治って、それで……それから、自分は何をすればいいのだろうか。

 その疑問を口に出してしまうと、それはツキユメの心の中にある漠然とした不安を自覚させた。

 もうこの世界には、彼女の知っている人間は誰も生きていない。完全なる孤独だ。

 長年の入院生活によって、ツキユメは孤独に対するある程度の耐性を獲得していたが、今回ばかりは時代ごと断絶されているという圧倒的な違いがある。

 これから先、ちゃんと生きていけるのだろうか。そういった不安も、やはり薬の力なのだろうか、それほど心を圧迫することなく水面下で蠢いているだけだったが。


「まずはリハビリをしっかりやりましょう。一人で歩けるようになるのが目標です」


 ああ、そうだ、とツキユメは思った。

 もう何年も歩いていない。歩けていない。足の骨が歪んで動かせなくなってから、ずっとベッドと車椅子の上で過ごしてきたのだ。

 だが、これからは自分の足で歩ける。歩かなくてはならない。

 漠然としたいつかのことではなく、具体的な明日の目標を提示されたことで、ツキユメの不安は自然と消えていった。


「……頑張ります。きちんと、一人で歩けるように……」

「すぐに歩けるようになりますよ。そのためにも、今は少し休みましょう」


 そう言われると少し目が疲れたような気がして、ツキユメが目を閉じると、その意識ごと世界は闇の中に溶けていく。

 これまで眠っていた250年に比べれば一瞬にも満たない眠りに、彼女はゆっくりと落ちていった。

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