【訪問者1】

 研究所から戻ったリンが自宅の扉を開けると、普段なら家事や掃除をしているはずのホームヘルパーの女性が所在なさげに立っていた。


「どうしたんです、タナカさん?」


 リンは今までにこうして出迎えをされた経験が一度もなかったため、怪訝な表情で声をかけると、タナカは待ちわびたような顔で近付いてきた。もしかすると、リンが帰ってくるまでずっと玄関で待っていたのかもしれない。


「ああ、奥様お帰りなさいませ。それがねえ、お客様なんですよ」


 タナカはしきりに家の中を気にするような素振りをしながら、小声でそう言った。


「お客様?」

「ええ、本人は奥様のご友人だって言うんですけど、あたくしには見覚えのない方なんです。奥様はお出かけになっていますって言ったんですけどね、それなら待たせてもらいますって……」


 先程からタナカがチラチラと気にしているのは、どうやら客間のようだった。


「セールスか何かだったら嫌だと思ったんですけどね、あたくしが知らない奥様のお知り合いだったら追い返したら悪いと思って、とりあえず待って頂いているんです。連絡しようと思ったのに奥様、電話も通じないし、どうしようかと思って」


 ヘルパーのタナカはこの家に勤めてもう10年以上になる。リンの交友関係についても大体把握していたし、家の中のほとんどのことは彼女の判断に任せていたため、今回のようなケースは珍しいものだった。

 訪問セールスというのも最近ではめったに聞かない言葉だ。一昔前には年配者を狙う詐欺が流行したため、知らない相手からの電話や突然の訪問は全てシャットアウトするようにと政府レベルで推奨された影響で、今ではそうした時代遅れの手法はほとんど姿を消している。


「ごめんなさい。実験室の中だったから、接続が切れていたのね」


 リンが端末を確認すると、タナカからのメッセージがいくつか入っていた。

 『追い返して失礼があったら嫌だから、奥様にお任せしますよ、いいですね』というメッセージが届いたのは今から20分ほど前になっている。

 とにかくこれ以上待たせるのもいけないと思い、リンは自室に戻らずそのまま客間に向かおうとした。


「そういえば、タナカさん。お客様のお名前はうかがっているの?」

「ええ。確か……」


 タナカから客人の名前を聞いたリンは、サッと表情を変えた。客間へ向かおうとしていた足を反転させて、急いで自室に戻っていく。


 上着を脱ぎ、鏡に向かって軽く髪を整える。アップにした灰色の髪は出かける前と変わらず乱れはない。

 次に、念入りに化粧を直す。皺やシミの除去を頻繁に行っているため、それらを隠す必要はあまりないのだが、こうして鏡に向かっていると、唇の色や目の下など気になる部分がいくらでも見つかるような気がした。

 あまり時間をかけてもいられないため、後ろ髪を引かれるような思いで自室を出る。再び客間の扉の前まで来たリンは、軽く深呼吸をした。

 扉を開けようと手を伸ばした時、リンは自分の手が震えていることに気が付いた。

 そんな震えを振り切るように毅然と姿勢を正し、ゆっくりと扉を開ける。


 リンは一瞬、言葉を失った。


「リンちゃん、おかえりなさい。久しぶりね~」


 ソファに腰掛けて待っていた客人は、部屋に入ってきたリンを見るや嬉しそうに駆け寄ってくると、彼女の節くれ立つ手を両手で包み込むようにして握った。


「マユさん……帰っていたんですか」

「ええ、ちょうど今朝ね~」


 かつてリンが通っていた大学の教授であり、リンの奇妙な隣人であり、同じ研究を志す者であり……先日、亡くなったはずの人物。


 リンは、自分の手を包むマユの手の柔らかさを夢のような心地で感じていた。

 皮膚が擦れるくすぐったい感触。確かな体温。懐かしいマユの声、匂い、そして何よりその顔。脳を刺激する全ての情報が、これが夢ではないと証明している。

 リンはそれ以上、何を言えばいいか分からなかった。

 入り口で立ち往生するリンの後ろで、お茶と菓子を運んできたタナカが怪訝な顔をしていた。

 扉の前を塞いでいることに気付いたリンは、慌ててソファに腰掛けた。マユもリンの正面にゆっくりと座る。

 温かいお茶と甘い菓子を置いてタナカが退室するまでの時間で、ようやくリンは混乱していた思考を落ち着けることができた。


「マユさんは……その……コールドスリープでもしていたんですか?」


 自分で言った言葉がひどく間抜けなような気がしたが、それでもリンはそう質問するしかなかった。

 目の前に座るマユの姿は、若々しいままだった。数十年前に息子のカイトの結婚式で見た時の姿と寸分違わなかったのだ。

 その外見は20代後半から30代前半くらい。

 いや、そもそも考えてみれば、息子の結婚式の時点でその若々しさを保っていたこと自体がおかしかったのではないだろうか。

 ゆるくウェーブする栗色の髪は艷やかで、肌は自然な瑞々しさを保っている。化粧や美容整形で誤魔化しているといったレベルではない。全身を人工物と取り替えたと言われればなるほど納得できるかもしれないが、現在の技術では全身義体など夢のまた夢の技術だ。それならば、最後に残された選択肢は冷凍睡眠ということになる。


「長期間のコールドスリープはまだ実用化されていないそうよ~?」

「……知ってます」


 現在の技術では、長くてもせいぜい数週間程度しか仮死状態を保つことができないらしい。それ以上となれば生命に危険を及ぼす。年単位などもってのほかだ。

 リンは当然、それを承知していた。その上で、どこかの国では密かに長期冷凍睡眠の実験が行われていたのではないかと……そんな都市伝説じみた考えが浮かんでしまったのだった。


「あなたは……本当にマユさん、ですよね?」

「そうよ~?」

「どうしてそんな……」


 どうしてそんなに若々しい姿のままなのか。

 リンはそう言いかけて、ようやく気付いた。

 マユが海外へ旅立った後、どうして送られてくる写真や通話の時に自分の顔をかたくなに隠していたのか。

 カイトの結婚式の時、久しぶりに帰ってきた彼女は風邪気味だと言って大きなマスクをして現れた。それでも手足や目元の若々しさにリンたちは驚き、最先端の美容技術はすごいなどと的外れなことを言い合っていたのだった。

 あの時に気付くべきだった。

 マユは歳を取らない。

 リンが初めて大学で彼女と出会った時からずっと、マユの肉体は一日ぶんたりとも時間の経過による影響を受けていなかったのだ。


「驚かせてごめんなさいね~。でも、きっと皆そんな顔になってしまうから……色々な人を困らせないように、私は日本を離れたの」


 マユの言葉はリンの胸の中にすとんと下りてきた。

 そりゃそうだろうなという不思議に落ち着いた気分ですらあった。


「それで、あんなをしてきたんですね」


 リンは、数週間前にマユから受け取ったメッセージを思い返していた。

 それは、なんとも奇妙な依頼だった。

 自分が死んだことにしてほしい。娘たちにも知らせないように、死亡届を出して、納骨をして、自分という存在が消えたことにしてほしい。

 リンはマユの真意を何度も問いただそうとしたが、彼女に答える気がないと分かると、仕方なくそれ以上聞くことを諦めて依頼を受けることにした。

 一度こうと決めたマユの意思を曲げることはできない。長い付き合いのリンはそれを良く理解していた。

 かくして、マユの死亡はカナザワグループの総力をもって偽装され、先日の納骨に至ったのだった。

 仮に誰かがあの埋葬された遺骨を調べても、歯型やDNAはデータベース上のマユのものとぴったり一致する。イタリアまで飛んで現地の医師を訪ねてたとしても、決して不自然な証言は出てこない。リンはそこまで徹底してやった。この数十年の付き合いの中で、マユから正式な形で依頼をされることなど初めてだったから、きっと何か重要な意味があるのだと信じて。


 だが、その真相がまさかこんなことだったとは、さすがに予想外だった。

 老いることのない人間など存在しない。

 存在しないはずなのだ。普通ならば。

 しかし、リンが見た戸籍によれば、マユは今年で120歳を迎えるはずだった。

 さらに奇妙なことに――その戸籍に載っていたのは、見たことも聞いたこともない人物の名前だった。

 つまり、恐らくあの戸籍すら、見知らぬ他人のものだった可能性が高い。


 こうなって来るともう、本当の彼女の年齢は一体いくつなのか見当もつかない。

 リンは様々な想いがこもったため息をそっと吐き出した。

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